新約聖書 ヤコブの手紙 ギリシャ語

ヤコブ4:7 従いなさい

【ヤコブ4:7】 
ὑποτάγητε οὖν τῷ Θεῷ· 
ἀντίστητε δὲ τῷ διαβόλῳ, καὶ φεύξεται ‎‎‎‎‎‎ἀφ’ ‎‎‎‎‎‎ὑμῶν· 

(口語訳聖書) 
そういうわけだから、神に従いなさい。 
そして、悪魔に立ちむかいなさい。そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。 

また、同じようなところを問題にしますが、まぁこのあたりでちょっとしっかり勉強しなおして起きたいわけです。 

James 4:7 http://biblehub.com/text/james/4-7.htm 
上のサイトを見れば、ὑποτάσσω のV-AMP-2P(動詞 アオリスト命令受動 二人称)であることは分かりはします。 
ὑποτάσσω は、「ὑπο ~の下に」という前置詞が、τάσσω の頭にくっついて一つの動詞になっている。 

このあたりをもう少し自力で理解したいわけです。 
でも、どうやって考えて行けばいいのかよく分かってません。 

辞書で引くにしても、 τάγ - から τάσσω の形を予想するのが難しい。 
逆引き辞典を使うものなのでしょうけど。持ってなかったら、γ, κ, χ が動詞幹の末尾についていたら、 - σσω のような語尾かも知れないなと思って調べるものなのでしょうかね。 
κηρύσσω (アオ受動ἐκηρύχθην)、ἀλλάσσω (ἠλλάγην)、πράσσω (ἐπράχθην) などからすると、そんな感じみたいですが。 

こういう- σσω の語尾の単語って、時制によって形が違うけど、どうやって語幹を確認するのでしょう。 

ὑποτάγητε は ‎‎‎‎‎‎ὑπο - τάγ - ητε に分解して考えて、 
「- ητε 」の語尾から、第二アオリスト受動の命令形だと判断するのでしょう。 

普通のアオリスト受動命令は、 
2人称 - θητι, - θητε, 
3人称 - θητω, - θητωσαν 

第二アオリスト受動命令の語尾はθがないやつですね。 
2人称 - ηθι, - ητε, 
3人称 - ητω, - ητωσαν 

「- ητε」だから2人称複数の命令形だなと。 

でも、次の「ἀντίστητε 立ち向かえ」は見た感じ同じ「- ητε」だけど、受動じゃなくて能動。
これは能動の第二アオリスト命令だけど、同じような形になるんだな。


「ἀντίστητε 立ち向かえ」の部分は、ἀντί - στητε に分けて考える。
ἵστημι の第二アオリストἔστην の命令形なんだけど、これは能動。

ἵστημι の変化形の一覧表はこちら
http://www.greekverbs.com/paradigm.html?%E1%BC%B5%CF%83%CF%84%CE%B7%CE%BC%CE%B9

ἵστημι は μι動詞。
頭のἵ は畳音。本来はσι だが、σが消失している。
あと、μι動詞の場合単数形では動詞幹の最後の母音が長音化して η になっているが、これは本来はαで、σταが語幹である。
ι の畳音は現在形につく。完了形にはσεが本来つくが、上記リンクの表のようにそこもσが落ちて、εだけが残ってます。
アオリストの場合は畳音はつかない。ここは第二アオリストなので畳音なし。
第二アオリストは自動詞(intransitive)の意味のみ持つ。

【アオリスト命令】 第一と第二の形
2人称単数 στῆσον (tr) or στῆθι (intr)
3人称単数 στησάτω (tr) or στήτω (intr)
2人称複数 στήσατε (tr) or στῆτε (intr)
3人称複数 στησάντων (tr) or στάντων (intr)

