ヤコブの手紙 2:21~

ヤコブの手紙 2章の雑感

2章はヤコブの手紙のなかでも重要な章ですね。ヤコブさんの主張が詰まっています。

ヤコブさんの教会は何かゴタついている。たぶん原因はパウロ神学に影響された裕福な信徒が、教師のように偉そうに言って貧しい信徒を馬鹿にしていることにあるのだと思います。
パウロ神学に影響されて、ユダヤの神は異邦人の神でもある。神は唯一だ。しかし、律法の行いによって義とされないのだと説教していたのでしょう。
ひょっとすると「ユダヤ系キリスト教徒」が律法を遵守しようとしていると、「律法に頼るならばその者はキリストから離れている」などと批判していたかも。

それに対するヤコブの反論は鋭い。
「神は唯一だと信じている、それは結構なことだ」と、まず皮肉なトーンで相手の主張を捌いていく。
「もしあなた方が『隣人を自分のように愛せよ』という律法を実行しているなら、結構なことだ」だが、律法全部まもっても、一つ落ち度があるなら…隣人を愛してなければ、それは立派な違反者なんだよ。あんたらは貧しい仲間を差別しただろう。
「信仰も…行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」
「行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」
「行いのない信仰も死んだものなのである」
とねじ伏せてゆきます。

ヤコブのいう「行い」は、律法に全体を指しているですが、何よりも「人を差別しない」という点に掛かっています。
使徒教令によって、異邦人信徒は律法を守る必要はないとされていたのだろうと思います。
でも、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」はイエスが重んじた教えなので、異邦人信徒も守るように指導されていたのかな。
「良きサマリア人」の話では、通常は「隣人」に数えられなかったサマリア人を偏見なく「隣人」であると言ってますね。
イエスの教えでは、「人を分け隔てしない」という意味を持った「隣人愛」です。
だから、「隣人愛」を守ろうとするならば、人を分け隔てしてはならないという主張につながります。

しかも、この「行い」は何をすればよいというような決まりがあるわけでもない。
自発的に愛を行う必要がある。
貧しい者を馬鹿にしたり、偏見をもっているようでは、愛など行えるわけがない。
だから、ヤコブさんは立ち返って「人を分け隔てするな」と叱っている、ということなんでしょう。

このあとヤコブさんの怒り方は激しくなって行きますが、相手を排除しようとはしてないと思います。
ヤコブの怒りは、預言者チックなのですが、預言者がそうであるようにヤコブさんも決して人々を見捨てたりしない。…あぁ、「富んだ者」は滅びるとしてますが。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 2:26 行いのない信仰も死んだもの

ὥσπερ τὸ σῶμα χωρὶς πνεύματος νεκρόν ἐστιν, οὕτως καὶ ἡ πίστις χωρὶς ἔργων νεκρά ἐστιν.

(口語訳) 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。

ὥσπερ /ὥσπερ (~だけ) 副詞
τὸ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数中性
σῶμα /σῶμα (肉体) 名詞 主格単数中性
χωρὶς /χωρίς (~なしに) 副詞
πνεύματος /πνεῦμα (霊) 名詞 属格単数中性
νεκρόν /νεκρός (死) 形容詞 主格単数中性
ἐστιν /εἰμί (~である) 動詞 現在能動直接法 三人称単数
οὕτως /οὕτως (このように) 副詞
καὶ /καί (また) 接続詞
ἡ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 名詞 主格単数女性
χωρὶς /χωρίς (~なしに) 副詞
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 属格複数中性
νεκρά /νεκρός (死) 形容詞 主格単数女性
ἐστιν /εἰμί (~である) 動詞 現在能動直接法 三人称単数

訳としては
「霊のない肉体だけでは死んでいる、同じように信仰も行いなしには死んでいる」
という感じです。

ヤコブ書を象徴する一節ですね。
肉体だけあっても生命活動がないと死体と同じだと。信仰も、活動がなければ死んだものなのだと説明するあたりは、ヤコブさんはなかなかな論客です。

