書籍・読んだ本のレビューなど

ブラック・スワン

「ブラック・スワン」を観に行った。

僕の好みの映画だった。ホラー気があって、グロくて、アートで、知的だ。
ナタリー・ポートマンがアカデミー賞とってるけど、こういう売れ線の映画に箔をつけるためにあるような賞だと興味は惹かれない。
でも、予告編のCMでヒロインの肉体が鳥に変容していくイメージがあって、あぁヒロインの狂気の表現がうまいなぁと。
ちょっとThe Rasmusの 「In The Shadows」のPVをパクってるのかなとも思ったけど。

朝の上映は9:20からとサイトに書いてたと思ったけど、行ったら9:40からだった。
「あれ、20分からじゃないの?」という声がちらほら聞こえる。

ナタリー・ポートマン演ずるヒロインは、繊細で純粋で、いつも少し怯えた目をしている。
なるほど白鳥の湖のホワイト・スワンにはぴったりだ。
だが、ブラック・スワンを演じるためには、彼女の几帳面で正確な踊りだけでは足りない。
男を誘惑する大胆さと、官能を感じさせなければならない。

キャスティングがうまいなぁ。ヒロインの演技の課題は、ナタリー・ポートマンの課題と重なる。
綺麗どころのお姫様役だけでなく、女優として一皮むけたところを出したい。
母親役は…バーバラ・ハーシーだ。びっくり。老けたな。「ナチュラル」「ハンナとその姉妹」のころのめっちゃ綺麗な時期の作品のイメージが強いので字幕みるまで分かんなかった。
引退する(させられる)プリマドンナ役がウィノナ・ライダーですが、このキャスティングも凄いな。「美人だ、でも、もう若くない」という女優の痛いところをちゃんと演じてくれます。
あと、監督がダーレン・アロノフスキーじゃないですか。何にも調べずに観に行ったので、気づかなかったけど、メチャ実力派監督だ。クラブで踊るシーンの編集なんて達人技だと思ったけど、彼なら納得です。

ウィキペディアを見ると、
>ポランスキーの『反撥』(1965年)と『テナント/恐怖を借りた男』(1976年)が最終的に映画に「大きな影響」がある
とのこと。
「反撥」に近いものは、たしかに感じました。
心理学的な捉え方というか…、とくにパニックに陥ったヒロインが自分の背中を引っかいてしまっていることに気づいて慌てて鋏で爪を切るシークエンス。大役のプレッシャーに押し潰されそうなヒロインが、(彼女を管理する母親のように)爪を切り、小奇麗なヒロインとして自分を管理しようとする。管理できない自分を責める気持ちでいっぱいになっているその瞬間に、鏡に一瞬彼女の顔が映るんだけど、鏡のその表情は「ニヤリ」と笑う。その表情は、彼女の殻を破るブラック・スワンの表情だ。ブラック・スワンは、鋏の角度を変えて指を傷つける。すると、突如表情が戻って、パニックを起こすヒロインの人格が帰ってくる…という場面。
主人格をおびえさせる、悪意にも見える別人格は、彼女の成長を予感させるものなのですが、これが「反撥」に近いかなと。「反撥」のヒロインは性的に抑圧されているんだけど、彼女が怯えている対象は、その抑圧を解放する方向にある。抑圧された人間性の悲鳴みたいなものが狂気として現れているけど、それが統合されれば、ヒロインは殻を破ることができる。その位置づけが似ているね。

ホラー映画は、殺人鬼が出てくるものばかりが扱われるけど、ほんとのところはダーレン・アロノフスキー監督が描くような恐怖を扱うべきだよな。
恐怖の位置づけの程度が低いので、ホラー映画はホラーでしかなくなってしまう。上質な恐怖を扱えば、ホラーは神話的な魅力をもった知的な作品になるんだよ…と実感したのでした。

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フィロン研究

加藤周一著「現代ヨーロッパの精神」
グレアム・グリーンの作品『情事の終わり』の評論が印象に残っています。
『情事の終わり』のヒロインは恋に落ちるが、三角関係のなかで罪悪感を感じている。
空襲によって恋人が瓦礫の下敷きになったとき、彼女は神に祈る。彼をよみがえらせてくれたら、二度と彼と姦通の罪は犯さないと。
そして男は奇跡的に蘇生するが、彼女は誓いのために苦悩しつつも彼とは別れてしまう。
そのヒロインの日記のなかの祈りの一節が美しい。

