日記・コラム・つぶやき

ボチボチ

このところギリシャ語の勉強をサボってますが、またボチボチしなきゃいかんなと。
NHKの語学番組でギリシャ語とかやってくれないかな。
ドイツ語やフランス語講座を分かんないまま何となく見てたりします。
高橋克実さんが出てたときのイタリア語講座はなんだか楽しかった。
今は出演者がいろいろ変わっているけど。韓国語講座は変わらず。案外おもしろい。
韓国ポップスの影響だろうな。歌詞に出てくる表現が解説されると「あぁ、なんか聞いたことあるな。そういう意味だったのか」と思ったりしますね。まぁぜんぜん文法とか分かんないけど。

「美しい拘束」

いい歌だなぁと。
少女時代のサニ、ソヒョン、テヨン、ティファニ、ジェシカが歌ってます。
サニ(向かって一番左)の歌声は良いです。ほかのメンバーも巧いのだけど、サニのところでゾクッとします。
ソヒョン(左から2番目)は、「私たち結婚しました」という番組でCN BLUEのヨンファと仮想結婚していたけど、この番組でソヒョンのファンになってしまった。ソヒョンのファン心理はややこしい。ファンなのに「ヨンファとリアルに恋に落ちてしまってほしい」と思ってしまうのが不思議だ。

歌詞の日本語訳はこちらのサイトで読めるみたい。
http://tam7studio.blog76.fc2.com/blog-entry-379.html

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DVDでギリシャ語学習

東北の震災後、出勤する時間を早くしてます。
僕は暑がりでして、電力不足から電車のエアコンの設定温度が上げられたりすると耐えられそうにないので、混んだ時間を避けようと早起きします。
早く出勤して、会社の近くのドトールコーヒーで時間をつぶす。
マクドナルドの方がコーヒー代は安いけど。でも、朝の繁華街のマクドナルドは徹夜明けの若い客が結構うるさいのだ。そこのドトールは比較的静かです。

「DVD やさしく学べる 新約聖書ギリシア語独習」を買ったので、朝の時間にポータブルプレイヤーで見てます。
変化形なんかは、やっぱり覚えなきゃいけないんだな(…今さら言うことでもないが)。
暗記する部分をどう暗記しているか、ビデオで見れるだけでも「あぁ、そうやってたのか」と発見するものです。
文法の解説と、後半の方には「ガラティア」の解説もある。
講師の方は、真面目そうな、ちょっとオドオドした感じの方ですが、田川訳をちょっと批判してみせたりしますね。面白い。

アクセント規則とか、本で読んでも今ひとつピンとこないけど、これはさすがに分かりやすい。
あと、僕はちょいちょい気息記号を見落として覚えてしまった単語があって、ビデオを見ると「あれ、その単語はハ行の音で始まるのか」なんて気がついたりします。
形態論というか、その語のなりたちの解説は面白いですね。わかりにくい変化形が、どういう風に形成されてるかの解説はなかなか本だけでは理解しにくい。
18,900円と高いんだけど、約24時間分も講義が入ってる。
まだまだあるので、ゆっくり観てゆきます。

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リベラル派

このブログは、ブログ村の「リベラル派」のカテゴリーに一応入れてます。
でも、まぁ実際「リベラル派」という派は、現在は存在していない。
福音派が彼らの教理に合わない人たちをそう呼んでいるだけです。
その教理というのは福音派が「聖書信仰」とか呼んでるもので、「聖書には矛盾がないと信じる」ということです。

聖書には山のように不整合がありますが、「聖書信仰」とやらからすれば、それらを無視するわけです。それについてとやかく言う奴は異端か悪魔の手先だから話を聞く必要はないのだと拒絶することになります。

元来、リベラルと呼ばれた自由主義神学は、ずいぶん昔に論争のなかですたれていったようですが、福音派は、聖書を歴史的・批判的に研究する研究を「リベラル派」と呼んで批判し続けます。
なので、批判が勢いあまってくると「カトリックもリベラル派だ」なんて奇妙な言い方をする人も出てきたりします。プロテスタントの一派がなんでカトリックなんだ。
これは実際に存在する「派」の話をして「いない」から、こういう語彙の矛盾が生じるわけです。
「リベラル派」と批判するとき、その語が指しているのは「聖書学」のことです。とくに「歴史的・批判的な聖書学」のことです。