これに対立する命題はパウロの神学ですね。

(ローマ 3:28)
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

パウロの場合は、律法を行ったからと言って、その功績を誇ることはできない、というものですね。
ヤコブの場合は、信仰しているというだけでは、その信仰は死んでいる。行いを伴わせなければならないというもの。


↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 2:25 かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし

ὁμοίως δὲ καὶ Ραὰβ ἡ πόρνη οὐκ ἐξ ἔργων ἐδικαιώθη ὑποδεξαμένη τοὺς ἀγγέλους καὶ ἑτέρᾳ ὁδῷ ἐκβαλοῦσα;

(口語訳) 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。

ὁμοίως /ὁμοίως (同様に) 副詞
δὲ /δέ (しかし) 接続詞
καὶ /καί (そして、~も) 接続詞
Ραὰβ /Ῥαάβ (ラハブ) 固有名詞
ἡ /ἡ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πόρνη /πόρνη (売春婦) 名詞 主格単数女性
οὐκ /οὐ (~ない) 
ἐξ /ἐξ (前置詞) 
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 属格複数中性
ἐδικαιώθη /δικαιόω (義とされた) 動詞 アオリスト受動直接法 三人称単数
ὑποδεξαμένη /ὑποδέχομαι (もてなす) 動詞 アオリスト中動分詞 主格単数女性
τοὺς /ὁ (冠詞) 冠詞 対格複数男性
ἀγγέλους /ἄγγελος (使者) 名詞 対格複数男性
καὶ /καί (そして) 接続詞
ἑτέρᾳ /ἕτερος (もうひとつの) 形容詞 与格単数女性
ὁδῷ /ὁδός (道) 名詞 与格単数女性
ἐκβαλοῦσα /ἐκβάλλω (出す) 動詞 2アオリスト能動分詞 主格単数女性

訳としては
「また同様に、娼婦ラハブも、使者たちをもてなし、もう一つの道へ送り出したので、行いから義とされなかったか」
という感じでしょうか。

訳がどうこうというよりも、ラハブは「もてなしたのか」が気になります。
ラハブというのはヨシュア記に出てくる娼婦ですね。エリコ攻略をねらうヨシュアが二人の斥候を送り出します。二人が泊ったのが娼婦ラハブの家です。
二人が省察に侵入したところは目撃されており、王はラハブに使いを出し、今日偵察に来た者たちを引き渡すように告げますが、ラハブは「二人は日暮れ前に出て行った」と嘘の証言によって二人を逃がします。

さて、ラハブは二人の偵察をもてなしたのでしょうか。
たしかに二人を泊めています。これがもてなしたということでしょうか。
これが「かくまった」というならば理解しやすい。「迎えた」とか、その程度の意味なのかも知れませんが。
もてなしというほどのことをしているかというと微妙なところです。ラハブは二人を屋上に積んであった亜麻布の束のなかに隠れさせ、後で屋上から城壁の外へ吊り下ろした綱から逃がします。

第一クレメンス 12:1以下に「信仰と持て成しの心ゆえ、遊女ラハブは救われた」とあります。
クレメンスはどうもヤコブの手紙と同じ解釈をしているみたいです。
訳文しか見たことがないので、元の語が何かは知らないけど、「持て成す」という意味はちょっと特徴的だなと思います。
第一クレメンスは、コリントの教会の信徒が長老を罷免しようとして揉めているのに介入する文書です。
「持て成し」については第一クレメンスでは初めの方にも少し出てきます。

(1クレメンス1:2 『使徒教父文書』 小河陽訳)
なぜなら、君たちのもとに滞在した者で、非の打ちどころなくまた堅実な君たちの信仰を確認しなかった者がかつて居ただろうか。
あるいは、節度あり親切心に富んだその敬虔さに感嘆しなかったことがあったろうか。
君たちの素晴らしい客の持て成しぶりを触れて歩かぬ者があったろうか。完全かつ確実なその知識を祝福しなかったものが居ただろうか。