「苦痛を求めて、私には、平和が授けられました。
それを彼にも与えてください。私の平和を彼に、―彼の方がもっと平和を必要としているのです」

このような気持がつねに高揚しているわけではない。次の日には、

「私は疲れ、苦痛を望まない。
私にも、モーリスが、普通の腐敗した人間の愛が、必要です。
私が基督の苦痛を望むようになりたいと望んでいることは、神も御存知の通り。
けれども、それは今ではない。どうかしばらく苦痛を取り去ってください。
そしてまた別のときにそれを返してください」

と苦悩を告白する。
うーむ。この祈りは美しいなぁ。

平石善司著「フィロン研究」
興味のある章からあちこち読んでます。やっぱりキリスト教関係の事柄が書かれているあたりからね。
フィロンのアレゴリー解釈というのは、キリスト教のテキストかなと思ってしまうぐらい印象が近いです。
やはりキリスト教の最初期というのは、まるっきりヘレニストの文化なんだなぁと。

フィロンがキリスト教徒に似ているなぁと思う点はいろいろありますが、たとえば、信仰をもっているのだけど旧約聖書に矛盾を感じているところなどでしょうか。でも、フィロンにすれば、それは字義にとらわれて読んでいるから矛盾におもえるけど、アレゴリー解釈によってその真実性があきらかになるのだ、というようなことを言っているわけです。
さらに、フィロンはロゴスと、知恵の神話と、グノーシスを習合して理解している。
ヨハネ神学の先駆者みたいなもんです。

あんまりちゃんと読んでなかったけど、エウセビオスの「教会史」にもフィロンが登場していたんですね。
キリスト教と何か関連のある人物と誤解されて登場してるみたい。

ヨハネ福音書は、一応ギリシャ語で福音書を書いているわけだけど、フィロンなどを読んでいたのかな。
用語がかなり似ているので、直接にせよ間接にせよ、何らかの影響を受けているのかなとは思うけど。

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ナザレのイエス

『ナザレのイエス』ボルンカム
イスラエルの生活の拠りどころである律法(トーラー)も、彼らの本性とか倫理観の総括とはまったく異なったものに基づいている。この律法は、彼らのなかに眠っている感情や世観の表現でも、彼らの民族性や人生経験や形而上学的組織化でもなく、またはギリシア的現代的な考え方によって言い表わされるものとも異なる。むしろこの律法は、イスラエルに対する神の権威ある意思表示であって、イスラエル自身の願望や意思にさからって、雷鳴や稲妻をともなって与えられたものである。

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上記はボルンカムの『ナザレのイエス』からの引用です(p45~)。
聖書を読んでいると、それが倫理をまとめたものだと思って読んでしまう。
でも、読んでいるとそういうものとは違った読みごたえです。では、聖書とは何なのか、というと上手く答えられない。
そうしてもやもやした気分が残るわけです。

上記のボルンカムの一節は僕のもやもやを解消してくれます。
聖書は、神の権威ある意思表示である、というのは巧いまとめかたです。
しかも、それは民の意思に逆らって、民を圧倒し、民に権威を見せつけてくる存在です。

僕なんかはどうしても、個人的な罪とか罰などに結び付けて考えてしまいます。
でも、やっぱり「民」という単位で考えられている印象です。
苦境に陥ったときに、その個人の罪を問題にするのか、「民」の問題として理解されるのか、ではまるで意味が違います。
だから、(個人の)倫理だと考えてしまうとちょっとズレる気がする。
倫理観の総括などではない。

ボルンカムの「神の権威ある意思表示」という説明がとくに感心します。
詩篇29では、ヤハウェは天上の海のうえで雷鳴を響かせ、大地をゆるがす。
これは怒りの表現でもなくて、ただ人間や動物たち、また森の木々や大地まで圧倒する姿を描く形で、神を賛美しているわけですが。
いわば、自然が人間を圧倒しているような、人間が自然の支配者ではく、また人間自身の支配者ですらないことを見せつけられるわけです。
聖書の基本的なトーンはそのような畏怖の感情ではないかと思います。

それがいわば神の権威ある意思表示として描かれている。
それらを、神のものを神に帰し、祈り、賛美するなかで形作られて聖書になっている、という感じでしょうか。

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ハナ・アーレント『全体主義の起原 3』を読んだ

「全体主義の起原 3」から読み始めました。「1」「2」は後回し。

まだザックリと読んだだけですが、うーむ。どうも煙に巻かれた気分になる本です。
『全体主義という現象はその要素や起源からはあまり説明がつかない』(p270)と書いてますしね。まぁそのままの印象です。

