ヤコブの手紙 2:10-20

ヤコブ 2:21 行いによって義とされたのではなかったか

Ἀβραὰμ ὁ πατὴρ ἡμῶν οὐκ ἐξ ἔργων ἐδικαιώθη ἀνενέγκας Ἰσαὰκ τὸν υἱὸν αὐτοῦ ἐπὶ τὸ θυσιαστήριον;

(口語訳) わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。

Ἀβραὰμ /Ἀβραάμ (アブラハム) 名詞 固有名詞
ὁ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数男性
πατὴρ /πατήρ (父) 名詞 主格単数男性
ἡμῶν /ἡμῶν (我々の) 人称代名詞 一人称所有格属格複数
οὐκ /οὐ (~ない) 
ἐξ /ἐκ (~によって) 前置詞
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 所有格属格 複数中性
ἐδικαιώθη /δικαιόω (義とする) 動詞 アオリスト受動直接法 三人称
ἀνενέγκας /ἀναφέρω (ささげる) 動詞 アオリスト能動分詞 主格単数男性
Ἰσαὰκ /Ἰσαάκ (イサク) 名詞 固有名詞
τὸν /ὁ (冠詞) 冠詞 対格単数男性
υἱὸν /υἱός (息子) 名詞 対格単数男性
αὐτοῦ /αὐτός (彼の) 人称代名詞 所有格属格 単数男性
ἐπὶ /ἐπί (~の上に) 前置詞
τὸ /ὁ (冠詞) 冠詞 対格単数中性
θυσιαστήριον /θυσιαστήριον (祭壇) 名詞 対格単数中性


訳としては、
「我らの父アブラハムは、彼の息子イサクを祭壇の上にささげた時に、行いによって義とされなかったか」
という感じでしょうか。

ささげるという動詞の「ἀνενέγκας」がアオリストの分詞です。
分詞が掛かる語は、性数格をそろえるようです。
「ささげる」という語は主格単数男性です。「アブラハムがささげた時」とかかるようです。

新共同訳では「献げるという行いによって」となってます。
分詞は「~によって」と訳すこともできるようですが、「献げる」が「行い」に掛かってしまっている気がします。
「行い」という語は属格複数中性ですので、「行い」には掛かってないようです。

さて、ヤコブが言ってる内容の根拠になるのは下記の部分でしょうか。
「イサクの燔祭」の場面で、息子イサクを祭壇に載せたアブラハムは刃物を取り、息子を屠ろうとします。

 (創世 22:12)
 御使いは言った。
 「その子に手を下すな。何もしてはならない。
 あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。
 あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 (創世 22:16-18)
 御使いは言った。
 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。
 あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」


この部分を読むと、なるほどアブラハムは息子を屠ろうとした時に、その信仰が認められ(神を畏れる者であることが、今、分かった)、「声に聞き従った」ことによって祝福を得ています。
ヤコブさんの解釈で気になるのは、「神はアブラハムを試された」(創世 22:1)と書いているのに、「神は誘惑しない」(ヤコブ 1:13)と断言している点だったりします。「試す」と「誘惑する」はたぶん同じ意味でしょう。
ヤコブさん的には神は常に良いものだということのようで、まぁそれは結構なのですが。

パウロさんはこのあたり真逆の意味に解しています。

 (ローマ 4:9-10)
 さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。
 それとも、無割礼の者にも及ぶのか。
 わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
 それでは、どういう場合にそう認められたのか。
 割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。


割礼は創世記17章にはじめて出てくるので、まぁ15章の段階では無割礼ですね。
アブラハムが無割礼の段階で義とされたとしても、結局17章で「契約のしるし」として割礼が義務付けられますが。
こちらの引用の元になった部分は下記のところ。

 (創世 15:6)
 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

ちょっと読んだ感じでは、「彼『の』義と認めた」という言い方が気になります。
「彼『を』義と認めた」ならば、神はアブラハムを義とされたということでしょう。
でも、「彼の義と認めた」というと、彼の信仰は美徳とカウントしますよと言ってるだけな印象です。
パウロは同じことを言ってるんですが、何だかちょっとそこが曖昧な言い方になっているように感じます。この言い方は70人訳をそのまま引用したのとも違うようす。
このニュアンスの違いはギリシャ語にもあるのかな。

(創世 15:6 70人訳 Septuagint with Diacritics)
καὶ ἐπίστευσεν αβραμ τῷ θεῷ καὶ ἐλογίσθη αὐτῷ εἰς δικαιοσύνην

(ローマ 4:9)
Ὀ μακαρισμὸς οὖν οὗτος ἐπὶ τὴν περιτομὴν ἢ καὶ ἐπὶ τὴν ἀκροβυστίαν;
λέγομεν γὰρ ἐλογίσθη τῷ Ἀβραὰμ ἡ πίστις εἰς δικαιοσύνην.