教会から指導者が派遣されていたのでしょうか。宣教者が巡回して教会を巡っていたのかなと思います。
そのなかでコリントの教会は「持て成し」てくれるので素晴らしいと評判だといいたいのでしょう。
でも、これは教会のなかがゴタつく前の話で、今は外部から宣教者が介入しようとしても「持て成し」が受けられなくなっており、評判をさげているよと忠告する文脈にあります。
(1クレメンス47:7)で、もめごとの噂は教会内の「考えを異にする者たち」にも届いたとのこと。これには注釈がついていて教会内の異邦人のことだろうとあります。
この争いは、異邦人教会の考え方に与することになるから、はやく治めなさいということのようです。
エルサレム教会に献げ物を贈っていることについてクレームが出たということのようです(44:4)。こういう決まり事について揉めると、自由主義的な異邦人教会はいっそう決まりを守らなくなるので、さっさと事態を収拾しなさいということなのかな。

当時、巡回する宣教者たちは、各教会から「持て成し」を受けて活動していた。でも、教会がもめると指導者の言うことを聞かなくなるのだから、「持て成し」もなくなる。
そこで「信仰」と「持て成し」というものがワンセットで求められるようになったのでしょうか。
チョイチョイ教会は弾圧されて、まさにラハブのようにかくまってもらわないといけなくなることもある。
「持て成し」はありがたいものだったはず。
そういう背景でもあるのなか。

別の書簡では、たとえばヘブル書だとどうでしょう。

(ヘブル人への手紙 11:31)
信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

これは普通の解釈ですね。「迎える」がδεξαμένηですが、敵を「迎えた」ときに穏やかだったので、バレなかったという話になってます。
これと比べるとヤコブの手紙と、1クレメンスの解釈は、ちょっと強調点が違う気がします。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 2:24 人が義とされるのは、行いによる

ὁρᾶτε ὅτι ἐξ ἔργων δικαιοῦται ἄνθρωπος καὶ οὐκ ἐκ πίστεως μόνον.

(口語訳) これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

ὁρᾶτε /ὁράω (見る) 動詞 現在能動命令 二人称複数
ὅτι /ὅτι (英語のthatに近い) 接続詞
ἐξ /ἐκ (+属格で「~のゆえに」など) 前置詞
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 所有格属格 複数中性
δικαιοῦται /δικαιόω (義とする) 動詞 現在受動直接 三人称単数
ἄνθρωπος /ἄνθρωπος (人間) 名詞 主格単数男性
καὶ /καί (そして、また) 接続詞
οὐκ /οὐ (~ない) 
ἐκ /ἐκ (+属格で「~のゆえに」など) 前置詞
πίστεως /πίστις (信仰) 名詞 所有格属格 単数女性
μόνον /μόνος (~だけ) 副詞

訳としては、
「ご覧なさい、行いによって人間は義とされ、信仰だけによってではありません」
という感じでしょうか。

「ὁρᾶτε 見なさい」を口語訳は「これでわかるように」と訳してます。
うーむ。たぶん、英語の「look」のようにチョコッと文頭に言う感覚で、「ほら、ご覧なさい」という程度の表現なのかな。「ほら、分かるでしょ」という感じで解しているのでしょう。

ヤコブは人間は「信仰だけによって」は義とされないとしています。
いくら信仰していると言っても、貧しい兄弟姉妹が飢えて、凍えているのを見捨てておいて、義とされることはない。
律法の隣人愛を行わなければ、義とされない。
これと対照的なのはパウロです。