「歴史的な研究」というものは、つまり、学問的な研究成果は教派を超えた成果ですので、それを共有することができる。
なので、プロテスタントもカトリックも、その成果をもちよって共同で聖書を翻訳しましょう…という動きができるようになるわけです。その成果はつまり新共同訳などですね。
で、当然、それぞれの派にはそれぞれの伝統があるわけですが、歩み寄らないと共同でことは進められない。
相手に妥協するのが嫌だという人たちは、「派」として分離してゆくわけです。
そういう教派の協力を「エキュメニズム」として、これまた福音派は嫌ったりする。

福音派は「リベラル派」「エキュメ二カル派」というものを批判するわけです。
ところが、「派」なんてものの実態があるわけではない。
学者肌の牧師さんがいる教会もあるでしょうけど、信徒さんが資料仮説に詳しかったり、文献批判を行っている聖書学者であるわけではない。
だから、福音派の人が「リベラル派」について頻繁に批判していても、そんなものは実際にはいなくて、当然、ブログ村が「リベラル派」というカテゴリーを作っても数人しかこのカテゴリーに登録することはないわけです。
福音派の人が「あの連中はリベラル派だ」と批判することはあっても、「わたしたちはリベラル派です」と自称するような用語じゃないからね(たまにはいるでしょうけど)。

今後も、せいぜい「リベラル派」という言葉を政治用語として勘違いして登録する人や、まれにブルトマンなどを研究する学者肌な人が現れたとしても、「派」と呼べるほどの数になることはないでしょう。
僕はそもそも信者ではないので、「リベラル派の信仰」を持っているわけではない。
なので、「リベラル派です」というようなカテゴリニーに登録していると、居心地が悪い。
それでも、まぁ僕はブルトマンあたりを好んで読んでるし、まだちょっとは該当するかな。

まぁ、「福音派の人に好かれるようなことは書くことはないですよ」という目印にはなるかもね。

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Different Seasons

先日、ブックオフでスティーブン・キングの「Different Seasons」を300円で買った。
この本には「ショーシャンクの空に」の原作が入っている。僕は高校時代に翻訳でこれを読んでメチャ感動した。原作が好き過ぎるので、映画の方はあんまり評価する気にならない。
さらに、「Apt Pupil」も大好きだ。これも映画になっていて「ゴールデン・ボーイ」というタイトルです。まぁこれも映画化をするのは至難の業という作品でして、健康的で陽気だった少年がじわじわと猟奇殺人に取り憑かれてゆく描写がリアルでたまらんわけです。
あと、「スタンド・バイ・ミー」もあるけど、それがかすむぐらいの名作ぞろいの短編集。
で、この本は大好きな本だから、まぁがんばって洋書で読んでみようかなと。
でも、まぁ翻訳を並べて読めば難しいところも何とかなるかな。まぁギリシャ語よりはましだろうと。
辞書がまた100円で売っていた。英和和英の小型の辞書。それでも100円は安いな。
いまどきはこんな辞書は使わずにモバイルで調べるものなのかな。まぁ僕はこのあたりはアナログでいいんだけど。

今のところのんびり読んで「ショーシャンク…」が10ページほど。100ページほどの作品だから、もう10パーセントも読んだのか。
ただまぁ法廷の場面があったり、刑務所の話だったりするので単語は難しい。たくさん辞書で引きます。
辞書で引くような難しい単語は、どちらかというとすぐ解決する。辞書に書いてある意味どおりだから。
もっと簡単な単語の方が言い回しが難しいな。
まぁ、それもぼちぼち読んでゆきます。

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翻訳

先日「アインシュタイン その生涯と宇宙」という本のなかに機械翻訳したままの訳文らしき文章がそのまま出版され、回収される騒ぎについて報じられてました。
機械翻訳なんてトンデモ訳になるのでそこから直すにも使い物にならなそうですが。
でも、翻訳家の人は、直訳しておいて、あとで丁寧に日本語に整える…という作業はやりそうですね。
なんらかの手違いでOKじゃないテキストが混じってしまったとしても、誤字、脱字、誤訳、おかしな文章などは編集者がチェックして出版してよいものか判断しそうなものです。
アマゾンのレビューには、翻訳者(自称)がそのあたりの事情を説明している文章が上がってますね。
http://www.amazon.co.jp/review/R29GQAF5DUOAEW/ref=cm_cr_pr_perm?ie=UTF8&ASIN=4270006501&nodeID=&tag=&linkCode=
まぁ、これを読むと、ある程度分かっているのに出版に突き進んだということのようです。