アブラハムの子孫であると誇ったところで、神は石からでも子孫を起こすことができると洗礼者ヨハネが言ってますね。このあたりが原始教会のスタンスにも影響しているのでしょうか。
パウロの主旨としては、アブラハムの子孫だからといって胡坐かいていては駄目だよということの流れで、信仰に重きを置き、信仰によって神の約束を受け継ぐことができると考えているようす。律法の行いを神に対して誇ることはできない、と。信仰によって義とされるのだと。
ヤコブの方は信仰だけで救われるわけではない、というもの。とくに憐れみを行なわない信仰ではその人は救われんよ、という調子です。
そして、その憐れみを行なうということは律法に含まれているのだということを根拠にしてますね。

ヤコブさんにとってのキリスト教とは、律法から解放されるようなものではないようす。
律法を守ってゆく気満々ですね。実際、どの程度守っていたのかは分からないですが。
少なくとも憐れみを行なうこと、それも教会のなかでは憐れみは行なわれるべきだと思っていたことは間違いない。
それすらできないのに、救われるだのと言っても仕方ないという現実的な感覚をヤコブさんの論調から感じます。

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ヤコブ 2:20 行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか

θέλεις δὲ γνῶναι, ὦ ἄνθρωπε κενέ, ὅτι ἡ πίστις χωρὶς τῶν ἔργων ἀργή ἐστιν;

(口語訳) ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。

θέλεις /θέλω (望む) 動詞 現在能動直説法 二人称単数
δὲ /δέ (しかし) 接続詞
γνῶναι /γινώσκω (気づく、知るようになる、分かる) 動詞 2アオリスト能動不定
ὦ /ὦ (間投詞) 
ἄνθρωπε /ἄνθρωπος (人) 名詞 呼格単数男性
κενέ /κενός (むなしい、愚かな) 形容詞 呼格単数男性
ὅτι /ὅτι (英語のthatに近い用法) 
ἡ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 名詞 主格単数女性
χωρὶς /χωρίς (分かれて) 副詞
τῶν /ὁ (冠詞) 冠詞 所有格・属格 複数中性
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 所有格・属格 複数中性
ἀργή /ἀργός (働いていない) 形容詞 主格単数女性
ἐστιν /ἐστί (ある) 動詞 現在能動直説法 三人称単数

訳としては
「知りたいのか、あぁ愚かな人よ、信仰は行いと分かれて働かないと」
という感じでしょうか。

「ἔργων 行い」に否定の接頭辞 ἀ をつけて「ἀργή 働かない」という語になっています。
「働かない」という語は女性名詞にかかるので、「πίστις 信仰」にかかることが分かります。
「χωρὶς τῶν ἔργων 行いなしで」という表現の「行い」は中性属格なんだな。どうも違和感がありますが、属格で表現するんですね。

信仰は行いを伴って働くのだ、とヤコブさんは説明を始めます。
その根拠にする聖書箇所がパウロが「信仰のみ」を立証したところとまったく同じ箇所だというところがファイターなところです。
ヤコブさん、ここは正面突破していきます。
…問題はなぜヤコブさんはこのように行いを重視したのか。また、なぜこのような形で苦言を呈したのか、という点ですね。ヤコブさんにとっては教会が荒んでしまっていることが目にあまり、それは本来の協会のあり方ではないという問題意識がはっきりしていたのでしょうけど。もう一息細かいところまで事情がわかればなぁと感じるます。

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ヤコブ 2:19 悪霊どもでさえ、信じておののいている

σὺ πιστεύεις ὅτι εἷς θεὸς ἔστιν, καλῶς ποιεῖς· καὶ τὰ δαιμόνια πιστεύουσιν καὶ φρίσσουσιν.