 (ローマ 3:28)
 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

こちらは神に対して「律法の行い」を業績として誇ることはできず、信仰によって義とされることを論じてます。
ヤコブとパウロは言ってることは真逆です。

僕の感覚ではこの点で違っていたからと言ってどうということでもないです。
「義とされたい」と思っていると、どうすればいいのだ、と困るのでしょうけど。

貧しい兄弟姉妹を救ってやったから私は義とされるのだ、といえばそれはパウロが否定する律法の業績を誇ることにあたるでしょう。
そういう業績について功利主義的に、自己の利益をもとめてやった行いならば、価値はないのだ。偽善なのだと宗教家は言いたいのでしょう。
僕のような非信者としては、まぁ、それでもその業績自体は、何もやらないよりは格段にましだと思います。
何もせず、やる気もない人が、偽善だの、業績を誇っているだのとケチをつけるような話ではない。

ヤコブとしては、貧しい兄弟姉妹を救ってやりたいという自発的な意識が重要なんであって、自己の利益を求めない純粋な愛から行うことが大切なのですよ、ということでしょう。
そういう動機の純粋さがあって、それが律法の行いとして実現されるわけです。
これが逆の順序になると意味が違ってくる。
律法に書いているから、義とされるから、行うというのは、形式だけの善行です。
でも、これまた何もしないよりは随分ましであることは、確認しておきたいところです。

飢えて凍えている人がいれば、愛情から無償で相手に尽くす。
そういう人間性を重んじるというのは、良い話だと思います。
宗教だと、そういう人間性の成長と「義とされる」ということを組み合わせるから話がややこしい。
神によって義とされるという話なのだから、人間が何をするかと問うてもしょうがないように思えます。
何かの儀式だとか、特殊な教義への信仰など、宗教家は義とされる方法・条件をあげるのでしょうけど、何かをクリアすれば義とされるという発想が根本的な問題に思えます。律法を守ると義とされるとか、信仰のみによるとか、いや、信仰だけでなくて隣人を愛する行いによって義とされるとか。
それらは「義とされたい」と思って、安直に近道を選ぼうとしているように見えます。
神が義とするかどうか判断するのならば、そんなものを人間が考えたって無駄だとさっさと諦めて、自分自身をより良くしようと思えば済む話に思えます。

ヤコブが論じている隣人愛というものは、どういうものなのか。なぜ愛を行うことができないのか。
愛がもつ自発的な行為というものは、相手への情熱がほとんど義務感のようなものとなって突き動かされている状態なのでしょう。
ただ、その愛情が冷めると、義務感が重荷のように意識されるようになる。
情熱をもっている間は、相手に尽くすことは当然のことであり、何の苦でもない。
でも、情熱が冷めると、「やって当然な善行」は重荷となり、義務だから嫌々ながらやる行為となる。
そのうち、面倒だからやらないという人が出てくる。すると、ルールが定められ、罰則がもうけられたりする。
すると、罰が嫌だからやるとか、ルールで決められているからやる、という調子になる。
そうなると、宗教家にとって「行い」の価値は下がるわけでしょう。
嫌々ながらやっているだけの「行い」に何か価値があるのかと。純粋な善意から行われなければ、すべて偽善に過ぎないのだ、という話になるわけです。

聖書のなかには、律法を遵守するパリサイ派に対して偽善者だと批判する言葉がたくさんあります。
批判のポイントは二つあるかと思います。
ひとつは、律法の行いの業績を誇るのは人間の傲慢さだというパウロの路線。
もうひとつは、律法を形式的に守っても、面倒がって(自発的な)憐れみを行わないなら実質的には違反しているのと同じことだ、というヤコブの路線。

これらから分かることは、何をやったからと言って一々義とされるかどうか問題にしても仕方ないということ。
業績を誇ることができないし、ただ形式的に律法を守っていたからと言って、義とされるわけではない。
ヤコブに言わせれば、自発的に愛を行っている状態で、当たり前のように隣人を助けているべきなのでしょう。