ちょっと専門的な本を出すとなると翻訳のチェックなどが大変なのだと思いますが、不景気になって、翻訳本を出す体制を整えるのが難しくなっているのかな。

先日「なぜマルクスは正しかったのか」という本を買ってます。
ソ連が崩壊して20年も経ってるし、大きな影響を与えたマルクスとは何だったのかを批判的に検証しているような本だったら面白そうだなぁと。
で、読んでみると、どうも何を書いているのかよく分かんない。
アマゾンでレビューを見ると、「非常に残念な翻訳」「翻訳がひどすぎる」というレビューが出てました。
あぁ、訳は疑ってなかった。オリジナルの本文が分からないので検証もできませんが、僕はこういうモノに当たったのは初めてです。

翻訳のプロの方の仕事はハイレベルなもので、素人がちょっとやそっとで口を出せるものでもないのでしょうけど。
でも、まぁ訳文で気になるところは自分なりに検証できるように、英語力を身につけねばいかんなぁと思いました。

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ノート術

本屋さんに行くとノート術なるものの本が並んでいたりします。
「情報は1冊のノートにまとめなさい」なんて無茶なタイトルの本もある。
その本を読んで影響された知り合いは熱心にノートをつけて、それをパソコンに入力しなおしたりしてました。
でも…パソコンに入力って面倒臭いよ。

そもそも全部の情報が一冊のなかにごっちゃになってると、不便だろう。
仕事のことは仕事のノートにするだけで整理できるんじゃないの…と文句をつけたくなります。

僕は「仕事術」としてのノート術には、さっぱり感心がありません。
だいたい進捗管理などは俺が個人的にノートにつけて管理しているようでは確実に失敗します。
複数の人がクロスチェックできるようになってないと、とても不安でやってられない。
そういう意味では、複数の人がアクセスする進捗情報を一元化していたら管理しやすいとは思う。
新しいプロジェクトを管理してゆく人ならば、そういうものをノートで管理するのかもしれないけど、僕の仕事ではそういうニーズはないな。ファイルメーカーのようなもので管理した方がいいです。

それとは別のタイプのノート術。モレスキンのノートの宣伝なのかな。デザイナーが使ったノートなんかは格好いいですね。
でも、そんなデザイナーみたいに綺麗に書いてられない。

僕がノートに書くことといえば、満員電車のなかで読んだ本のちょっとした感想のメモぐらいなものです。
そんなに綺麗に書く必要はない。

単語帳のノートは、細長い形をしたものがあります。
横幅が7センチほどしかなくて、縦は15センチぐらいあるようなものです。
スパイラルのリングでとじてるようなノートです。
これは案外書きやすい。
とくに開いた左側のページが書きやすい。左側のページはリングが手に当たって痛くて書きにくいのですが、単語帳は細いので手にあたらない。
喫茶店の小さなテーブルで書くときにも、リング綴じのノートの方が畳んだ状態で書けるので便利なのですが、左ページに書くときにリングが手にあたるのが嫌で、右側ばっかりに書くようになりがちかなと思います。それが横幅が細いノートだと解消されますね。

あと、これは好みの問題ですが、Frixon ballのボールペンが書きやすい。
これはボールペンなのに消せます。
僕の好みの書き味です。ボールペンなんだけど、インクにちょっと粘りがあるのでしょうか。
太く書いたり細く書いたり、ちょっと文字に表情が出る気がします。
ギリシャ語の本などを読んでいると、文字に「入り抜き」があるんですね。それを見ているとだんだん「入り抜き」のある文字が書きたくなるんです。
コピックのような漫画を描くペンを使ってみたりしましたが、ボールペンの手軽さ、書きやすさに欠けるなぁと。
Frixon ballは、ボールペンのわりに不思議と「入り抜き」があるので、これを使ってます。

