ヤコブの手紙 3:1~

ヤコブ3章の雑感

パウロの手紙を批判する2章に比べて、たとえが多く、話の主旨にまとまりが欠けて感じる3章です。

ヤコブは何度も、「完全であれ」と言いますが、これらはこの3章に掛かってきます。
言葉の上であやまちのない人は、全身をも制御することができる完全な人である、とヤコブは言います。
「ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない」と、ここで話を一転させます。
ヤコブは完全であることは無理だと判断していながら、ここまで論じていたわけです。

パウロは、キリストの死にあずかる者は、罪から逃れることができたと考えていたようです。(ローマ 6章あたり)
教会は、キリストによって罪から贖われたと考えたわけです。
問題は、その後、すぐに終末が来なかったことです。
神の国がなかなか来ないことによって、神の裁きの前に信徒が亡くなったり、罪を犯したりと、ゴタゴタしはじめます。

ヤコブの教会では、罵り合いが起こった。
おそらく、パウロ神学の影響を受けた人々が、律法を素朴にまもろうとした人々を批判したのでしょう。
「ユダヤの神も、異邦人の神も、一つだ。異邦人を救ってくださる神は、信仰を見て救ってくれたのだ。律法の行いに頼っているのはキリストの恵みを台無しにしているんだぞ」というような調子で批判したのかなと思います。
「神がお一人であると信じているのか、それは結構なことだ。悪霊もそう信じておびえているさ。行いのない信仰など、何の役にたつ。それなら、行いなしに信仰を見せてみよ。わたしは行いで信仰を見せてあげますよ」
このあたりが、2章でヤコブが描いている構図だと思います。

3章では、ヤコブは、相手がそうやって「教師」として偉そうに教えていることを批判します。
教師にはより厳しい裁きが待っているのだぞと。
くつわが馬を制御できるように、かじが船を制御できるように、舌は人間を制御してしまう。
舌は大言壮語し、相手を罵る毒を吐く。
さて、罵り合っているみなさん、舌を制御できてますか。
信仰を持っている。それは結構だ。で、行いは制御できてますか。
罪から贖われている。それは結構だ。でも、貧しい者を冷遇しているのではないですか。

罪なんて抽象的なものは、何とでも言い逃れできてしまう。
でも、言葉にあらわれているでしょうと突かれると、言い逃れができない。

いや、これも言い逃れることはできる。
相手が邪悪なことをやっているから、批判するのは当然だ、と。
自分の悪を正当化するのに、相手がもっと悪だからだと説明する。

言い逃れるポイントはいくつかある。
・相手が悪いから、俺の批判は当然である。
・俺の悪口によって実際何も損害は出ていない。
・俺を批判する奴も、悪口ぐらい言っているんだから、えらそうに言えないだろう。
・俺は教会を良くするため、社会のため、みんなのためにやっているんだ。
などなどがあるでしょう。
こういう言い訳によって、自分を正当化し、相手を罵ることを正当化し、他者からの批判に耳を貸さないわけです。

たぶん、ヤコブはそういう言い逃れをさせないように工夫している。
「キリストの信仰を持ちながら差別してならない」
「神を賛美する口で、神が創った人を罵ってはならない」
このような批判の仕方は、相手に上記のような言い逃れをさせない。
あなたは信仰を持っているというのだな。それならば、差別してはならない。罵ってはならない。
罵るならば、それは舌の悪に毒されているのだ。
知恵のある者は、行いによってそれを示してみなさい、と。

こういう言い訳させない話の展開の仕方からすると、ヤコブさんは議論慣れしている印象です。
ヤコブさんは、結構、議論巧者だと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

ヤコブ3:18 義の実

καρπὸς δὲ δικαιοσύνης ἐν εἰρήνῃ σπείρεται τοῖς ποιοῦσιν εἰρήνην.