(口語訳) あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。

σὺ /σύ (あなた) 人称代名詞 主格二人称単数
πιστεύεις /πιστεύω (信じる) 動詞 現在能動直説法 二人称単数
ὅτι /ὅτι (英語のthatにあたる) 接続詞
εἷς /εἷς (ひとつの) 形容詞 主格単数男性 
θεὸς /θεός (神) 名詞 主格単数男性
ἔστιν /ἐστί (ある) 動詞 現在能動直説法 三人称単数
καλῶς /καλῶς (よく) 副詞
ποιεῖς /ποιέω (行う) 動詞 現在能動直説法 二人称単数
καὶ /καί (そして、また) 接続詞
τὰ /ὁ (冠詞) 
δαιμόνια /δαιμόνιον (デーモン、悪霊) 
πιστεύουσιν /πιστεύω (信じる) 動詞 現在能動直説法 三人称複数
καὶ /καί (そして、また) 接続詞
φρίσσουσιν /φρίσσω (身震い) 動詞 現在能動直接法 三人称複数

訳としては、
「あなたは神が一人と信じている、それはよくやっている。悪霊たちも信じて身震いしている」
という感じでしょうか。


ここで突如「神がひとりである」と信じているということがなぜ問題になるのか、ということですが。
これはローマ書に沿って議論が展開しているようです。

(ローマ 3:28-30)
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。
それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。
まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。

パウロの神学によれば、異邦人は異邦人のまま救われる。割礼の行いは必要ない。
無割礼の異邦人を義とする神は、唯一の神であり、ユダヤの神は異邦人の神の神でもある。

おそらく、異邦人がキリスト教に改宗するにしても、唯一の神を信じるということは前提になっていたのでしょう。
唯一の神を信仰する者として自分は異邦人のまま救われたのだ、と論じていたのかなと思います。

それに対してヤコブさんは、「神が一人と信じている」ことなんて当ったり前だ、と切り返すわけです。
デーモンたちもそう信じて震え上がっているんだよ。

デーモンが知っていることなんてのは、価値のないことなんだ、という感覚だと思われます。
神が唯一だと信じるのは結構なことだけど、それで終わりなのか。
それだけか?


ヤコブさんの切り替えし方はなかなか鋭い。
さらにローマ書に沿って批判が展開してゆきます。
パウロ神学ピンチ。

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ヤコブ 2:18 それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい

Ἀλλ’ ἐρεῖ τις, Σὺ πίστιν ἔχεις κἀγὼ ἔργα ἔχω· δείξον μοι τὴν πίστιν σου χωρὶς τῶν ἔργων κἀγώ σοι δείξω ἐκ τῶν ἔργων μου τὴν πίστιν.

(口語訳)
しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。
それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。
そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。

この部分は文脈から意味は理解できますが、ちょっと奇妙な言い回しです。
そのまま訳すと変なので、いろいろ解釈されて翻訳されているようです。
口語訳よりも新共同役の方がストレートに訳されているようです。新共同訳で考えた方が分かりやすいです。

 (ヤコブ 2:18)
 【新共同訳】
 しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。
 行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。
 そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。

とくにここの「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」という言い方が奇妙なわけです。
この文脈だったら普通逆のセリフを言うのではないでしょうか。
「私には信仰があり、あなた(ヤコブ)には行いがある」と相手が言って、それに対する反論として「それならば行いなしで信仰を見せてみろ」と言うわけでしょう。

ところが、これが「あなた(ヤコブ)には信仰があり、わたしには行いがある」というセリフなんですね。
ここのままだとしっくりこないので、いろいろ解釈されているようです。

 (ヤコブ 2:18)
 【新改訳】
 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。
 行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。
 私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

新改訳は対話と解釈されていない。
「行いによって、私の信仰を見せてあげます」とヤコブが反論する形になっておらず、一人の人物のセリフになってます。
これだと「誰か」がそういう風に主張しますよ、という話しになってしまって、 ヤコブさんが主張であることが曖昧になる印象です。

 【口語訳】
 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。
 それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。
 そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。

口語訳では、「ある人」に信仰があり、「ほかの人」には行いがある、という形で解釈を入れていますね。
これはつまり、この部分を「私には」「あなたには」と訳すと違和感があるので、ちょっと曖昧に訳したということでしょう。
辻学氏の注解書ではH.ナイツェル氏の説をとって下記のように訳されています。

 【辻学訳】
 だが、ある人は言うだろう、「君は信仰をもっているのか?」。ならば私は[言おう]、私は行いを持っている、と。
 行いなしで君の信仰を私に見せてくれ。
 そうしたら私は、行いによって私の信仰を君に見せよう。