ということで、「-ητε」なんだけど、これは能動アオリスト命令ということだ。

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ヤコブ 4:7 そういうわけだから、神に従いなさい

ὑποτάγητε οὖν τῷ θεῷ
ἀντίστητε δὲ τῷ διαβόλῳ
καὶ φεύξεται ἀφ’ ὑμῶν,

【ヤコブ 4:7】
そういうわけだから、神に従いなさい。
そして、悪魔に立ちむかいなさい。
そうすれば、彼はあなたがたから逃げ去るであろう。

ὑποτάγητε /ὑποτάσσω (従う) 動詞 アオリスト命令受動 二人称複数
οὖν /οὖν (それゆえに、だから) 接続詞
τῷ /ὁ, ἡ, τό (冠詞) 与格男性単数
θεῷ /θεός, οῦ, ὁ (神) 名詞 アオリスト命令能動 二人称複数
ἀντίστητε /ἀνθίστημι (対抗する) 
δὲ /δέ (しかし) 接続詞
τῷ /ὁ, ἡ, τό (冠詞) 冠詞 与格男性単数
διαβόλῳ /διάβολος, ον (悪魔) 形容詞 与格男性単数
καὶ /καί (そして) 接続詞
φεύξεται /φεύγω (行く) 動詞 未来直説法中動層 三人称単数
ἀφ’ /ἀπό (~から) 前置詞
ὑμῶν /σύ (あなた方の) 人称代名詞 属格二人称複数


しばらくサボっていたけど。また勉強しなおしますか。

それゆえ神に従いなさい。
また悪魔に対抗しなさい。
そうすれば、あなた方から去るだろう。

という感じの訳になりますでしょうか。

4章の文脈は分かりにくいですが…
欲して与えられないのは、求めていないからであり、求めて与えられないのは快楽のために使おうとして、悪く求めるからである。
悪い求め方というのは、舌の快楽にしたがって人を罵ること、そこにある「妬み」「驕りたかぶり」からの行動は争いを生むばかりである。
(人の妬みは)世を友としようとすることに行き着くだけだ。
神は霊を「妬みをもって」愛している。しかし、なお恵みを与えてくれるのだ。
「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とは、そういう意味なのだ。

「それゆえに」高ぶって争うことをやめて、へりくだって、神に従いなさい、という形で話が展開しているのだと思います。

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求めても与えられないのはなぜ 2

ヤコブは文脈からしておそらく、自分だけの欲望をみたすような発想ではなく、相手も幸福になるような発想で「行動」するように教えています。

(ヤコブ 1:6-18)には、疑わずに求めるように書かれています。
これを中心に考える人は、信じ込んで求めなさいという意味だと考えるかと思います。
疑うものは受け取ることができないのですから、「疑わずに求めること」が「正しい求め方」ではないかと考える人もいるかもしれません。

「正しい求め方」とは「疑わずに求めること」だとすると、「悪い求め方」の例に「快楽のために使おうとすること」(ヤコブ4:3)をヤコブがあげていることの対応関係がわからないんですね。

 【ヤコブ4:3】
 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

この書き方だと、疑うかどうか自体は問題になっていない印象です。
でも、両方とも「二心の者」(ヤコブ 1:18、4:8)と批判されています。
これは別の意味でつながっているようです。どういう意味でつながっているのでしょう。

「二心の者」は、荒れた海の波に譬えられ、「安定を欠く人」とされています。
ギリシャ語で似た表現がペテロ書に見られます。心が「定まらない人」(2ペテ2:14、3:16)は、ともすれば道を踏み外すと考えられていたようです。
教会内に論争が起こり、一方は裕福な人々で指導的な立場にあり、パウロ神学から…おそらく律法無用の教理を教えていたのでしょう。
もう一方には貧しいユダヤ系キリスト教徒がいて、律法を遵守しながらもキリストへの信仰をもっていたようです。
この二派は、律法をめぐって対立が生じていたようです。
貧しいユダヤ系キリスト教徒は、おそらく教育を十分受けておらずパウロ神学にうまく反論できず、それでも伝統的に遵守してきた律法を廃するような生活スタイルには抵抗があり、わりきれない立場におかれてしまったのでしょう。
その不安定さが教会内の混乱を生んでいるとヤコブは考えて、不安定になった信徒の気持ちを一旦落ち着かせようとしているのかと思います。

教会内では罵りあいになっているけど、波のように荒れた気持ちではいけないと。落ち着きなさいと。
荒れてる奴は神様から何もいただけないよと。
「疑わずに求めなさい」はそういうニュアンスで書かれているのかなと推測してます。

「快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ」(ヤコブ4:3)の方は、もう一方を批判しているわけです。
つまり、裕福な信徒が指導しているけど、舌を制することなく、神のかたちをかたどった人をののしっており、それはつまり律法をののしっていることであり、そのことは「隣人愛を行っていないこと」に現れていると。
成金の金持ちをチヤホヤして、貧しくて汚い格好をしていると冷遇しているじゃないか、と。