専制と全体主義が往々にして混同されているので、本書はこの違いを論じているところが多い。
でも終盤になってモンテスキューが君主制、共和制、専制の特徴を論じたものを引いて、モンテスキュー的な表現で全体主義を表現しようとしているのだが、あんまり成功してない。そのためか後半になって全体主義の輪郭が曖昧になってゆく印象があります。

間違っているかも知れませんが、乱暴に要約すると、全体主義が台頭してきた時代の意識は次のようなものだったようです。
それまで人々は自分の属する階級に組み込まれ、利害関係はその階級を代表する政党によって調整されていた。
しかし階級社会が崩壊して、根無し草的な『大衆』となった人々は、政治的にはどの政党にも組み込まれなくなった。
従来の政党やモラルは偽善的であると見られるようになっていた。
そのような時代に、全体主義のプロパガンダは魅力的に見えたのだ。
世論が触れたがらないことを敢えてアジテーションに盛り込んで、差別的で暴力的なアピールをする姿は、従来の偽善的なモラルに拘束されない力強さの表現となった。
だが、そのプロパガンダの内容は荒唐無稽な陰謀説の類である。
それでも彼らは、政府が否定し隠し立てするものは真実であるに違いないと信じてしまった。

虚構を信じ込んでしまう人々だけではない、虚構であると「見抜いた」人々はその「嘘」の裏に戦略を感じとりさらに指導者を信頼した。
こうして「見え透いた嘘」が信頼されてゆく。
このあたりの全体主義の初期プロパガンダに流される人々の心理の考察は面白かった。

全体主義が実権を握るとまた事態が一変する。
プロパガンダは必要なくなる。かわりに暴力によって支配できるからだ。
あっという間に「敵」は一掃される。
しかし、そこから全体主義の支配の本質が現れてくる。
すでに敵は存在しないにも関わらず、「敵」として人々は告発され、実際には何の罪も犯していないのに次々粛清されてゆく。
いや、初めから「敵」とされ殺された人々もとくに罪を犯したわけではない。
初めから全部虚構なのである。
全体主義が続くかぎり「敵」との闘いは続く。
ひょっこりと自分が「敵」にされたりする。全体主義が続く限りはそのような抹殺が続くのだ。

これにブレーキが掛けられないのは全体主義において「意見」が排除されるためである。
これは「見え透いた嘘」を信頼すること、その絶対的な信頼のために「意見」が排され、指導に従ってただ行動するように組織された結果である。
このシンパの組織の仕方などの考察も面白かった。

終盤のまとまりがないような気がしてモヤモヤ感は残ったけど、全体的には面白い考察が読める本だなとこうしてメモをとってると思えてきました。

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大貫隆著『グノーシス 「妬み」の政治学』を読んだ。

大貫隆著『グノーシス 「妬み」の政治学』を読んだ。

久しぶりに刺激的な本だった。
何といてもマックス・ウェーバーを批判していて、ブルトマンにも触れている。それがとても美味しい。

グノーシスの神話はゴチャゴチャしていてどうも理解しづらいのですが、「妬み」という切り口で見ると、そこで問題にされていたものが見えてくるようです。
聖書学の本ばかり漁ってますが、ほかの古典とどうも接点が見つけられなかったので、広がりがなかったのですが、この本でその当時の周辺世界のつながり方が見えてきた感じです。フィロンなど同時代の哲学者や、そこからプラトンあたりへつながっていく道が見えた気がます。
僕はヤコブの手紙を読んでますが、「妬み」についてヤコブも語ってますし、ちょっとグノーシスとの関連を疑っている表現もあります(ヤコブ 4:5あたり)。ヤコブの手紙も、パウロ神学との関係だけで読むと煮詰まってしまうので、どこか別の切り口が欲しいなぁと感じてたところでした。「妬み」をどうヤコブがとらえているのかチビチビ読んでいこう。

マックス・ウェーバーは聖書学の専門家ではないけど、結構聖書学に影響を与えている。
旧約の研究者のG・フォン・ラートやM・ノートの学説に影響を与えていたりする。大貫氏自身も本書のあとがきのなかでウェーバーの『古代ユダヤ教』に「すっかり魅了され」たと書いている。
素人の僕なんかだと、まぁただただ圧倒されながら読むわけですが、さすがプロの人たちは研究成果から先人をきっちり批判します。
そういうのは格好良いです。
ウェーバーの影響は、グノーシス論についても大きい。大貫氏はウェーバーの論の中にねじれを見出だし、批判してます。