(口語訳)義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。

---
καρπὸς δὲ δικαιοσύνης
また義の実は
ἐν εἰρήνῃ
平和において
σπείρεται
蒔かれる
τοῖς ποιοῦσιν εἰρήνην.
平和をなす者たちに

平和をなす者たちに「よって」蒔かれると訳すのか。
口語訳を読むまでは、平和をなす者たちに「対して」蒔かれるのかと思ったや。

なので訳すと、
「また義の実は平和において、平和をなす者たちによって蒔かれる」
という感じでしょうか。

実が蒔かれるのか。種ではなくて。
蒔かれた種を育てる行為が、つまり平和をなすということなのでしょうから、すでに平和をなしているならばそこには実がもう成っているということかな。

ともかく、ヤコブさんとしては、義の実は平和なものなのだ、ということです。
なので、ヤコブさんは争いがあれば、そのことを問題にします。つづく4章はそういう展開ですね。

でも、まぁ世の中のことに当てはめて考えると、おとなしくしていれば、それで正しいというわけでもない。
ヤコブさんも、それは分かっている。おとなしければ、平和であればそれでいいとは思っていない。
なすべき善が何であるか分かっているならば、それを行なわなければならない責任があるとヤコブは考えているようですね。

ヤコブさんは、祈りの重要性なども後半に論じてますが、基本的には合理的に行動するタイプに思えますね。
合理的に行動すべきであると分かっているときには、行なうべきを行なう。
何でもかんでもオカルティックに解決しようとしないところが、わりと理解しやすいです。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 3:17 上からの知恵は、第一に清く

ἡ δὲ ἄνωθεν σοφία πρῶτον μὲν ἁγνή ἐστιν, ἔπειτα εἰρηνική, ἐπιεικής, εὐπειθής, μεστὴ ἐλέους καὶ καρπῶν ἀγαθῶν, ἀδιάκριτος, ἀνυπόκριτος.

(口語訳)しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。

---
自分なりに訳してみると下記のような感じです。

ἡ δὲ ἄνωθεν σοφία πρῶτον μὲν ἁγνή ἐστιν,
しかし、上からの知恵は第一にまさに純粋であり、
ἔπειτα εἰρηνική, ἐπιεικής, εὐπειθής, μεστὴ ἐλέους καὶ καρπῶν ἀγαθῶν,
そうして平和で、優しく、求めに応じてくれて、慈悲とよい実に満ちて、
ἀδιάκριτος, ἀνυπόκριτος.
決め付けることがなく、偽善的でもない。

形容詞がズラズラと出てきます。
知恵は純粋であることが第一に挙げられてますが、ここまでの文脈のなかでそんなに純粋という言葉が出てきてないのに、ここに来て突然「純粋であること」が筆頭に来てますね。
純粋って何?
これまでの文脈だと、欲望や嫉妬や野心なんてものは、利害的な関心から行動しているのだって話であったので、まぁそういう動機が混じっていれば純粋ではないか。
ヤコブは、神は「惜しみなく与えてくれる」と言ってるけど、この惜しみなくというのは「ἁπλῶς 純真に」というような語ですが、これまでの文脈ではこれが一番近いかな。
あと「清く汚れのない信心とは…」(ヤコブ1:27)という表現があったけど、「καθαρὰ 清く」と「ἀμίαντος 汚れがない」という語なので、ちょっと違う。