これは「義とされる」かどうかを問題にする態度とはちょっと違う。
というか、かなり違う。

まぁ、非信者は、ヤコブとパウロのこういう矛盾点は方法論と見てないのでそれほど気にならないということです。
ただ、与えられた環境を言い訳にせず、状況に妥協せず、あるべき姿を実現しようと人間性を成長させてゆこうする面で、ヤコブはしっかり物事を見ているなぁと感心します。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 2:23 神の友

καὶ ἐπληρώθη ἡ γραφὴ ἡ λέγουσα Ἐπίστευσεν δὲ Ἀβραὰμ τῷ θεῷ καὶ ἐλογίσθη αὐτῷ εἰς δικαιοσύνην καὶ φίλος θεοῦ ἐκλήθη.

(口語訳) こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。

καὶ /καί (そして、また) 接続詞
ἐπληρώθη /πληρόω (完遂する、成就する) 動詞 アオリスト受動直接 三人称単数
ἡ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
γραφὴ /γραφή (聖書) 名詞 主格単数女性
ἡ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
λέγουσα /λέγω (言う) 動詞 現在能動分詞 主格単数女性
Ἐπίστευσεν /πιστεύω (信じる) 動詞 アオリスト能動直接法 三人称単数
δὲ /δέ (しかし) 接続詞
Ἀβραὰμ /Ἀβραάμ (アブラハム) 名詞 
τῷ /ὁ (冠詞) 冠詞 与格単数男性
θεῷ /θεός (神) 名詞 与格単数男性
καὶ /καί (そして、また) 接続詞
ἐλογίσθη /λογίζομαι (考える、みなす) 動詞 アオリスト受動直接法 三人称単数
αὐτῷ /αὐτός (彼) 人称代名詞 与格単数男性
εἰς /εἰς (~について、~に対して) 前置詞
δικαιοσύνην /δικαιοσύνη (正しさ、義) 名詞 対格単数女性
καὶ /καί (そして、また) 接続詞
φίλος /φίλος (友、親愛なる) 形容詞 主格単数男性
θεοῦ /θεός (神) 名詞 与格単数男性
ἐκλήθη /καλέω (呼ぶ) 動詞 アオリスト受動直接法 三人称単数


「λέγουσα」のところが結構むずかしい。

まずは、順番に訳していきましょう。
「ἐπληρώθη 成就する」という動詞は、アオリスト受動三人称です。
ἐ-πληρώ-θη と分解できます。
「ἐ-」の加音は二次時称(過去)につきます。さらに「-θη」の語尾がついてアオリスト受動三人称であることが分かります。
「(それは)成就された」というような意味になります。

「γραφὴ」は聖書のことです。女性名詞なので冠詞は「 ἡ 」になります。
「ἐπληρώθη ἡ γραφὴ」で、「聖書は成就された」とか「聖書は全うされた」というような意味です。

「λέγουσα」は「言う」という動詞の現在能動分詞。
分解すると「λέγ - ουσα」に分かれます。「-ουσα」というのは女性・単数・主格の現在分詞の語尾です。
この分詞は、形容詞のように性・数・格を一致させた名詞にかかります。
ここでは「聖書」という語と性・数・格が一致しています。
「…と言う聖書」という形でかかっています。


次は「Ἐπίστευσεν δὲ Ἀβραὰμ τῷ θεῷ」のところです。
「Ἐπίστευσεν 信じた」という動詞は、アオリスト能動三人称です。
Ἐ-πίστευ-σεν に分解できます。
「Ἐ-」の加音は二次時称を示しています。さらに「-σεν」という語尾を加えてアオリスト能動三人称であることを表わしています。
元にあるのは「πιστεύω 信じる 信頼する」という語です。
信頼をおく対象は、与格の語「τῷ θεῷ 神に」にかかります。「神に信頼をおく」という感じの表現ですね。
「Ἐπίστευσεν δὲ Ἀβραὰμ τῷ θεῷ」は、「アブラハムは神に信頼をおいた」とか「アブラハムは神を信じた」と訳されます。
「 δὲ 」は「しかし」というような接続詞ですが、ここでは主語が変わったことを表しているのだと思います。