では、逆に、どのような求め方が「良い求め方」なのでしょう。
でも、上述のように「疑わずに信じて求める」とか、そういう話だけではなかろうと思うわけです。現代人にとっては「信仰」だの、「信じる」だのといったことが重要そうに思えるわけですが、ヤコブからは、そういう神学臭いトーンで書いている印象は受けません。

「良い求め方」とはどういうものか。
前回書いたことを踏まえると、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7:12)という教えもありますので、「求めることは、与えること」とつながっていると考えるのが良いかと思います。
神学的な発想をして、「神の国を願うのが正しい願い方です」といった答えを出す人もいるかと思いますが、そのような答えだと、自分は何を人に与えればいいのかよく分からなくなりそうです。
ヤコブはもっと単純に生活に即したこと…やもめや貧しい孤児を見舞うことをあげているわけですから、生活に即したものであると考えるべきかなと思います。

これは神学的に考えるよりも、具体的に夫婦関係などを想定した方が考えやすいのではないかなと思います。

韓国に番組のなかでカップルに仮想結婚してもらい、その夫婦にいろいろなミッションを与えて夫婦がどういう反応を示すかを観るせみ・ドキュメンタリーの番組があります。
そのなかにロックバンドのボーカルをしている夫と、アイドル歌手の妻というカップルが登場してました。
夫婦でゲームをして、勝ったほうが相手に「願いこと」をひとつ聞いてもらう権利を得るという場面があったのですが、夫がゲームに勝って、妻に願いをひとつ聞いてもらえることになります。
夫は悩んだ末に、ギターを買って、妻にプレゼントして、「ギターを練習してくれ」と願います。
ギター演奏が好きな夫は、一緒に演奏を楽しめるように妻にギターを練習してほしいと願ったわけです。

二人が一緒に楽しめるように、共通の趣味を持てるように、理解しあえるように願い事をしたので、いい願い事だなぁと僕は感心しました。
ヤコブが考える求め方もこれにちょっと近いのではないかなと思います。
相手の幸福が、自分の幸福につながっていて、それを願う。
そういう発想をすることが重要なのであって、だからこそ、舌を制することなく相手を罵る「快楽」のために求めることは違う、とヤコブは言っているのかなと。

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求めても与えられないのはなぜ

ヤコブにとって「良い求め方とは」どのようなものでしょうか。

 【ヤコブ 4:2-3】
 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。
 熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。
 あなたがたは、求めないから得られないのだ。
 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

「快楽」の元にあるギリシャ語は「喜び」「楽しみ」を指す語です。
下記の「欲情」と訳されている語も同じ語です。

 ヤコブ 4:1
 あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。
 それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。

「肢体/器官」に当たる語は、ヤコブの手紙の中では主に「舌」を指しています(ヤコブ 3:5-6)。
ですので文脈からすると、ヤコブが問題にしている「快楽」とは、舌という器官をつかって相手を罵ったり、大言壮語する「快楽」を指しているようです。

基本的にはヤコブは、求めれば与えられるのだというイエスの教えを受け継いでいるようです。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7 抜粋)
「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。
そうすれば、与えられるであろう」(ヤコブ1:5 抜粋)

神が一貫して良いものを与えてくれる存在であるという認識も共通しているようです(マタイ7:11、ヤコブ1:17)。

マタイでは、神が一貫して良いものを与えてくれる存在であることを根拠にして、「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7:12)と教えています。
祈りのなかにも、同じ姿勢が見られます。
「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイ6:12)
神は一貫してやさしく何でも与えてくれて、寛容に罪を許してくれる存在であると信じているので、私はそれを見習って人を許しますよと。だから、神様は寛容に私の罪を許して悪から救ってくださいね、と。
そういう文脈になっているようです。

おそらく、ヤコブも同じようなスタンスをとっていると思われます。
何か求めるのならば、自分がほしいと思うものを人に与えるように努めるべきだ、と考えているのだろうと思います。