これはかなりいい感じです。
とくに「君は信仰をもっているのか?」と疑問文にしているところ。
さらに「ならば私は[言おう]」と語を補って解釈しています。
これは前後の文脈に合致します。

ただ、この部分についてmixiで議論したらHKJさんが「ならば私は[言おう]」のところに疑問があるとのことでした。
「言おう」が省略されているのではなく、「持つ」が省略されているのではないかと。
(普通、省略できるのは、既出の動詞が繰り返される場合でしょう)と仰られてました。
なるほど。

ということで、ここはそれらを踏まえて訳を考えてみました。
下記のような感じでしょうか。ちょっとネストレ本文から離れてます。

Ἀλλ’ ἐρεῖ τις,
しかし誰かが言うだろう、
Σὺ πίστιν ἔχεις ;
「あなたは信仰を持っているのか?」
κἀγὼ ἔργα ἔχω·
「私は行いを持っている。
δείξον μοι τὴν πίστιν σου χωρὶς τῶν ἔργων
行いなしであなたの信仰を見せなさい、
κἀγώ σοι δείξω ἐκ τῶν ἔργων μου τὴν πίστιν.
わたしも行いによって信仰を見せましょう」


「行い、行い」と偉そうに言うが、ではお前は信仰を持っているのか、という批判者が現れる。
それに対して「私には行いがある。あなたの信仰を行ないなしで示してみよ、そうすれば行いによってわたしの信仰を示してやろう」と切り返す。
ヤコブさんは結構な論客だなぁと感じます。


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ヤコブ 2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである

οὕτως καὶ ἡ πίστις, ἐὰν μὴ ἔχῃ ἔργα, νεκρά ἐστιν καθ’ ἑαυτήν.

(口語訳) 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。

οὕτως /οὕτω (このように) 副詞
καὶ /καί (そして) 接続詞
ἡ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 名詞 主格単数女性
ἐὰν /ἐάν (もし) 条件文
μὴ /μή (~ない) 
ἔχῃ /ἔχω (伴う) 動詞 現在能動接続法 三人称単数
ἔργα /ἔργον (行い) 名詞 対格複数中性
νεκρά /νεκρός (死) 形容詞 主格単数女性
ἐστιν /ἐστί (~である) 動詞 現在能動直接法 三人称単数
καθ’ /κατά (~について) 前置詞
ἑαυτήν /ἑαυτοῦ (それ自身) 関係代名詞 三人称対格単数女性

訳としては
「このように信仰も行いを伴わなければ、それ自身では死んでいる」
という感じでしょうか。

καθ’ ἑαυτήν が訳しにくい感じです。
口語訳は「それだけでは」と訳してますね。
英語の「by itself」(それだけで)のような表現に近いのかな。

パウロ神学を批判しているところですね。
「信仰のみ」ではなく、行いを伴っていなければならない。

ヤコブは憐れみを行なえとしています。
パウロが行いを拒否しているのは、割礼などの律法の行い。
この行いは別のことをそれぞれさしていると、区別することでヤコブとパウロの帳尻を合わせようとするよりも、単純にヤコブさんは律法を守ることをよい事と考えていると解した方が素直でしょう。

なぜヤコブさんはパウロ神学をこのような形で批判的に捉えたか…ということですね。

先日、荒井 献 編集の「使徒教父文書」を読みました。
そのなかで第一クレメンスが、ヤコブの手紙に随分と似ています。
クレメンスは律法遵守を謳っており、行いを重んじています。言い回しも随分似ている。
ヤコブの手紙だと簡潔すぎて主旨がつかみにくいのですが、言い回しの理解のためにクレメンスの方も今後参照するかも。

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ヤコブ 2:16 必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら

εἴπῃ δέ τις αὐτοῖς ἐξ ὑμῶν ὑπάγετε ἐν εἰρήνῃ, θερμαίνεσθε καὶ χορτάζεσθε, μὴ δῶτε δὲ αὐτοῖς τὰ επιτήδεια τοῦ σώματος, τί ὄφελος;

(口語訳) あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、
そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。