続いて「καὶ ἐλογίσθη αὐτῷ εἰς δικαιοσύνην 」のところです。
「ἐλογίσθη 考える、みなす」という動詞。これまたアオリスト受動三人称です。
ἐ-λογίσ-θη と分解すると、さきほどと同じように「ἐ-」の加音と「-θη」の語尾が確認できます。
λογίζομαι という語が元にあります。元の意味は「数える、算入する」というようなものです。
「αὐτῷ  彼に(対して)」という語と、「εἰς δικαιοσύνην  義へ」という語があります。
まとめると「καὶ ἐλογίσθη αὐτῷ εἰς δικαιοσύνην  そして彼に対して義へと数えられた(認められた)」というような意味になります。

ここまでを組み合わせると、
「ἐπληρώθη ἡ γραφὴ ἡ λέγουσα Ἐπίστευσεν δὲ Ἀβραὰμ τῷ θεῷ καὶ ἐλογίσθη αὐτῷ εἰς δικαιοσύνην 」
『「アブラハムは信じた。それは彼に対して義へと数えられた」と言う聖書が成就した』
という感じでしょうか。

最後は「καὶ φίλος θεοῦ ἐκλήθη」のところです。
「φίλος θεοῦ」で「神の友」です。
「ἐκλήθη 呼ばれる」は「ἐ-κλή-θη」に分解できます。アオリスト受動三人称の語です。
「καλέω 呼ぶ」という語が原型です。
「καὶ φίλος θεοῦ ἐκλήθη そして神の友と呼ばれた」となります。

全体の訳文としては
『そして「アブラハムは信じ、彼に対して義へと数えられた」と言う聖書が成就した。そして神の友と呼ばれた』
という感じです。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 2:22 行いによって信仰が全うされる

βλέπεις ὅτι ἡ πίστις συνήργει τοῖς ἔργοις αὐτοῦ καὶ ἐκ τῶν ἔργων ἡ πίστις ἐτελειώθη,

(口語訳) 「あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」

βλέπεις /βλέπω (見る) 動詞 現在能動直接 二人称単数
ὅτι /ὅτι (目的節あるいは理由節を導く) 接続詞
ἡ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 主格単数女性
συνήργει /συνεργέω (共に働く) 動詞 未完了能動直接 三人称単数
τοῖς /ὁ (冠詞) 冠詞 与格複数中性
ἔργοις /ἔργον (働き) 名詞 与格複数中性
αὐτοῦ /αὐτός (彼の) 人称代名詞 属格単数男性
καὶ /καί (そして、また) 接続詞
ἐκ /ἐκ (+属格で「~から外へ」「~の内の」「~の理由で」) 
τῶν /ὁ (冠詞) 冠詞 所有格属格複数中性
ἔργων /ἔργον (働き) 名詞 所有格属格複数中性
ἡ / (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 主格単数女性
ἐτελειώθη /τελειόω (全うする) 動詞 アオリスト複数直接 三人称単数

ギリシャ語の動詞は語尾が変化して一人称・二人称・三人称などを表現します。
βλέπω 「(私は)見る」
βλέπεις 「(あなたは)見る」
βλέπει 「(彼/彼女は)見る」

「ὅτι」は接続詞で、それ以下に目的節や理由節が続く。
「βλέπεις ὅτι ~」で「あなたは~を見た」となります。

「ἡ πίστις 信仰」は女性名詞なので冠詞は「 ἡ 」になる。
ギリシャ語の名詞は、男性名詞、女性名詞、中性名詞の「性」を持っています。
日本語にはないのでピンと来ないですが、「ウエイター」と「ウエイトレス」のような「性」の区別が、あらゆる単語にあるそうです。物は中性ですね。でも、必ずしも単語の性別と、生物学的な性は一致してないそうです。
名詞の性にともなって冠詞(英語でいえば「the」)も変化します。「ὁ 男性」「ἡ 女性」「τὸ 中性」とそれぞれの性の単語に対応します。