全体的に、ヤコブにとっての神のイメージに近い。
こういうものは、神とはこういうものだ…と自分なりのイメージをもって、それを根拠に論じてゆくものなのかな。
ヤコブの善なる神は、キリスト教の神のイメージのなかでは、ちょっとズレた位置にある気がします。ヤコブの神は、どちらかというとすべてを与えてしまっていて、人間に余計な干渉をしない。人間のあるべき道は知恵によって示され、それは善であることが分かる。どちらかといえば、正しい道を歩んでいるか何度も自分を検証しながら進んでゆくという感じです。
でも、キリスト教の神のイメージは、どちらかというと信徒に対して決定的な干渉を行っており、信徒は義とされるのだと「決定」しているような存在として理解されているように見えます。
ヤコブは、そういう決定を受けたと意識している印象はなくって、むしろ何か道のなかばにあって先に進まねばならない、というような意識をもっている印象をうけます。ディダケーにあるような、命へいたる道のなかばにいますよ、という感じでしょうか。道は選択し、そこを進み始めてはいるけれど、とくにその道は何といって完成していないし、まだまだ善は検証され追及されねばならない。
神の知恵に従って生きてゆくということが、ヤコブとしてはひとつの課題としてあるということでしょうか。
ヤコブは律法遵守を中心に理解されますが、律法全体を守るように言ってはいるけど、実際に取り上げているのはイエスが重んじた隣人愛であるし、異邦人出身の信徒が律法全体がまもれないにしても遵守しようとする人々にケチをつけてこなければそれで良くて、基本的にはイエスの教えと神の知恵を同一視して、それに従って生きて、迫り来る終末の裁きに備えるべきだ、というのがヤコブさんの理解しているところかなと思います。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 3:16 混乱とあらゆる忌むべき行為

ὅπου γὰρ ζῆλος καὶ ἐριθεία, ἐκεῖ ἀκαταστασία καὶ πᾶν φαῦλον πρᾶγμα.

(口語訳)ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。

---
自分なりに訳してみると、下記のような感じでしょうか。

ὅπου γὰρ ζῆλος καὶ ἐριθεία,
なぜなら嫉妬と野心があるところは、
ἐκεῖ ἀκαταστασία καὶ πᾶν φαῦλον πρᾶγμα.
そこに無秩序とあらゆる悪しき行為があるからだ。

この部分には動詞がないです。「あるところ」などは付け足してます。
ἀκαταστασίαは、元になっている「ἀκατάστατος 不安定」という語が(ヤコブ 1:8)に出てきます。

ヤコブのイメージとしては、神はあらゆる物を惜しみなく人間に与えてくれている存在であるようです。
でも、人間は欲を出してそれを台無しにしている。
ヤコブは当時の教会の問題として、世話役が貧しい人を冷遇したり、指導者の名誉を嫉妬して信徒が「教師」として振舞いたがるので混乱が生じている、と考えているようです。
その「教師」たちは、パウロの神学に影響を受けていて「律法にたよるものは、キリストとは無縁だ」などと言って、律法を遵守するユダヤ系キリスト教徒を困らせていたのかも知れません。
ヤコブとしては、その知恵が天からのものならば、平和をもたらすはずだとします。なぜなら神は常に善なる存在で、善いものを与えてくれるのだと。
ヤコブとしては、神が善であるならば、善を志向するのは当然ということになります。
そして、結果を見て、混乱が生じているならば、その知恵に問題があるのではないかと反省を促します。
人間の嫉妬や野心に由来する知恵は、神の知恵とは違って、混乱を生じるのだと。

これに対して人間は怒ればいいのでしょうか。
ヤコブとしては、それも違うと考えている。人の怒りは、神の義をもたらすことはない(ヤコブ 1:20)。

ヤコブとしては、神は十分人間の幸福のために準備してくれていると考えている。
それを無駄にしているのは、人間の方である。
不幸な結果は、間違った知恵に従っていたからだ。
欲や野心を出して、儲けて傲慢になって、貧しい人々を苦しめる。
しかし、それは神の怒りを招くのだと、続いてゆきます。

パウロだと、神は果たして正しい存在なのかと議論してたりします(ローマ9章以下ぐらい)。
結局これは神が救う対象を「あらかじめ選択している」と考えた結果、「神に救う気がない」という結論が出てしまうためです。
神が救いたいものだけを救うというのは、妙にケチで邪悪なイメージになってしまう。
神が、イスラエルをわざとかたくなにして、その罪のためにイスラエルの人々を見捨てる、とパウロは考えることはできない。
パウロは自分で考えた結論に、自分でつまづいてます。
結局パウロにしても、勢いあまってイスラエル全部だけでなく、異邦人も全部すくわれるのだと言い張ります。