εἴπῃ / (言う) 動詞 アオリスト能動接続法 三人称単数
δέ / (しかし) 接続詞
τις / (或る者が) 不定代名詞 主格単数男性
αὐτοῖς / (彼らに) 関係代名詞 与格複数男性
ἐξ / (~の) 前置詞
ὑμῶν / (あなたがたの) 人称代名詞 二人称複数 所有格属格
ὑπάγετε / (行く) 動詞 現在能動命令 二人称複数
ἐν / (において) 前置詞
εἰρήνῃ / (平和) 名詞 与格単数女性
θερμαίνεσθε / (温まる) 動詞 現在中動命令 二人称複数
καὶ / (また) 接続詞
χορτάζεσθε / (食べる) 動詞 アオリスト能動接続 二人称複数
μὴ / (~ない) 
δῶτε / (与える) 動詞 アオリスト能動接続法 二人称複数
δὲ / (しかし) 
αὐτοῖς / (彼らに) 関係代名詞 与格複数男性
τὰ / (冠詞) 
επιτήδεια / (~に必要な) 形容詞 対格複数中性
τοῦ / (冠詞) 冠詞 所有格属格単数中性
σώματος / (体) 名詞 所有格属格単数中性
τί / (何か) 不定代名詞 主格単数中性
ὄφελος / (利益) 名詞 主格単数中性


訳としては、
「あなたがたの或る者が彼らに、平和のうちに行きなさいそして温まって食べてなさいと言って、
でも彼らに体に必要なものを与えないなら、何の益がある?」
という感じでしょうか。

ヤコブさんの譬えはどれも分かったようで分かんない。
何かちょっと引っかかる。奇妙な譬えをしますねぇ。

たぶん、「安らかに行きなさい」は挨拶として習慣的に言うんでしょうね。
「温まってゆきなさい」「食べてゆきなさい」と習慣的に言うものかどうかはちょっと分からないですが。
挨拶のように気安く言うけど、中身が伴ってないじゃないかと。

その主旨は問題ないのですが、「安らかに行きなさい」はどこかに出発する人に言う挨拶に思えます。
イメージ的には「行ってらっしゃい」という挨拶に誓いのかなと。
でも「温まってゆきなさい食べてゆきなさい」は招くときの言い方ではないのでしょうか。
どちらかというと「さぁ、いらっしゃい」というニュアンスの挨拶の後に「温まってゆきなさい食べてゆきなさい」と続きそうです。

「行ってらしゃい。温まって、食べてゆきなさい」というニュアンスのセリフだとすると、小遣いでも渡してさぁこれで食べてきなさいと言っているイメージなのでしょうか。
そう言っているのに、何も渡してくれないようでは、追っ払っているだけではないかということかいな。

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ヤコブ 2:15 その日の食物にもこと欠いている

ἐὰν ἀδελφὸς ἢ ἀδελφὴ γυμνοὶ ὑπάρχωσιν καὶ λειπόμενοι τῆς ἐφημέρου τροφῆς

(口語訳) ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、

ἐὰν /ἐάν (もし) 仮定法
ἀδελφὸς /ἀδελφός (兄弟) 名詞 主格単数男性
ἢ /ἤ (~あるいは…)
ἀδελφὴ /ἀδελφή (姉妹) 名詞 主格単数女性 
γυμνοὶ /γυμνός (裸) 形容詞 主格複数男性
ὑπάρχωσιν /ὑπάρχω (…となる) 動詞 現在能動接続法 三人称複数
καὶ /καί (また) 接続詞
λειπόμενοι /λείπω (欠く) 動詞 現在受動分詞 主格複数男性
τῆς /ὁ (冠詞) 冠詞 所有格属格 単数女性
ἐφημέρου /ἐφήμερος (その日の) 形容詞 所有格属格 単数女性
τροφῆς /τροφή (食料) 名詞 所有格属格 単数女性


訳としては
「もし兄弟や姉妹が裸で、その日の食料にも事欠くようなのに」
という感じでしょうか。

全然辞書を調べてませんが、「欠ける λειπόμενοι」は属格(普通「~の」と訳す)を受けて「~に欠ける」と訳すみたい。
全然気づいてなかったですが、ヤコブ 1:5「知恵に欠ける」という表現の際も、「知恵 σοφίας」は属格でした。。

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ヤコブ 2:14 もし行いがなかったら、なんの役に立つか

Τί ὄφελος, ἀδελφοί μου, ἐὰν πίστιν λέγῃ τις ἔχειν ἔργα δὲ μὴ ἔχη; μὴ δύναται ἡ πίστις σῶσαι αὐτόν;