ヤコブ書は、教会内で論争が生じ、互いに罵り合っている状況が背景にあるようです。
そのなかでヤコブは争いをおさめようと介入しているようです。
ヤコブの文脈からすると、一方は貧しく、食うや食わずの生活をしており、教育が受けられないでいるユダヤ系の信徒です。ユダヤ系キリスト教徒は、おそらく素朴に律法を守りながらキリストを信仰していたのだろうと思います。
もう一方は比較的裕福な人たちで、集会の場所を提供していた人たちではないかと思われます(新共同訳・口語訳でははっきり訳出されてませんが、ヤコブ2:3において、貧しい人に「足台」の横に座るように言うセリフがあります。椅子と足台はセットでつかわれます。集会の場所を提供している裕福な人の椅子があるということかと思われます)。その比較的裕福な人たちが指導的な役割を果たしていたのでしょうけど、彼らはパウロ神学の影響を受けてわりと律法の制限を受けずに、わりと自由に商売ができていたのかなと想像します。そして、律法を守ろうとしている貧しい信徒たちに対して「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」(ガラ5:4)と教えたために、論争が生じたのではないかなと思います。

ヤコブは、パウロ神学を牽制しながら、批判にうろたえてヒステリックな罵り合いに陥る人々に、落ち着くように呼びかけているようです。

 【ヤコブ 3:13】
 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。
 その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

貧しいものは教育を受けられない。裕福な人々は教育を受けている。その点有利です。
でも、ヤコブは知恵は求めれば神が与えてくれるとして、裕福な人たちの優位を否定しているようです。
神は知恵を与えてくれる。でも、海の波のように不安定な者には与えられない(1:6-7)。
知恵が与えられたなら、知恵にふさわしい柔和な態度であれ。
争いや罵り合いを引き起こすような知恵なんぞは、そんなものは神の知恵ではない(3:15)。

ヤコブは手紙の冒頭で「いろいろな試練に陥ったとき、それらすべてを喜びと思え」と教えています。
その試練(ギリシャ語では「誘惑」と同じ語です)は、べつに神が与えたものではありません。
神は誘惑したり、試練を与えたりしない。一貫して善なる存在だとヤコブは言ってます( 1:13)。
人が試練に陥るのは、欲望に釣られているからであると。
それでもなお、この試練を楽しめと言っているわけです。

自分の欲望によって、人は苦しみを招いている。
しかし、その試練を楽しめ。喜んで耐えるべきだと。
人間を罵るな。神のかたちをかたどった人を罵って、同じ舌で神を賛美するようなことがあってはならない(3:9-10)。

ヤコブは、人間が引き起こす試練に、愚痴も言わずに平然と、むしろ喜んで耐えるように言っているわけです。
そして、一方で、自分が求めるものを、相手に与えるように努めるわけです。
求めるものは、つまり「与えられるもの」でもあるわけです。未亡人や苦境にある貧しい人々を見舞うように言ってます。
ヤコブは「求めるもの」として、神の愛であるとか、神の国であるとか、そういう神学的な発想をしているわけではないようです。
そのあたりは、祈りのなかで「日ごとのパンを与えてください」と祈るイエスの姿勢に似ています。

ヤコブは行いを重視しますが、パウロが批判した形式主義的な「律法の行い」ではなく、「隣人愛の行い」です。
形式主義的に律法を守ることが重要なのではないという姿勢は、旧約聖書にも見られます。それはヤコブ書と共通した姿勢に思えます。

 【ヤコブ1:27】
 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、
 困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

 【イザヤ 58:6-7】
 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
 悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて
 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
 さまよう貧しい人を家に招き入れ
 裸の人に会えば衣を着せかけ
 同胞に助けを惜しまないこと。

ヤコブは知恵があれば、それを生き方で示すように言っており、それは単に求めて欲しがっているだけでなく、何らかの形で生き方に反映させることをヤコブは考えているようです。
黄金律の教えのように、自分がしてほしいと思うことを、相手に与えるわけです。
つまり、ヤコブが考える「求め方」とは、単に自分の欲望を満たすようなものではなく、相手を含めて幸福になるように発想すること、さらにそれを行うことであるようです。

(mixi で、同じテーマでトピックを立てて意見を頂きました。それらを参考にしてます。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=68411106&comm_id=918354&page=all)

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ヤコブ 4:5-6 わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる

【ヤコブ 4:5-6 口語訳】
それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。
しかし神は、いや増しに恵みを賜う。であるから、「神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜う」とある。