さらにブルトマンについては『ヨハネ福音書』の注解の序文を大貫氏が書いてますが、ほぼその内容を下敷きにしてるみたい。
ウェーバーと同じく、グノーシスを考察する際の考察にねじれが生じているという点ですね。
いくつかの点についてはすでにブルトマンの説は覆されているそうです。
ブルトマンの説についてあっているか、間違っているか、という話はまぁともかく。大貫氏の本の面白いところは、ざっくりとでもブルトマンの方法を辿ってくれるところだと思います。
ブルトマンとウェーバーについて、「宗教史学派」の系譜につながるものとして解説されている。

聖書学関係の本を買って、読んだけど、知識不足でまるで理解出来てないところがまだまだある。
ブルトマンの『ヨハネ福音書』の注解も、買っているけど、ちゃんと読んでない。勿体ない。
でも、今回ちょっとグノーシスのイメージができたので、読み直してみよう。

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雑感 異端

まだ途中だけどエウセビオスの「教会史」を読んでます。
キリスト教の権威を証明しようとした強引な論証が多くて、そこは苦手なので読み飛ばしてます。
新約文献に関連した伝承が色々載っていて面白い。
でも、数百年経っているのでかなりのところ疑わしいのかなと思う。ニコラオ派の記載とか、ありそうな気もするけど、そういう事態を背景にヨハネの黙示録が書かれているのかというとちょっと違うような。逆にヨハネの黙示録の記載から想像してつくられた伝承のような印象をうけたりする。
エビオン派について侮蔑的な論調なのが印象に残る。エビオン派については他の文書も残っているのだろうか。異端論駁あたりかな。
エビオン派自体が古いかどうか知らないけど、たぶん原始教会の発端のところはエビオン派に近い一派なんじゃないかな(初代の教会がエビオン人と呼んだと書いているので、その当時から居たのでしょうけど)。エビオン派はマリアの処女懐胎を否定している。そういう一派がはじめにいて、それから彼らと交流があったヘレニストとの間にイエスの神性を重視する一派が生じたと考えるのが妥当なように思えるので、エビオン派がどういう位置づけにあったのかちょっと気になる。
古い一派が新しい神学に駆逐され、やがて異端として侮蔑されてゆく。
エビオンは「貧しい」という意味ですね。貧しい人々が、じわじわと異端にされてゆき、侮蔑されてゆくわけです。それは彼らの神学が誤っているからだ、と教会のなかでは説明されるのでしょうけど。
ある一派が「正統」を主張しはじめ、一方の派は異端とされる。それが貧富の差のような形にはまると、貧しい人々が信じていたものは取り上げられ、侮辱されるようになる。そうして、敬虔さの表れであった貧しさは、軽蔑されるべき特徴に変わってしまう。
「薔薇の名前」でもそのようなことが語られていた。異端というのは思想によって生まれたものではない。はじめからそこにいた貧しい人たち、はじき出された人たちが救いを求めた運動なのだと。
そうやって救いを求めた人々がいて、でも結局解決しなくて、トカゲのしっぽを切るように切り捨てられたところ。それが異端される部分なんでしょう。

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「ブルトマン著作集 4 新約聖書神学 Ⅱ」を読んだ

パウロの歴史的位置は次のように示される。すなわち、ヘレニズムキリスト教の枠の中に立って、ヘレニズム教団の宣教(ケリュグマ)のなかにはたらいていた神学的モチーフを、明晰な神学的思想に高め、ヘレニズム的ケリュグマのなかに隠されていた問いを自覚させ、それに決着をつけ、こうして…われわれのもっている資料から判断される限り…キリスト教神学の基礎を置く者となったのである。 (ブルトマン 『ブルトマン著作集 4 新約聖書神学 Ⅱ』 p3)

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史的イエスへの関心から新約聖書の関係の本を読んでます。
そういう本を読んでいると、史的イエスの研究の金字塔的研究をなした人としてブルトマンの本は紹介されているのを何度も見かけます。
そこから興味を持って、『共観福音書研究史』『イエス』『ヨハネ福音書』などは読んでますが、正直数冊読んだだけでは、ブルトマンは奥が深くてまだ彼の研究の全体像など見えてこない印象です。
神学などは縁遠いので敬遠してましたが、ちょっとその手の本も読んでみようかなと。
『ブルトマン著作集 4 新約聖書神学 Ⅱ』は、パウロとヨハネ福音書・ヨハネ書簡の研究です。

上記に引用した文章から始まるのですが、ブルトマンの解説は巧いなぁと感心させられる。
こういう風にスパッと説明されると、何か気持ちいい。
序盤の数ページは、何度も読み返してしまいます。
この感覚って伝わるのかな。