(口語訳) わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。

Τί (何) 不定代名詞 主格単数中性
ὄφελος (利益) 名詞 主格単数中性
ἀδελφοί (兄弟たち) 名詞 呼格複数男性
μου (私の) 人称代名詞 一人称所有格属格
ἐὰν (もし…なら) 条件文
πίστιν (信仰) 名詞 対格単数女性
λέγῃ (言う) 動詞 現在能動接続法 三人称単数
τις (誰か) 不定代名詞 主格単数男性
ἔχειν (持つこと) 動詞 現在能動分詞
ἔργα (行いを) 名詞 対格複数中性
δὲ (しかし) 接続詞
μὴ (~ない)
ἔχη (持つ) 動詞 現在能動接続法 三人称単数
μὴ (~ない)
δύναται (~できる) 動詞 現在中動直接法 三人称単数
ἡ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις (信仰) 名詞 主格単数女性
σῶσαι (救うこと) 動詞 アオリスト能動直接法
αὐτόν (彼を) 代名詞 対格単数男性


Τί ὄφελος,  ἀδελφοί μου,
何の益が?   私の兄弟たちよ
ἐὰν πίστιν λέγῃ τις ἔχειν   ἔργα δὲ μὴ ἔχη;
もしある者が信仰を持っているが  行いを持たないと言ったなら?
μὴ δύναται ἡ πίστις σῶσαι αὐτόν;
その信仰は彼を救えないではないか?


相手が「信仰だけ」で人が義とされると論じており、それをヤコブさんが批判してるようです(2:24)。
信仰しているのは結構だが、隣人を愛さずえこひいきし、具体的に何も行なわず、「信仰だけ」していて何の役にたつ? …という問いですね。
兄弟が飢えて凍えているのを放置して、救われると思っているのか? という調子で続きます。


ヤコブの手紙の4章を見ると、ヤコブは教会内に争いをしずめようとしているようです。
「信仰だけ」と主張している人々はおおそらく、
「律法をそしり、律法をさばくやから」(4:11)
「隣り人をさばくあなたは、いったい、何者であるか」(4:12)
と批判されています。
「律法をそしり、律法をさばく…」は譬えとも理解できますが、この譬え方はそう思いつくものでもないですし、実態としてそのような言動をしていたのでしょう。
富んだ人々への批判もワンセットになっており、えこひいきの譬えもある程度の金持ちの存在を前提しています。印象では「信仰だけ」と主張する人たちもそこそこ裕福な人たちであるように思えます。
裕福な人たちをありがたがっている「貧乏人」を問題にしているわけではないでしょう。裕福な人たちが驕って貧乏人を軽んじていることを問題にしているわけです。

言い争っている内容は、たぶん「律法なんぞ守んなくていいんだよ」という異邦人信徒と、「律法は重んじられるべきだ」というユダヤ系キリスト教徒との間に生じている印象です。
律法を守ろうとすると商売に差し支えるところもあったのでしょう。
そこから生じた貧富の差と、律法への神学の問題がリンクしている気がします。

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ヤコブ 2:13 あわれみは、さばきにうち勝つ

ἡ γὰρ κρίσις ἀνέλεος τῷ μὴ ποιήσαντι ἔλεος· κατακαυχᾶται ἔλεος κρίσεως.

(口語訳) あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される。あわれみは、さばきにうち勝つ。

ἡ /ὁ (冠詞) 主格単数女性
γὰρ /γάρ (なぜなら~からだ) 接続詞
κρίσις /κρίσις (裁き) 名詞 主格単数女性
ἀνέλεος /ἀνίλεως (憐れみない) 形容詞 主格単数女性
τῷ /ὁ (冠詞 ~の者に) 与格単数男性
μὴ /μή (~ない) 小詞 否定形
ποιήσαντι /ποιέω (行う) 動詞 過去能動分詞 与格単数男性
ἔλεος /ἔλεος (憐れみ) 名詞 対格単数中性
κατακαυχᾶται /κατακαυχάομαι (勝ち誇る) 動詞 現在中動直接 三人称単数
ἔλεος /ἔλεος (憐れみ) 名詞 対格単数中性
κρίσεως /κρίσις (裁き) 名詞属格単数中性

訳としては
「なぜなら憐れみなき裁きは、憐れみを行わない者に。憐れみは裁きに勝ち誇る」
というような感じでしょうか。

後半の「勝ち誇る κατακαυχᾶται」は属格の語に対して「~に勝ち誇る」とかかるんですね。
これは随分難しい。
つい「裁きの憐れみを勝ち誇る」と訳してしまいます。
しばらく、どうやって「裁きに」と訳せるのか分からなかったです(…今も微妙なところですが)。