 (ローマ 11:25-26 抜粋)
 一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。

パウロとしては、この希望のなかで活動することで神を正しい存在だと考えることができたみたい。

 (ローマ 9:3)
 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、
 わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。

 (1コリント 13:2)
 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、
 また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

パウロの考え方は、案外清々しい
信仰しているから偉いんだぜ、と考えておらず、同族のためならのろわれることも厭わず、自分に愛がなければ無に等しいのだという姿勢ですね。
これがなくなると、「神にかたくなにされた人は滅びますね、ははは」で終わる。そんな神はパウロは信じてない。

それにしても、こういうのはヤコブと比べると随分危なっかしい不安定な発想だと僕は感じます。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 3:15 地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである

οὐκ ἔστιν αὕτη ἡ σοφία ἄνωθεν κατερχομένη ἀλλὰ ἐπίγειος, ψυχική, δαιμονιώδης.

(口語訳)そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。

---
οὐκ ἔστιν αὕτη ἡ σοφία ἄνωθεν κατερχομένη
この知恵は上から降りて来たのではなく、
ἀλλὰ ἐπίγειος, ψυχική, δαιμονιώδης.
地上の、感覚の、悪魔的なものである。


「ψυχική」を口語訳は「肉に属するもの」と訳している。
新共同訳だと「この世のもの」としている。
英語だと sensual と訳されたりするようです。「肉体的感覚の」というような意味でしょうか。
「natural」という訳もあります。うーむ。肉体的感覚で捉えられるものなのだから、物理的な、自然のなかの存在であるということでしょうか。
それを敷衍して新共同訳の「この世のもの」という訳になるのかな。
天からの存在ではなく、「この世のもの」であるならば、「肉に属するもの」であるというのが口語訳の理解でしょうか。
…でも、ヤコブは「肉」について他には何も言ってないしな。
ヤコブは、世は悪しき存在であると理解しているようですが、それを「肉」とは分類してない。
パウロだったら、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」(ローマ 8:5)のように霊と肉を対立するものとして並べますが、ヤコブはそういう表現はしないですね。
うーむ。
ここは「感覚の」と訳しておいたらいいのかなと感じます。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 3:14 真理にそむいて偽ってはならない

εἰ δὲ ζῆλον πικρὸν ἔχετε καὶ ἐριθείαν ἐν τῇ καρδίᾳ ὑμῶν, μὴ κατακαυχᾶσθε καὶ ψεύδεσθε κατὰ τῆς ἀληθείας.

(ヤコブ 3:14 口語訳)
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、
誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。

自分なりに試訳すると下記のような感じでしょうか。

εἰ δὲ ζῆλον πικρὸν ἔχετε
また、もし苦い嫉妬を持つ者、
καὶ ἐριθείαν ἐν τῇ καρδίᾳ ὑμῶν,
またあなたたちの心に野心を持つ者があれば、
μὴ κατακαυχᾶσθε καὶ ψεύδεσθε κατὰ τῆς ἀληθείας.
傲慢になって真実について偽ってはならない。

---
εἰ は「もし」。
δὲ は「しかし」とか、「また」という意味。

ζῆλον πικρὸν で「苦い嫉妬を」。
ζῆλον が「嫉妬」とか「熱心」という名詞で、πικρὸνは「苦い」という形容詞。語尾が「-ον」になっていて、どちらも対格(~を)の形です。

ζῆλονは辞書だと、「ζῆλος, ου, ὁ」とそれぞれ「ζῆλος(主格単数の形)、ου(属格単数の語尾)、ὁ(冠詞)」が記載されてます。
この組み合わせで第二変化の男性名詞がわかります。
第二変化の男性単数は下記のように変化するので、
主格 ζῆλος
所有格 ζήλου
与格 ζῆλῳ
対格 ζῆλον
「ζῆλον」は対格(~を)の形です。「嫉妬を」ということですね。