「συνήργει 共に働く」という動詞は語尾が「-ει」になってます。三人称です。
「συνεργός 同労者」という語が元にあって「σύν 伴う + ἔργον 働き」が組み合わさっているそうです。
「ἡ πίστις συνήργει ~」で、「信仰は~と共に働く」となります。

「ἔργοις 行い」という語は与格です。
与格だと冠詞は「τὸ」から「τοῖς 」に変化します。
与格は動詞の間接目的語を表します。大抵は「~に」と訳せます。
ギリシャ語の与格は日本語の感覚だと対格(「~を」で表す)で表現することも、与格で受けることがあるそうです。
ここだと与格なので「行いに」と訳したくなりますが、「συνήργει 共に働く」を受けて「行いと共に働く」と訳すそうです。

なので、ἡ πίστις συνήργει τοῖς ἔργοις αὐτοῦ は、
「信仰は彼の行いと共に働く」となります。

「καὶ 」は、「そして」とか「また」というような接続詞。
「ἐκ τῶν ἔργων 」のところは、また「ἔργων 行い」という語が出てきますが今度は所有格・属格(「~の」で表す)です。
「ἐκ + 所有格・属格」で「~から外へ」「~の内の」「~の理由で」などを表現します。
ここでは「行いによって」ぐらいの意味のようです。

「ἐτελειώθη」という単語は、
ἐ-τελειώ-θη に分解できるようです。「τελειόω 完遂する」という語が元にあります。
「ἐ-」の加音と「-θη」という語尾からアオリスト・受動・三人称の形と分かります。

καὶ ἐκ τῶν ἔργων ἡ πίστις ἐτελειώθη のところは、
「また、行いによって信仰は全うされます」と訳せると思います。

全体の訳文としては、
「あなたが見たように、信仰は彼の行いと共に働き、また行いによって信仰は全うされます」
という感じかと思います。

内容的にはパウロ神学と真っ向から衝突する内容かなと思います。
パウロは律法の業績によって救われるということを否定し、信仰によって義とされるとします。
しかし、ヤコブは信仰は行いによって完全になるとします。

さて、どう考えましょう。
僕はヤコブとパウロが矛盾したことを言っていても何も困らないので、そのままの意味に解します。
ヤコブは飢えている人を見捨ててしまうような人が義とされるとは思っていない。
パウロが「人は行いによって義とされない」と言ったところで、ヤコブは「憐れみを行わない者には憐れみのない裁きが与えられるのだ」と考えています。
「良きサマリア人」のように、自分のことのように相手を愛する。ヤコブにとって信仰とはそういうものです。

ヤコブがこのように考えたのは「現実」を見ていたからだと思います。
おそらく、ヤコブも当初は「信仰」すれば、神から義とされ、罪を犯さなくなると信じていたでしょう。
でも、「現実」にはそうなってなかった。
教会で貧しい人が冷遇されていた。
ヤコブはそのときどう考えたか。貧しい人を差別するような人も、やはりキリストを信仰していた。そこは否定しない。「神は一人だと信じているのか、それは結構だ」「隣人を自分のように愛しているのか、それは結構だ」。
しかし、行いを伴っていないなら、信仰はそれだけでは死んでいるのだ。

でも「現実」を見なければ、もう救われているのだと安心してあぐらをかいていられるわけです。

僕の理解の仕方は、信仰の意義を矮小化しているようにも見えるかも。
でも、ヤコブさんが問題にしているのは「現実」には罪から解放されてないということでしょう。
この「現実」感覚があるから、ヤコブさんは問題を解決しようとしているのだと思います。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)