ἢ δοκεῖτε ὅτι κενῶς ἡ γραφὴ λέγει,
聖書は無駄に語っていると思うのか、
Πρὸς φθόνον ἐπιποθεῖ τὸ πνεῦμα ὁ κατῴκισεν ἐν ἡμῖν,
わたしたちに住まわさせた霊を、(神は)ねたみを持って切望している、と。

μείζονα δὲ δίδωσιν χάριν.
しかし、(彼は)大いに恵んでくださる。
διὸ λέγει, Ὁ θεὸς ὑπερηφάνοις ἀντιτάσσεται,
だから言われる。神は、誇るものに立ちはだかり、
ταπεινοῖς δὲ δίδωσιν χάριν.
へりくだる者に恵みを与える、と。

文脈からするとおそらく、神が人のなかに霊を住まわせたが、「世」は欲望を用いて人間を支配することで人のなかの霊を捕らえている、ということか。
神が霊を求めているのに、世に味方することは、神への敵対であると。
しかし、傲慢にならず、へりくだる者には、神が恵みを与えてくれるのだと。

そういう意味だとすれば、「悪い求め方」(ヤコブ 4:3)とは、傲慢さに関係あることになるか。
傲慢だから与えられない、というか、傲慢だから争いになる、という感じでしょうか。
「あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」(4:9)の文脈ともつながる。

傲慢になった信徒に対して、争いが生じるのはその傲慢さが原因だと指摘しているということかと。

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ヤコブ 4:4 世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである

(口語訳)不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

μοιχαλίδες,
姦婦どもよ、
οὐκ οἴδατε ὅτι ἡ φιλία τοῦ κόσμου ἔχθρα τοῦ θεοῦ ἐστιν;
世への愛着は、神への反抗であることを知らないか、
ὃς ἐὰν οὖν βουληθῇ φίλος εἶναι τοῦ κόσμου,
だれでも世の友であろうとするものは、
ἐχθρὸς τοῦ θεοῦ καθίσταται.
自らを神の敵に定める。
----
これは教会内で争いが生じることについて「欲望が原因である」と指摘する文脈にあります。
欲望を持つが、手に入らない。だから、争う。
手に入らないのは求めていないからだ、と。それが「世の友であろうとしている」状態である、という文脈になります。

ヤコブは、教会内の争いは、一種の欠乏状態から生じていると見ているようです。
争うときに、何が欠乏しているものでしょう。

貧しい人々が冷遇されることを批判した部分がありますので、えこひいきが問題になったのでしょうか。
当時もおそらく教会を維持するための献金していたかと思われます。
「足台」が出てきますので、椅子があるような裕福な信徒の家で集会をしているようです。
裕福な信徒は優遇され、献金が少ない貧しい信徒に対しては指導者がなじったりしたのでしょうか。

「えこひいきせず、隣人愛に行いを伴わせること」をヤコブは強調してます。
献金を貧しい人たちへの施しのために使うことは申命記で前提されているようです。
下記のように、神殿から遠く離れている人々は、十分の一の捧げ物を金に変え、それで買ったもので家族で食事して楽しむべしとしています。
2年に一回(三年の終りごとに)は、孤児や寡婦に満足ゆくまで食べさせるべしと。

 【申命記 14:24-29】
 ただし、その道があまりに遠く、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が、
 非常に遠く離れていて、あなたの神、主があなたを恵まれるとき、
 それを携えて行くことができないならば、あなたはその物を金に換え、その金を包んで手に取り、
 あなたの神、主が選ばれる場所に行き、その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。
 すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え、
 その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。
 町の内におるレビびとを捨ててはならない。彼はあなたがたのうちに分がなく、嗣業を持たない者だからである。
 三年の終りごとに、その年の産物の十分の一を、ことごとく持ち出して、
 町の内にたくわえ、あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、
 および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない。
 そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう

しかし、そのような隣人愛がなされていない、ということなのかも知れません。

罵り合う状態になると、どちらが正しいなどという状態ではなくなります。
ただ、争いをやめて、舌を制して、罵るのをやめるべきであると。
柔和な行いによって知恵を示すべきだとヤコブは言ってます。
正義であるように思えても、報復はよい結果をもたらさないものです。
「人の怒りは、神の義を全うするものではない」とヤコブは言います。