「πικρὸν 苦い」も同じなんですが、辞書だと「πικρός, ά, όν」とあります。
これは「πικρός(男性), ά(女性), όν(中性)」のそれぞれの語尾がかかれてます。
形容詞は、かける名詞に性数格をそろえるので、男性名詞にかけるときには男性の形を使う。
これはすぐとなりにある「ζῆλον 嫉妬」にかかってますね。
「苦い嫉妬(を)」という意味になる。

ἔχετε
ἔχωは「持つ」とか「伴う」といった意味。
能動現在の動詞は、数によって語尾が下記のように変化します。

一人称単数(私は~する)-ω
二人称単数(あなたは~する)-εις
三人称単数(彼[女]は~する)-ει
一人称複数(私たちは~する)-ομεν
二人称複数(あなたたちは~する)-ετε
三人称複数(彼[女]らは~する)-ουσι

ἔχ-ετε は二人称複数の形です。

καὶ は「また」とか「そして」という接続詞。

「ἐριθείαν 野心」は辞書だと「ἐριθεία, ας, ἡ」となってます。
第一変化の女性名詞ですね。主格単数の語尾が「-α」で属格が「-ας」の変化のパターンのものです。
(ウィキペディアの「Ancient Greek grammar (tables)」に変化表も参考に)
ἐριθείανは表の単数(Singular)の対格(Accusative)に確認できます。
対格なので「野心を」という意味になります。
口語訳だと「党派心」となってますね。新共同訳だと「利己的」。
辞書だと「報酬目当ての」というような意味が出てますね。たしか、田川訳も、コリントスでこの語をそのような意味であると書いてたような。賞賛などの利益を目当てにしているという意味になるのかな。

ἐν τῇ καρδίᾳ ὑμῶνで「あなた方の心において」です。
ἐνは「~において」という前置詞。
τῇは冠詞。単数女性与格(~に)の形。
καρδίᾳ は「心」。辞書だと「καρδία, ας, ἡ」。第一変化の女性名詞。単数・与格(~に)の形。「心に」となる。
ὑμῶνは「私たちの」という語。
(例によってウィキペディアの変化表です。「Ancient Greek grammar (tables)」)

ここまでのところをまとめると、
「εἰ δὲ ζῆλον πικρὸν ἔχετε καὶ ἐριθείαν ἐν τῇ καρδίᾳ ὑμῶν」
「でも、もし苦い嫉妬をあなた方が持ち、またあなたがたの心において野心を(持つならば)」
という訳になりますかね。


μὴ κατακαυχᾶσθε
μὴ は「~ない」と否定する語。
κατακαυχᾶσθε は「傲慢な態度をとる/尊大である」という動詞の命令形。
「傲慢になるな」という意味ですね。

καὶ ψεύδεσθε は「また、偽るな」という意味。

κατὰ τῆς ἀληθείαςは「真実について」という意味。

---

真理に背く動機として、傲慢さが挙げられている。
おそらく教会の指導的な地位にある人物が批判されていて、信徒のなかの教師ぶる人々は賞賛を「嫉妬」から批判して、彼らは真実を捻じ曲げてしまっているのだ、と見なされているのだと思います。
似たような教会の混乱については、第一クレメンスの手紙も伝えています。クレメンスのケースでは、エルサレムへ献金することについて混乱が生じたようです。

ヤコブのケースでは、何が問題になったか分からないけど、貧富の差と、律法を行なうことがヤコブ書で強調されてます。
イスラエルから離れ、ユダヤ人以外にも広がってゆくにつれて、習慣や伝統に対する理解は難しくなります。
貧しいものを保護する意味をもつ律法・習慣が無視され、弱者が冷遇される状況を目にして、ヤコブは批判しているのではないかなと思います。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ3:13 知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか

Τίς σοφὸς καὶ ἐπιστήμων ἐν ὑμῖν δειξάτω ἐκ τῆς καλῆς ἀναστροφῆς τὰ ἔργα αὐτοῦ ἐν πραΰτητι σοφίας.

