映画・テレビ

東京物語

小津安二郎監督の映画は、一本しか観てません。「東京物語」だけです。
でも、まぁ随分巧いなぁと感心してみました。

とくに家のなかを歩き回るシークエンスです。
奥の部屋から廊下を通って玄関へ行って、戻ってくる。
このぐらいの部屋から部屋への移動するぐらいが、わりと映画のなかで処理が難しいように思えます。
場面が変ると、リズムが途切れてしまう。
一つながりの場面としてリズム感を失わずに場面が次々切り替わっていく必要があります。リズムが悪くなると、安っぽく感じるようになります。

観客は、案外映画の裏側を見抜いていて、セットの広さを想像しながら見ています。
そっちより先にいくとセットがなくなるのだろう…と予想したりするものだと思います。
ところが、登場人物がふらりと玄関まで歩いていくときに、そのカット割りが自然で、動作がスムーズにつながっていると、観客はセットを意識しなくなります。

たとえば、よくある処理の仕方として、奥の部屋の場面から、一気に玄関の場面に移るという方法もあるでしょう。
でも、観客はそういう場面転換だと、セットをケチったような安っぽさを感じると思います。
「セットがふたつあるんだな。奥の部屋と、玄関だな。次は応接間のセットかな」などと思うわけです。
でも、「東京物語」のように廊下を歩いて、玄関へやってくると、「家がある」と感じます。
一気に登場人物の生活感にリアリティが生まれます。

また、この家なんですが、結構狭い。
いや、家としては広いのだけど、狭く撮ってますよね。
セット臭くなるのは、リアリティがないぐらいだだっ広い応接間なんかが原因だったりする。
部屋が広いと、登場人物をクロースショットで撮っても背景に奥行きがあるので絵的に見栄えがするのだと思います。
でも、それが安っぽいわけです。金はかかっているのだけど、金のかけ方が安っぽい。
「東京物語」の家は、狭く撮っている。廊下は部屋から見える範囲しか写っていない。玄関も、部屋から見える範囲しか写っていない。
画面の縦に三分の一に割ったサイズぐらいしか、実際に人物が動いて見えるスペースはないですね。
なので人物はちょっと横に動くと、物陰に隠れてしまいます。
人物を動かせる範囲は狭いのだけど、人物が物陰に隠れたタイミングでショットが切り替わる。
あるいは、玄関から戻って廊下を「曲がる動作」を軸にして、ショットが切り替わる。
人物の動作が見えなくなる瞬間。次のショットがどうつながるのかちゃんと計算されている。これが綺麗ですよね。
次のショットで、動作は流れるようにつながっている。「曲がる動作」も、つながっている。これは確実に狙って、準備して演出されてる。

小津安二郎監督は、イマジナリーラインを超えるような切り替えしのクロースショットが有名だけど、それがつながって見えるのは監督が細かい動作をコントロールしているからだ。
イマジナリーラインを超える瞬間に、新しいイマジナリーラインに切り替える「動作」をしている。
観客は動作を見ているので、混乱しない。

それでいて、視点が自由に変化するので、舞台となる「家」がリアリティを増し、生活感がじわじわと感じられてくるのだと思う。

僕の分類の仕方だと、ルイ・マル監督の「鬼火」、チャン・イーモウ監督の「紅夢」が同じ系統の演出なのではないかなと思います。
細かい動作をコントロールし、それが自然な動作になる「きっかけ」を緻密に計算して構成して演出しないと、これはできない。

小津安二郎監督はうまいなぁと

| | コメント (0) | トラックバック (0)