柔和な行いのなかで知恵を求めること。
そこに立ち返らなければ、欲しいものは本当のところ手に入らないのだと。

相手を言い負かそうとして知恵をつけても、たいして本人の成長につながってないものです。
馬鹿にしている相手と議論しても罵り合いにしかならない。
尊敬している相手と議論して、相手の語っていることを理解しようとしてないと、勉強にはならないものです。
憤りに取り憑かれている状態だからこそ、冷静になることが、結局自分自身の利益になるものかなと。

などと思いながら読みました。

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ヤコブ 4:2-3 求めないから得られないのだ

【ヤコブ4:2-3】
επιθυμειτε και ουκ εχετε φονευετε
あなたがたは欲して持たず殺す、
και ζηλουτε και ου δυνασθε επιτυχειν μαχεσθε και πολεμειτε
また望んで得られず互いに争いあって戦争する、
ουκ εχετε δια το μη αιτεισθαι υμας
あなたがたが持たないは、求めないからだ。

αιτειτε και ου λαμβανετε διοτι κακως αιτεισθε
求めて受けとれないのは、悪く求めるからだ
ινα εν ταις ηδοναις υμων δαπανησητε
あなた方の快楽に使おうとして。

----
どこでどう区切ればいいのか、よく分からない文章です。
例によって諸訳をカンニングしてやってます。

口語訳が「επιθυμειτε むさぼる」と訳してるのは70人訳に沿っているみたい。
十戒の言葉が何度か出てきたので、ここもやっぱりそうなんでしょうか。
「欲がはらんで罪を生み…」(ヤコブ 1:15)という表現もあるし、まぁ普通に「欲」と考えてもいいかなと。

---
求め方が悪いというのは、どういうことなんでしょう。
快楽が悪いのでしょうかね。

まず、3章までの話の展開からすると、ヤコブさんは、傲慢になって大言壮語するようなことを「舌」の快楽のために行動していると考えていそうです。
「舌は制しにくい悪であり、死の毒に満ちている」と。「舌は火。不義の世」だと言ってます(ヤコブ 3:6)。
身体器官は、不義なる肉、「世」に属しているということでしょうか。
霊肉二元論で考えるところの「肉」という次元にあるものは、所詮は不義なる存在であるということが前提にあるのかな。
つまり、ちょっとグノーシス的な表現かなと。

これに続く(ヤコブ 4:5)にも、グノーシス的に見える表現があります。

 【ヤコブ 4:5】
 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と
 聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。

ヤコブさんは「聖書に書いてある」と言ってますが、ぴったりな表現は聖書にないです。
当時教会で使われていた何らかのテキストの引用なのでしょうけど。
で、「神が霊をねたむ」というのは、グノーシスの神話などに見られます。
グノーシス神話では、創造神ヤルダバオートは、騙されて人間に息(霊)を吹き込んでしまう。このため人間のなかにある霊(光)をねたむ、という話があります。
ここのヤコブの表現は、どちらかというと、グノーシス神話の「ねたむ神」の表象に近い気がします。

でも、これが「欲望」とどういう風につながっているのでしょう。
…神が人間の霊をねたんだからといって、どうして欲望が悪いという話とつながるのでしょう。
グノーシス神話との関連を疑っていろいろ考えてみましたが、あんまりいい案は浮かびませんね。

この部分は、たぶん、人間の「霊」の前史を示そうとしているのかなと。
元々は神の息であるところの霊だったものが、人間という肉体のなかに閉じ込められているのだ、と。
つまり、この世にある物体や肉体なんてものと違って、人間の「霊」は神が吹き込んだのであって、神がそれを妬んだほどに価値があるものなのだと。
人間の「霊」というものは、本来高次元なものなのであって、その本質に従っていきるべきだと。
それなのに、舌なんかに振り回されて、欲望に引きずられて生きていてはいけない、ということかなと。

欲望はいかんと言ってるけど、ヤコブさんは、飲食などの自然の欲求を否定しているわけではないです。

 【ヤコブ 2:16】
 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、
 そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

身体に必要なもの、衣食住の安定は、ヤコブさんは必要なものであり、これを否定する気はさらさらない。
欠乏によって苦しめられる状態は、「霊」の高次元な活動のさまたげになるということでしょう。

では、富んだ者がより「霊」の活動が充実しているのか。いや、ヤコブは、富んだ者たちが、なすべきをなさず罪を犯していると見ている。
ヤコブは金銭の問題だけでなく、傲慢になった「教師」が、貧しく無学な人を苦しめることも戒めている。