あと、半透明の付箋ね。
「ポストイットジョーブ」というのか。
これは本を読みながら気になるところに貼り付けていくのに便利です。
あとから、どこに書いていたか探すのは面倒。
付箋をチェックしながら、ノートに感想をメモしたりしてます。

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善い存在

オリゲネスの本を読み始めています。
オリゲネスは「悪魔ですら救われうる」と論ずるなどによって、異端的であるとみなされたそうです。
解説からすると、「神は善い存在である」という理解がオリゲネスの思想の中心にあるようです。
神が善い存在であるならば、救う意思があるわけで、意思があるならば悪魔であっても救われることは可能だ…というようなことなのかなと。

ローマ書のなかでパウロは、9章あたりから似た問題で苦悩しています。
神が、イスラエルを救う気が無いならば、神は約束を反故にしている。
神の意図によってイスラエルの人々がかたくなになっているのに、なぜ神はそのことで人を責めるのかと(9:19)。
神は全能である。だから、救う意思があるならば救うことは可能である。救わないのは、救う意思がないからだ。
それでは、神が善い存在だといえなくなる。

 (ローマ 11:25-26 口語訳 一部)
 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。
 一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。

パウロは、神による選択という「恵み」を強調しながら、イスラエルがすべて救われるだろうと、ちょっと矛盾した話をしています。

これはキリスト教神学の特徴なのでしょうか。
「恵み」を強調すると、そこからこぼれ落ちた人々が出てきてしまう。そうなると神が善い存在であると言いにくい。

神が善い存在であると強調すると、みんなが救われることになってしまう。救われることが前提になると、「恵み」によって救われることのありがたさが失われる。
これはどちらかを選択するしかなさそうです。
まぁ、「恵み」の方を選択されるのでしょうけど。

「ヤコブの手紙」の著者は、おそらく「神は善い存在だ」という傾向が強い気がします。
神の選択について語られているのだけど、欲にしたがって悪事を働くことが裁きをまねくと考えている。
何も罪を犯していないのに、神が裁きに陥れる…というような「選択」はヤコブは意識してなさそうです。

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Q資料のイメージ【三千人の共食】

Q資料のイメージ【三千人の共食】

Q資料とは、マタイ・ルカが福音書を書くときに資料として用いられたとされる文書です。
マタイ・ルカは、マルコ福音書とQ資料を用いて福音書を書いたとされています。

僕には、Q資料が、マルコ福音書と対立しているイメージがあります。

マルコの描くイエスは、パンを増やして数千人に分け与え、水の上を歩き、「あなたは、ほむべき者の子、キリストであるか」の問いに「そうだ」と答える。
キリストであるという意味は、その後すぐにローマへ引き渡されることから「王である」という意味で解していいのかなと思う。
キリストであるというならば、王を僭称した危険人物としてローマに告発するということでしょう。
マルコの描くイエスは「キリストか」と問われて、「私がそうだ」と答えている。

Q資料のイエスはサタンに誘惑される。石をパンに変えることを拒否し、空中を歩くことを拒否し、王になることを拒否する。
これはマルコに反するスタンスだ。
ほかにも気になる食い違いがある。
Q資料はベツサイダやカファルナウムを「黄泉にまで落されるであろう」と断罪するが、マルコ福音書はベツサイダやカファルナウムの人々が熱心にイエスの話を聞きにくることを描いている。

「パン」、「水中・空中を歩く奇跡」、「王であること」。
これらの対立している要素は、微妙に重なる気がします。

空想でしかないですが、エルサレムの教会とベツサイダ・カファルナウムの教会が対立していたのかなと感じます。
マルコは、ベツサイダ・カファルナウムの教会を弁護しているのでしょうか。

イエスが処刑され、ペテロがガリラヤの湖に戻ってきて漁をはじめる。
嵐の日にペテロは荒波に悩まされ、不漁に終わる。
疲れ果てた夜明け頃に、ペテロはイエスの姿を見る。
その体験から、ペテロはイエスが復活したと言いはじめたのでしょう。