 (口語訳 3:13)
 あなたがたのうちで、知恵があり物わかりのよい人は、だれであるか。
 その人は、知恵にかなう柔和な行いをしていることを、よい生活によって示すがよい。

---
口語訳、新共同訳では「誰であるか?」と尋ねてますね。
うーむ。でも疑問文という感じでもないような。

あと「知恵にかなう柔和な行い」というところが難しいな。
「その行い」という風に「その」と付いてるのですが、「知恵にかなう柔和な行い」と訳すと、「その行い」が指してるものが分かりにくいような…。
「その行い」の「その」は「知恵と見識ある者」を指してそうなので、「知恵の柔和さ」とは別に「その」という語も残した方が良さそうな気がします。「智恵のあるものは、智恵のあるところを見せてみなさい」ということでしょう。

「よい生活」というと、僕には金銭的に豊かな生活という意味にちょっと誤解してしまいます。
生き方とか、ふるまいというような語であるようです。その訳の方がよいかな。

Τίς σοφὸς καὶ ἐπιστήμων ἐν ὑμῖν
誰か、あなた方のなかの知恵のある者、また見識ある者は、
δειξάτω ἐκ τῆς καλῆς ἀναστροφῆς
良いふるまいによって示しなさい
τὰ ἔργα αὐτοῦ
その行いを
ἐν πραΰτητι σοφίας.
知恵の柔和さにおいて

訳文としては、
「あなた方のなかの知恵と見識ある者は、良いふるまいによって、知恵の柔和さにあるその行いを示しなさい」
のような感じでしょうか。

3章では、ヤコブは、多くのものが教師となるなと言ってます。
言葉で失敗して厳しい裁きを受けることになるぞと。
舌は制御が難しく、大言壮語するものなのだ、とヤコブは諭しています。

そして4章を見ると、教会内で罵り合いの論争が生じていたらしいことが語られています。
つまり、信徒のなかに教師のように教える人々が大勢いて、彼らの教えが混乱を生じ、罵り合いになっていたのでしょう。
ヤコブはそれに介入して、揉め事を治めようとしているようです。

教師のような顔をして、偉そうに教えていた人々によって、教会内の貧しい人たちは冷遇されてしまった。
揉め事の中心にいた「教師」は、パウロの神学に影響された人々だったのではなかと思います。
僕のイメージではその「教師」は非ユダヤ人のヘレニストで「律法に頼るものは、キリストとは無縁だ」などと言って、ユダヤ系の律法を遵守するキリスト教徒を困らせていたのではないかなと想像します。
ヤコブは見かねて「行いのない信仰は、それ自身では死んだものだ」とパウロ神学を牽制してみせたのかなと思います。

そして罵り合っている教会へ、ヤコブは「君たちのなかで我こそ知恵ある者だというものが居るんだったら、罵ってないで、ふるまいで知恵者であるところを示してみなさい」と言ってるのでしょう。

たぶん、「教師」とされる人々はそこそこ裕福で、教育もあったのではないかなと思います。
でも、貧しい人たちを馬鹿にしていた。
ヤコブは、知恵の欠ける人たちには、「神に求めよ」と教えている。
知恵が神から与えられると信じれば、与えられる。
その知恵は、柔和なふるまいで示しなさい。
でも疑っているようならば知恵は与えられない。
疑う者は、風に吹き上げられる波のように不安定だ。…これは「教師」の教えに影響されて、不安になったり、怒ったりしていることを指しているのではないでしょうか。
(「教師」たちではなく)神から知恵を求めなさい、とヤコブが語る理由はそのあたりにあるかなと。
みんな「教師」になるな、言葉において誤りを犯して、厳しい裁きを受けることになるぞ。

まぁ僕のイメージでは、そういう話をヤコブさんがしているのではないかなと思いますね。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 3:12 いちじくの木とオリブの実

μὴ δύναται, ἀδελφοί μου, συκῆ ἐλαίας ποιῆσαι ἢ ἄμπελος σῦκα;
οὔτε ἁλυκὸν γλυκὺ ποιῆσαι ὕδωρ.