ヤコブは、神は人間に必要なものを十分与えてくれているのだ、と考えているようです。
そして、欠乏が生じるとすれば、それは欲を出したものが余計に取っているのか、ちゃんと求めていないからだと言っているようです。
そして、自分に価値があると思ってないと、ちゃんと求めることもできない、と考えているということかな。

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ヤコブ 4:1 戦いや争いは、いったい、どこから起るのか

Πόθεν πόλεμοι καὶ πόθεν μάχαι ἐν ὐμῖν οὐκ ἐντεῦθεν ἐκ τῶν ἡδονῶν ὑμῶν τῶν στρατευομένων ἐν τοῖς μέλεσιν ὑμῶν;

(口語訳)  あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。 それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。

Πόθεν /πόθεν (どこから) 副詞
πόλεμοι /πόλεμος, ου, ὁ (戦争) 名詞 主格男性複数
καὶ /καί (また、そして) 接続詞
μάχαι /μάχη, ης, ἡ (戦い) 名詞 主格女性複数
ἐν /ἐν (~において) 前置詞
ὐμῖν /σύ, σοῦ, σοί, σέ (あなた方に) 人称代名詞 一人称与格複数
οὐκ /οὐ (~ない) 副詞
ἐντεῦθεν /ἐντεῦθεν (だから、それ故に、ここから) 副詞
ἐκ /ἐκ, ἐξ (~から) 前置詞
τῶν /ὁ, ἡ, τό (冠詞) 冠詞 所有格女性複数
ἡδονῶν /ἡδονή, ῆς, ἡ (喜び) 名詞 所有格二人称複数
ὑμῶν /σύ, σοῦ, σοί, σέ (あなた方の) 人称代名詞 所有格女性複数
τῶν /ὁ, ἡ, τό (冠詞) 冠詞 所有格女性複数
στρατευομένων /στρατεύομαι (戦いを繰り広げる) 動詞 現在分詞中動 所有格女性複数
τοῖς /ὁ, ἡ, τό (冠詞) 冠詞 与格中性複数
μέλεσιν /μέλος, ους, τό (身体の器官) 名詞 与格中性複数
ὑμῶν / (あなた方の) 人称代名詞 所有格二人称複数

さて、久しぶりに勉強してみると、何だか難しく感じる。
口語訳を参考にしながら、こんな感じかなぁと訳してみます。

Πόθεν πόλεμοι καὶ πόθεν μάχαι ἐν ὐμῖν
あなた方の中のどこから戦争が、またどこからか戦いが
οὐκ ἐντεῦθεν
ここからか
ἐκ τῶν ἡδονῶν ὑμῶν τῶν στρατευομένων
あなた方のせめぎ合う快楽から
ἐν τοῖς μέλεσιν ὑμῶν;
あなた方の身体の器官において

まとめると下記のような感じでしょうか。
「あなた方の中のどこから戦争が、またどこから戦いが、ここからではないか、あなた方の身体器官においてせめぎ合う快楽から」

ヤコブさんは、肉体の欲求にまかせて行動しても得られるものはないと考えているみたい。
望むものがあれば神に求めなさいというけど、それは単なる欲求とは違う。
さて、この区別はどうつけるのだろう。
4章はそのあたりを読み解いてゆく形になるかな。

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ヤコブ3章の雑感

パウロの手紙を批判する2章に比べて、たとえが多く、話の主旨にまとまりが欠けて感じる3章です。

ヤコブは何度も、「完全であれ」と言いますが、これらはこの3章に掛かってきます。
言葉の上であやまちのない人は、全身をも制御することができる完全な人である、とヤコブは言います。
「ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない」と、ここで話を一転させます。
ヤコブは完全であることは無理だと判断していながら、ここまで論じていたわけです。

パウロは、キリストの死にあずかる者は、罪から逃れることができたと考えていたようです。(ローマ 6章あたり)
教会は、キリストによって罪から贖われたと考えたわけです。
問題は、その後、すぐに終末が来なかったことです。
神の国がなかなか来ないことによって、神の裁きの前に信徒が亡くなったり、罪を犯したりと、ゴタゴタしはじめます。