伝承は伝えられるうちに変形してゆく。
「夜中に弟子が舟に乗っていたが、嵐に巻き込まれて困っていた。するとイエスが水の上をあるいて来てきた。舟に乗ったら嵐が止んだそうだ」
「弟子たちと舟に乗っていると、嵐に巻き込まれたんだが、イエスが静まれと言ったら、嵐が止んだそうだ」
「嵐のなかで漁をしていたらイエスが現れて、言われたように網を打ったら大漁になったそうだ」
イエスが現れて、嵐から助けられたという話に変形して行ったのでしょう。

これはおそらく最初期の出来事で、ガリラヤ湖周辺地域で広まったのかなと想像します。

ペテロは、すぐにエルサレムへ行ったのでしょうか。
そうだとしても、自分の見たものを確かめたくて、かつて共にイエスに弟子入りした仲間と接触したかも知れません。
イエスが復活したと言っても、ほんの一時のことです。幻のように消えてしまっています。
ペテロは復活の意味を考えたかも知れない。
福音書には曖昧にしか記されていませんが、イエスの最初期の宣教はかなり終末論的であったと推測されています。終末はすぐにおとずれる。神の国は近い。
ペテロはイエスの教えを守って、夜中に祈ったのではないかと想像します。
神は夜中に泥棒のように突然やってくる…だから、目を覚まして夜中に祈って、不意に神が来ても大丈夫なように構えておくわけです。

ペテロと、ヤコブとヨハネは山に上り、夜中に祈っていたのではないでしょうか。
そして、光輝くイエスのイメージを見たのではないかと思います。

 【マルコ 9:2-3】
 六日の後、イエスは、ただペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
 ところが、彼らの目の前でイエスの姿が変り、その衣は真白く輝き、
 どんな布さらしでも、それほどに白くすることはできないくらいになった。

「これはわたしの愛する子である。これに聞け」
もしくは、
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」
という声も聞いたのではないかなと。
この伝承は、イエスを神的に描こうとするなかで、死後の伝承から、生前の出来事に移し変えられたという説があります。
なるほどなと思います。

ペテロとヤコブ、ヨハネが、復活したイエスを見たと語りだすと、その話を聞いて群集がやってきたのではないかと思います。
そして、数日荒野で過ごしたのではないかなと。夜中までみんなで祈っていたのではないかと。
そうして、みんなの前で再現してみようと思うのは、ありそうな話でしょう。

僕はこの出来事が伝えられる間に、二つの伝承に枝分かれしたのではないかなと想像してます。
ひとつは五旬節の出来事。120人ほどの人々の前にイエスが現れたというもの。
おそらく同じ話をパウロも知っていて「そののち、五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた」(1コリ15:6)と言ってます。

もうひとつ枝分かれしたものが「三千人の共食」かなと。
イエスの死後の出来事なのに生前に移された伝承なのかも知れないな…と思ってます。

「三千人の共食」の話は奇妙な話です。
微妙に何の話なのか分からない。
パンは「教え」の象徴であるという説明を聞いたことがありますが、それだとイエスは「教え」を持ってなかったので弟子に買いに行かせようとしたことになります。それだと変でしょう。

聖餐の起源となった伝承ではないかという説がありますが、そうなんでしょうか。ぼくは聖餐の起源の話ではないと思います。
僕は元来はパンの話ではなかったのではないかと想像してます。
元来は、「イエスが現れた」という話だったのではないかなと。
祈りのなかで「イエスが現れた」ので、自分たちはイエスを見た。だから、自分たちも教会の一員だと主張した人々がいたのではないかなと思います。
それに対してエルサレム教会は、「聖餐を行なってなければ会員と見なさない」などの判断を出したのかな。
すると三千人は「聖餐を行なった」と主張した。
それに対してまた「そんなにパンはなかった」と使徒たちが否定していたのではないかと思います。
すると三千人は「イエスが奇跡によってパンを増やしたのだ」と、奇跡によって自己の正統性を弁護したのではないかなと。

 【マルコ 8:17-19】
 イエスはそれと知って、彼らに言われた、
 「なぜ、パンがないからだと論じ合っているのか。まだわからないのか、悟らないのか。
 あなたがたの心は鈍くなっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞えないのか。まだ思い出さないのか。
 五つのパンをさいて五千人に分けたとき、拾い集めたパンくずは、幾つのかごになったか」。