他の用法だと「折り取られた枝に対して誇ってはなりません」(ローマ 11:18)の「枝に対して τῶν κλάδων」も属格。普通に訳すと「枝の」です。
「勝ち誇る κατακαυχᾶται」という語は、属格をとって「~に」と表現するようです。

…と思ったらまえにwoody63さんに教えてもらったPDFに書いてあった。
下記が2:6の解説。
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καταδυναστεύω takes gen. (ὑμῶν) due to κατα- prefix (cp. κατακαυχάομαι, v 13)
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ヤコブ 2:6 の時点でこのような表現が出ていたんですね。(虐げる καταδυναστεύω)も属格(ὑμῶν)をとっている。
κατα-という接頭語が影響しているのか。
気付かずに訳せているのは、口語訳をカンニングしてしまっているからですね。
いかん、いかん。ちゃんとやらないと。

あとなぜ「勝ち誇る」を「うち勝つ」と訳しているのでしょうね。譬えなのでうち勝ってそれを誇っているという感じの表現ではありますが。うーむ。

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ヤコブ 2:12 自由の律法

οὕτως λαλεῖτε καὶ οὕτως ποιεῖτε ὡς διὰ νόμου ἐλευθερίας μέλλοντες κρίνεσθαι.

(口語訳) だから、自由の律法によってさばかるべき者らしく語り、かつ行いなさい。

οὕτως /οὕτω (こうして、このように) 副詞
λαλεῖτε /λαλέω (語る) 動詞 現在能動命令 二人称複数
καὶ /καί (そして) 接続詞
οὕτως /οὕτω (こうして、このように) 副詞
ποιεῖτε /ποιέω (行う) 動詞 現在能動命令 二人称複数
ὡς /ὡς (~のように) 副詞
διὰ /διά (~によって) 前置詞
νόμου /νόμος (律法) 名詞 所有格属格単数男性
ἐλευθερίας /ἐλευθερία (自由) 名詞 所有格属格単数男性
μέλλοντες /μέλλω (まさに~しようとする) 動詞 現在能動分詞 主格複数男性
κρίνεσθαι /κρίνω (裁く) 動詞 現在受動不定詞


訳としては
「自由の律法を通してまさに裁かれんとする者として、そのように語り、そのように行いなさい」
という感じでしょうか。

口語訳だと「さばかるべき」という風に「べき」と訳してますね。
うーむ。そういう意味なのでしょうか。
裁かれるべきかどうかと言っても、ヤコブさんとしてはみんな裁かれるに決まっているのであって、裁かれない者が他にいるかのような意味で特別に「さばかるべき者」というわけではないような。
「μέλλω まさに~しようとする」そのままの意味で解していいような気がします。
今はまだ終末は来ていないけど、今まさに裁かれんとしている者のように振るまえということでしょう。

この書簡は後半調子が上がってくると、ヤコブの論調は、今まさに神が裁きを下しているようなトーンになってきます。

あと、なぜここで「自由の律法」と言ったのかですね。
裁かれる話をしている時に、まさに「自由」であるというのだから、結構逆説的です。
まぁたぶん、相手にとって自由ということが重要であったということかなと思います。そしてそれは自分にとっても重要であるのでここで神による裁きというものが自由を本当に実現するものであると確認したかったのかも。
何か厳格な…重荷になるようなものではなく、現実の世の中の様々な不自由を取り除いて解放してくれるようなものなのだと。
まぁ、律法が実際そういう存在であるかどうかはともかくとしても。
たぶん、与えられた律法によって裁かれることによって、神の裁きに与るという感じのニュアンスなのかなと。
裁かれるという認識によって、神が神として現れるときに備えているという感じか。
ヤコブ 2:1で「我らの主イエス・キリストの栄光」と祈っている様子が描かれますが、つまり、キリストが栄光をもって現れる瞬間というのは、つまり終末の裁きの到来を意味するのでしょう。そのように祈るのならば、終末の裁きの前にあるか者として振る舞っているべきだと。
その裁きによって自由を得ることができるのは、つまり「隣人を愛する」という律法を通してなのだ、ということでしょうかね。
この補足説明が、次の「あわれみを行わなかった者に対しては、仮借のないさばきが下される」という説明につながってくのかな。

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