(ヤコブ 3:12 口語訳) わたしの兄弟たちよ。いちじくの木がオリブの実を結び、ぶどうの木がいちじくの実を結ぶことができようか。
塩水も、甘い水を出すことはできない。

--- 訳としては、下記のような感じでしょうか。
「私の兄弟たちよ、いちじくの木にはオリーブの実を、またブドウの木がイチジクを作れるか。
塩気もまた、甘く水を作れない」

最後のところは、「塩水」なのでしょうか。塩という語の中性単数ですが。
形容詞ならば、「塩気」ぐらいの意味になるのかな?
---
これはつまり、相手を罵倒する言葉を吐くことは「できない」ことを説明するわけです。意思によってしないのではなく。

こういう説教の仕方は、実は僕的には納得できません。
僕としては「罵倒してはいけない」と教えるべきだと感じてしまいます。
でも、新約聖書を読むと、「正しい人は罵倒しない」という設定だけ論じます。そして、あなたたちは正しい人なのだから罵倒しないのです…というような説明の仕方をします。
こういう論じ方はどうも苦手です。
結局努力して、意識してやっているだけのことを「自然と」できたかのように論ずる。そうやって自分たちが神の恵みを受けているのですと暗に主張しているところが、どうも好きではない。

でも、まぁこういう論じ方は、自分は神の恵みを受けているのだと自認する人には効果的なのでしょう。
「人をののしるべきではない」と言っても聞かないわけです。
相手が罵られるべきであり、悪魔的であるからとか、神の敵であるからとか、理由をつけて罵倒することを正当化します。
でも、そうさせない論理がここにある。
つまり、神を賛美して、同じ口で神が創った人を罵ったりしてはならないのだ、という論法です。

信仰者さんとしては、一種の敬虔さとして納得できるわけでしょう。
でも、その背後には、神の恵みを受けた者であるという尊大さが隠れています。
相手を馬鹿にしているけど、手を汚すべきではない「から」、罵らないと言ってるだけですので。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 3:11 甘い水と苦い水

μήτι ἡ πηγὴ ἐκ τῆς αὐτῆς ὀπῆς βρύει τὸ γλυκὺ καὶ τὸ πικρόν;

(ヤコブ 3:11 口語訳)泉が、甘い水と苦い水とを、同じ穴からふき出すことがあろうか。

サボってばかりいないで、また勉強するか。
ギリシャ語は、名詞の語尾が変化して「~は」「~の」「~に」「~を」などを表現します。
変化の仕方は、男性名詞や女性名詞、中性名詞で違うし、第三変化なんてのもあるので、覚えるのは結構面倒くさい。

変化の仕方は似たようなものですから、覚えやすいものから覚えればいいのかなと思います。
僕は冠詞の変化が覚えやすい気がします。

【冠詞 女性】
<単数>
 (主格) ἡ
 (属格) τῆς
 (与格) τῇ
 (対格) τήν
<複数>
 (主格) αἱ
 (属格) τῶν
 (与格) ταῖς
 (対格) τάς

これは第一変化の「η」で終わる名詞の語尾の変化とよく似てます。
<単数>
 (主格) κώμη
 (属格) κώμης
 (与格) κώμ
 (対格) κώμην
<複数>
 (主格) κῶμαι
 (属格) κωμῶν
 (与格) κώμαις
 (対格) κώμας