文章の密度が高く感じるというか、…研究の完成度の高さを感じさせるんだな。
まだいい加減にしか読んでないので、ちびちび読んでゆこう。

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佐竹明著「ヨハネの黙示録」中巻

昔「現代思想」という雑誌で、聖書に関する特集をやっていた。

そこに田川建三氏も寄稿されていて「聖書をめぐる障壁」のなかで下記のように評していた。(「現代思想」98年4月「聖書は知られているか」p63)

「(「現代思想の『聖書は知られているか』の特集について」)本誌のこの特集には、残念ながら佐竹明さんが登場しない。彼の書いたヨハネ福音書の註解書(新教出版社、上下二巻)は、現在のところ、世界で存在する黙示録の注解書の中で最もすぐれている。それも、群を抜いてすぐれている。西洋語で書かれた重要な註解書(W・ブセットやR・H・チャールズなどの古典をはじめてとして)と比べても、はるかにすぐれている。今彼は、この注解書をさらに展開して、ドイツ語版を新しく書き下ろす作業をしている。その彼が本誌で黙示録について書いてくれるとよかったのだが、ひどくお忙しいということで、仕方がない」

おぉ、そんなに凄いのか。
それはぜひ読んでみたいものだと思ったものです。
その佐竹明氏の「ヨハネの注解書」は2007年に上巻が発売されました。上巻は序論です。

先日書店に行ったら中巻が発売されていた。中巻から本文が始まります。1-11章について注解されています。

黙示録って正直何を書いているのかよく分からないし、ホラー映画にちょいちょい引用されるので興味は持つけど読んでみても何を書いているのだかピンとこない。
時代背景や、どのような人物が書いているのか、なんでこんな表現になっているのかなどなどよく分からず。モヤモヤした疑問ばかりの書です。

D.H.ロレンスの「黙示録論 現代人は愛しうるか」を昔読んだけど、黙示録が歪んだ劣等感と優越意識にまみれた本だと、くどくど主張したような本で、くど過ぎてロレンスにこそ変な劣等感があるのじゃないかと勘繰りたくなるようなものでした。あんまり参考にならなかった。

「田川建三の私塾で学ぶ」というブログではヨハネ黙示録の講義のようすがあります。
佐竹明氏の註解書について、さっそく批判してますね。
http://oinos-elaion.blogspot.com/

有名なサイトですが「聖書の呼ぶ声」の「新約略解44週」の解説がもっとも分かりやすいように思えます。
http://www.asahi-net.or.jp/~zm4m-ootk/

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新約聖書 訳と註 第4巻 パウロ書簡その2、擬似パウロ書簡

先日、田川建三著「訳と註 第4巻 パウロ書簡その2、擬似パウロ書簡」を買った。
本文の訳文が88ページ、訳注は681ページあります。相変わらず膨大な訳注です。
パウロ書簡(ローマ、フィリポイ、フィレモン)と、擬似パウロ書簡(コロサイ、エフェソス、第2テサロニケ、第1、第2ティモテオス、ティトス)です。

ピリピ(フィリッポイ)から読んでゆきます。
神戸に住んでいた時、田川さんの本を読んで「注解書」というものに興味をもっていたのですが、なかなか一般書店で見かけることがなくて、元町駅前のキリスト教書店で佐竹明氏の「ピリピ人への手紙」の注解書を見つけた時は結構嬉しかった。
ピリピは他の書簡にくらべて短めだし、とっかかりには良さそうだと思って買いました。
読んでみると、流石に学問的というか、細かいというか、ピリピ 1:1-2の説明だけで8ページ解説が続くのですが、学者というのはこんなに研究しているのかと驚かされました。

で、田川建三氏の訳と註の方ではこの佐竹氏の訳への批判が結構出てきます。
佐竹氏はこう訳しているが、これは原文からではなく…というように、その翻訳の根拠を田川氏ならではの碩学的な切り口で見せてくれています。
普通に読んでも面白い本ですが、こうやって佐竹氏の本と突き合わせて読んだりすると、さらに美味しい。
ちびちび読み進めて行きます。

田川建三氏の講義の様子のようです
「聖書を学ぶ日々」
http://d.hatena.ne.jp/lonestar/20041002

「田川建三の私塾で学ぶ 」
http://oinos-elaion.blogspot.com/

田川訳と新改訳の比較がされているブログです。
「新約聖書は田川訳」
http://tagawa-yaku.cocolog-nifty.com/

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訳と註

田川建三「新約聖書 訳と註」第四巻 パウロ書簡の発行予定日は7月17日ないし18日、定価(予価)は6000円(税別)とのこと。

次はローマ人への手紙だ。
楽しみだ。

---
シナイ写本
http://www.codexsinaiticus.org/en/
綺麗に残っているものだなぁ。

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