「エリシャによるパン施し」(列王紀下4:42-4:44)を原型にして奇跡伝承になったのかなと。
使徒が「パンがなかった」と言うのに対して「いや、むしろ余ったじゃないか」と反論しているのかなと。
でも、これは奇跡が実際にあったかどうかというよりは、意見の合わなくなった地方教会を切り捨てようとする閉鎖的なエルサレム教会に対する批判なのかなと。

このとき、イエスが奇跡行為者であることが前提されてます。
「三千人の共食」の伝承では、パンを増やす奇跡によって人々は「飢え」から救われる。
しかし、Q資料では、石をパンに変える奇跡を拒否する話が出てきます。さらに、

 【マタイ 11:21】
 わざわいだ、コラジンよ。わざわいだ、ベツサイダよ。
 おまえたちのうちでなされた力あるわざが、もしツロとシドンでなされたなら、
 彼らはとうの昔に、荒布をまとい灰をかぶって、悔い改めたであろう。

このQ資料の言い方からすると「奇跡があっても悔い改めていないのだから、君たちは裁きを受けるんだよ」と辛らつな見解ですね。
ベツサイダの人々は、ペテロの最初期の宣教の影響を受けた人々だと思うのですが、どこかの段階でペテロはエルサレムに移ってしまったようです。
エルサレムではイエスの母マリアが弟子たち(ヨハネ福音書記者)と生活していたようです。おそらく、イエスの弟ヤコブも一緒にいたのかなと思います。
120人ほどが一緒に祈ったりしていたと行伝に書かれていますが、このような集会ができるというのは、会堂のような施設を利用していて、そのためエルサレムに信徒のコミュニティが残っていたということなのかな。
ペテロはそこに合流し、かなり早くに復活のイエスを見たということが認められて(1コリ15:5)、指導者な地位についたようです。
五旬節の出来事から信徒が三千人ほど加わったことを報告しています。

 【使徒行伝 2:41】
 そこで、彼の勧めの言葉を受けいれた者たちは、バプテスマを受けたが、
 その日、仲間に加わったものが三千人ほどあった。

僕はこれが「三千人の共食」と関係ある人たちのことだと思っているということです。

ヨハネ福音書では、「三千人の共食」のなかの人々がイエスを王にしようとしていたと書いています(ヨハネ福6:15)。
この伝承のなかには、そういう政治的に不穏なトーンがあるということなのでしょう。
マルコ福音書のイエスは、裁判で「キリストであるか」と問われて「わたしがそうだ」と答える。おそらく、これは新しい王であるという意味で理解され、ローマに告発される根拠となったようです。
しかし、ほかの福音書ではこの点は曖昧になっています。
実際にイエスがどう答えたのかは分かりませんが、マルコが示している理解はどちらかというと政治的に危険だったのかなと思います。

エルサレムでは、弾圧があったためでしょうか。イエスが奇跡行為者であったという面は強調されない。
政治的な意味で王であるという主張も否定的である。
そういう面がQ資料のなかにあるのかなと想像してます。

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いつから

史的イエスの研究書を読んだりすると、一体いつごろからイエスを神だと考えるようになったのだろうと不思議に思う。

いや、最初期には「神の子」であって、それも復活によって神の子とされたという認識だったのではないか、とか。
いや、ヨハネの洗礼を受けたあたりで神の子とされたのではないか、とか。
あるいは、先在のロゴスとか。
ならべると、徐々に神の子とされた時期がさかのぼって行ってるようでもある。

でも、同時に結構古い資料のなかに、すでにひょっこり神だと言われていたりもする。

【ローマ 9:5】
先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。
キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

史的イエスだけではない、神学的な流れが背景にあるってことなんでしょうけど。
聖書は、こちらが予測しているものを裏切って、意外なことを見せてくれる。

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アイドル

僕は聖書を読んではいますが、信者ではないです。
どういう心理で宗教に肩入れするのでしょう。

教会というものはイエス・キリストのカリスマ性に対するファンクラブみたいなものなのかな、と感じるときがあります。
僕はアイドルのファンになったこともないし、なかなかそういう心理が理解できないなぁと思ってましたが、この頃ちょっと「少女時代」にはまってきたので、そこからファン心理を分析します。
ファン心理と、宗教の護教的な発想との共通点など考えて見ます。