冠詞を覚えてしまえば、第一変化「η」はそのまんま応用できますね。

では本文を見ていきますか。
μήτι ἡ πηγὴ ἐκ τῆς αὐτῆς ὀπῆς のところです。

「μήτι」は「μή」と「τίς」が組み合わさった語だそうです。「~なものが何かあろうか?」ぐらいの意味のようです。
「ἡ πηγὴ」は女性名詞ですね。「泉」の主格、単数です。
「ἐκ τῆς αὐτῆς ὀπῆς 」も女性名詞です。意味は「同じ穴から」。属格、単数の語尾になってます。
「ἐκ」+属格で「~から」という意味になります。
「βρύει 」は「湧き出す/噴出す」という動詞。
「τὸ 」これは中性の冠詞です。
「τὸ γλυκὺ καὶ τὸ πικρόν」は、「甘いものと苦いもの」
甘いという形容詞は辞書で見ると「γλυκύς, εῖα, ύ」と書いてます。男性、女性、中性での語尾が並べてかかれてます。「γλυκ」は中性です。
苦いという形容詞も「πικρός, ά, όν」と、男性、女性、中性の形が並べて書かれてます。「πικρόν」は中性です。
最後の「;」 は「?」にあたります。

訳すと、「同じ穴から、甘いのと苦いのを湧き出す泉があろうか」という感じでしょうか。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 3:9-10 神にかたどって造られた人間をのろっている

【口語訳】
3:9わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。
3:10同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。

ἐν αὐτῇ εὐλογοῦμεν τὸν κύριον καὶ πατέρα
そこにおいて父なる主を賛美し、
καὶ ἐν αὐτῇ καταρώμεθα τοὺς ἀνθρώπους τοὺς καθ’ ὁμοίωσιν θεοῦ γεγονότας,
またそこにおいて神の似姿に創られた人を呪う、
ἐκ τοῦ αὐτοῦ στόματος ἐξέρχεται εὐλογία καὶ κατάρα.
同じ口から賛美と呪いが出る。
οὐ χρή, ἀδελφοί μου, ταῦτα οὗτως γίνεσθαι.
私の兄弟たちよ、このようなことがあるべきではない。


なぜ同じ口から賛美と呪いが出てはいけないのでしょう。ただ、呪いの言葉を発するなと言えば良さそうなものです。
なので、非信者からすると、この説明の仕方はピンと来ない。
ですが、このように説明であれば、「あの連中は罵るべきだ、なぜなら奴らは神の教えを曲げる神の敵だからだ」と熱くなってしまっている信徒を制することができます。
賛美と呪いが同じ口から出るようなことは、あるべきではない。
これでみんな罵倒しにくくなる。
それでも罵倒しようとする者には、あなたはご自身を舌を制することができる完全者だとでも思っているのか、と突っ込む。
「人の怒りは、神の義を全うするものではない」(ヤコブ 1:20)と突っ込むのも良いな。
これで頭に血がのぼっている信徒を落ち着かせる。

相手を神の敵であると設定して呪うことを正当化していたりすると、「悪口言っちゃ駄目だよ」と言っても聞かない。
怒りというものは、それが正当に思えるからこそ取り憑かれる。正しい怒りだと思っているからこそ、呪うべきではないというルールを破ってよいように思える。こういう正義感はバランスを失いやすい。
冷静に考えれば火急の問題でもなく、罵るほど大した問題でもないのに「○○だけは許せない」とムキになったりする。
「○○だけは…」という時に、モラルの偏りがあるんだよね。ほかは許しているんだから。
こういう人は自分を冷静に見つめるべきだ。「○○だけは許せない」と偏った正義を求める裏側には、自分の罪を逃れさせるための言い訳が隠れているものです。
偏った正義を求める人は、倒錯した欲望を批判からそらすために「○○だけは許せない」などと言ってる…ように僕には見えることがよくあります。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)