ヤコブの教会では、罵り合いが起こった。
おそらく、パウロ神学の影響を受けた人々が、律法を素朴にまもろうとした人々を批判したのでしょう。
「ユダヤの神も、異邦人の神も、一つだ。異邦人を救ってくださる神は、信仰を見て救ってくれたのだ。律法の行いに頼っているのはキリストの恵みを台無しにしているんだぞ」というような調子で批判したのかなと思います。
「神がお一人であると信じているのか、それは結構なことだ。悪霊もそう信じておびえているさ。行いのない信仰など、何の役にたつ。それなら、行いなしに信仰を見せてみよ。わたしは行いで信仰を見せてあげますよ」
このあたりが、2章でヤコブが描いている構図だと思います。

3章では、ヤコブは、相手がそうやって「教師」として偉そうに教えていることを批判します。
教師にはより厳しい裁きが待っているのだぞと。
くつわが馬を制御できるように、かじが船を制御できるように、舌は人間を制御してしまう。
舌は大言壮語し、相手を罵る毒を吐く。
さて、罵り合っているみなさん、舌を制御できてますか。
信仰を持っている。それは結構だ。で、行いは制御できてますか。
罪から贖われている。それは結構だ。でも、貧しい者を冷遇しているのではないですか。

罪なんて抽象的なものは、何とでも言い逃れできてしまう。
でも、言葉にあらわれているでしょうと突かれると、言い逃れができない。

いや、これも言い逃れることはできる。
相手が邪悪なことをやっているから、批判するのは当然だ、と。
自分の悪を正当化するのに、相手がもっと悪だからだと説明する。

言い逃れるポイントはいくつかある。
・相手が悪いから、俺の批判は当然である。
・俺の悪口によって実際何も損害は出ていない。
・俺を批判する奴も、悪口ぐらい言っているんだから、えらそうに言えないだろう。
・俺は教会を良くするため、社会のため、みんなのためにやっているんだ。
などなどがあるでしょう。
こういう言い訳によって、自分を正当化し、相手を罵ることを正当化し、他者からの批判に耳を貸さないわけです。

たぶん、ヤコブはそういう言い逃れをさせないように工夫している。
「キリストの信仰を持ちながら差別してならない」
「神を賛美する口で、神が創った人を罵ってはならない」
このような批判の仕方は、相手に上記のような言い逃れをさせない。
あなたは信仰を持っているというのだな。それならば、差別してはならない。罵ってはならない。
罵るならば、それは舌の悪に毒されているのだ。
知恵のある者は、行いによってそれを示してみなさい、と。

こういう言い訳させない話の展開の仕方からすると、ヤコブさんは議論慣れしている印象です。
ヤコブさんは、結構、議論巧者だと思います。

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ヤコブ3:18 義の実

καρπὸς δὲ δικαιοσύνης ἐν εἰρήνῃ σπείρεται τοῖς ποιοῦσιν εἰρήνην.

(口語訳)義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。

---
καρπὸς δὲ δικαιοσύνης
また義の実は
ἐν εἰρήνῃ
平和において
σπείρεται
蒔かれる
τοῖς ποιοῦσιν εἰρήνην.
平和をなす者たちに

平和をなす者たちに「よって」蒔かれると訳すのか。
口語訳を読むまでは、平和をなす者たちに「対して」蒔かれるのかと思ったや。

なので訳すと、
「また義の実は平和において、平和をなす者たちによって蒔かれる」
という感じでしょうか。

実が蒔かれるのか。種ではなくて。
蒔かれた種を育てる行為が、つまり平和をなすということなのでしょうから、すでに平和をなしているならばそこには実がもう成っているということかな。

ともかく、ヤコブさんとしては、義の実は平和なものなのだ、ということです。
なので、ヤコブさんは争いがあれば、そのことを問題にします。つづく4章はそういう展開ですね。

でも、まぁ世の中のことに当てはめて考えると、おとなしくしていれば、それで正しいというわけでもない。
ヤコブさんも、それは分かっている。おとなしければ、平和であればそれでいいとは思っていない。
なすべき善が何であるか分かっているならば、それを行なわなければならない責任があるとヤコブは考えているようですね。

ヤコブさんは、祈りの重要性なども後半に論じてますが、基本的には合理的に行動するタイプに思えますね。
合理的に行動すべきであると分かっているときには、行なうべきを行なう。
何でもかんでもオカルティックに解決しようとしないところが、わりと理解しやすいです。

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