少女時代は脚線美を売りにした9人組の韓国系アイドル。
「GENIE」をテレビで見て「モデルみたいで格好よいなぁ」と思って見始めてます。
9人もいると誰が誰だか見分けがつかない。ダンスが揃っているところが格好よいという印象です。
「GENIE」のコーラスの途中なのにセンターが入れ替わるのが凄いよな。

9人もいれば、好みのタイプの子がひとりくらいはいるのであって、そのうち見分けがつくようになる。
同時にそんなに好みじゃないというか、このメンバーのなかではそんな美人じゃないかな…なんて思うのも居たりするわけですが、トータルに少女時代というグループを美しいと思っているので、「こんな綺麗なのがそろっているメンバーだと比較されて大変だろうな。がんばれー」と応援する心理になりますね。
これがアイドル教の護教論とでもいうべきものになるかなと思います。
アイドルを批判をさせない理屈を自分のなかに作り上げてしまうわけです。

アイドルなんてのは大抵じっくり見れば、そんなに美人じゃなかったりします。KARAの方が可愛いじゃないかとか。
でも、そういう批判にいろいろ理屈をつけて耳を貸さないところがファン心理だったりするわけです。
少女時代の場合は、たぶん美人であるかどうかより、美人オーラが出てるかどうかの方が重要な気がします。僕の見方では、そうだ、というだけですが。
youtubeにはダンスの練習動画なんかがアップされていて、そちらの方がPVよりもダンスの振り付け・フォーメーションがわかりやすい。
PVの方が顔のアップがあって顔はよく見えるわけです。
でも、ダンスの練習動画なんかを見るのが楽しいのは、たぶん美人オーラがすでにそこにあるから…それがどこから生まれるのかを見極めたくて見てしまうのだと思います。
こういう理屈をこねたくなるのが、つまり護教論ですね。

一般の人がダンスに挑戦して踊ったものもアップされてますね。
それを見て、うまくダンスしてるんだけど、やっぱり本物の方が凄いな…とか思ってたりします。
振り付けをしたダンサーの仲宗根梨乃さんの動画は流石に動きの切れが違いますね。
振り付けは日本人がやってたんですね。びっくり。

少女時代の「Gee」は可愛らしい曲ですが、日本語の歌詞とダンスがちょっと合っていません。
ダンスを見てると「彼って素敵なの どう思いを伝えたらいいのかしら」って感じの振り付けです。
「Gee」というのは、英語の「おや」ぐらいの言葉だそうです。「Gee、Gee…」というのは恋の相談に乗ってる友達の反応でしょうか。
でも、日本語の歌詞は「やめちゃえ いっそ ヤなことなんて 全速力回避せよ」と授業でもエスケープするような話になっている。
原曲の歌詞をベースにダンスが振付けられているので、ダンスとあわない部分はどうしても出てきます。
歌詞の翻訳する人は大変だろうなぁと思います。

日本語の歌詞とダンスとの間に違和感があるので、意味がわからなくても韓国語バージョンで見てることが多いです。
韓国語は何を言ってるのかわからないけど、歌詞の部分で違和感がない方が聞きやすい。
僕は韓流を嫌うタイプではないけど、ほぼ韓国やアジアに関心がなかったのですが、結構少女時代を聞いてる間に韓国語に興味をもってきました。

そうして韓国語バージョンで聞いてるうちに、日本語の歌詞で評価しなくなってるんですね。
「Run Devil Run」の日本語の歌詞があんまり好きでないわけです(「革命的制裁でぇ~♪」ってのがどうもいかん)。でも、曲は好きなので韓国語バージョンで良ければ(歌詞はわかんないけど)良しとするわけです。
これで歌詞がいまいちだ、という批判をスルーすることになります。これも一種のアイドル信仰を護るための論理となる。つまり、護教論ですね。
キリスト教でいえば、聖書のこう書いてるのが気にいらないと批判されると、ギリシャ語の原典では意味が違うんですと言い逃れるようなものです。

そうやってほぼ無意識に批判をかわす理屈を作り上げていることに、先日気づきました。
おぉこれがファン心理というやつか。
宗教の護教論も似たようなものかな、と思ったりしました。

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