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2012年8月

求めても与えられないのはなぜ 2

ヤコブは文脈からしておそらく、自分だけの欲望をみたすような発想ではなく、相手も幸福になるような発想で「行動」するように教えています。

(ヤコブ 1:6-18)には、疑わずに求めるように書かれています。
これを中心に考える人は、信じ込んで求めなさいという意味だと考えるかと思います。
疑うものは受け取ることができないのですから、「疑わずに求めること」が「正しい求め方」ではないかと考える人もいるかもしれません。

「正しい求め方」とは「疑わずに求めること」だとすると、「悪い求め方」の例に「快楽のために使おうとすること」(ヤコブ4:3)をヤコブがあげていることの対応関係がわからないんですね。

 【ヤコブ4:3】
 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

この書き方だと、疑うかどうか自体は問題になっていない印象です。
でも、両方とも「二心の者」(ヤコブ 1:18、4:8)と批判されています。
これは別の意味でつながっているようです。どういう意味でつながっているのでしょう。

「二心の者」は、荒れた海の波に譬えられ、「安定を欠く人」とされています。
ギリシャ語で似た表現がペテロ書に見られます。心が「定まらない人」(2ペテ2:14、3:16)は、ともすれば道を踏み外すと考えられていたようです。
教会内に論争が起こり、一方は裕福な人々で指導的な立場にあり、パウロ神学から…おそらく律法無用の教理を教えていたのでしょう。
もう一方には貧しいユダヤ系キリスト教徒がいて、律法を遵守しながらもキリストへの信仰をもっていたようです。
この二派は、律法をめぐって対立が生じていたようです。
貧しいユダヤ系キリスト教徒は、おそらく教育を十分受けておらずパウロ神学にうまく反論できず、それでも伝統的に遵守してきた律法を廃するような生活スタイルには抵抗があり、わりきれない立場におかれてしまったのでしょう。
その不安定さが教会内の混乱を生んでいるとヤコブは考えて、不安定になった信徒の気持ちを一旦落ち着かせようとしているのかと思います。

教会内では罵りあいになっているけど、波のように荒れた気持ちではいけないと。落ち着きなさいと。
荒れてる奴は神様から何もいただけないよと。
「疑わずに求めなさい」はそういうニュアンスで書かれているのかなと推測してます。

「快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ」(ヤコブ4:3)の方は、もう一方を批判しているわけです。
つまり、裕福な信徒が指導しているけど、舌を制することなく、神のかたちをかたどった人をののしっており、それはつまり律法をののしっていることであり、そのことは「隣人愛を行っていないこと」に現れていると。
成金の金持ちをチヤホヤして、貧しくて汚い格好をしていると冷遇しているじゃないか、と。

では、逆に、どのような求め方が「良い求め方」なのでしょう。
でも、上述のように「疑わずに信じて求める」とか、そういう話だけではなかろうと思うわけです。現代人にとっては「信仰」だの、「信じる」だのといったことが重要そうに思えるわけですが、ヤコブからは、そういう神学臭いトーンで書いている印象は受けません。

「良い求め方」とはどういうものか。
前回書いたことを踏まえると、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7:12)という教えもありますので、「求めることは、与えること」とつながっていると考えるのが良いかと思います。
神学的な発想をして、「神の国を願うのが正しい願い方です」といった答えを出す人もいるかと思いますが、そのような答えだと、自分は何を人に与えればいいのかよく分からなくなりそうです。
ヤコブはもっと単純に生活に即したこと…やもめや貧しい孤児を見舞うことをあげているわけですから、生活に即したものであると考えるべきかなと思います。

これは神学的に考えるよりも、具体的に夫婦関係などを想定した方が考えやすいのではないかなと思います。

韓国に番組のなかでカップルに仮想結婚してもらい、その夫婦にいろいろなミッションを与えて夫婦がどういう反応を示すかを観るせみ・ドキュメンタリーの番組があります。
そのなかにロックバンドのボーカルをしている夫と、アイドル歌手の妻というカップルが登場してました。
夫婦でゲームをして、勝ったほうが相手に「願いこと」をひとつ聞いてもらう権利を得るという場面があったのですが、夫がゲームに勝って、妻に願いをひとつ聞いてもらえることになります。
夫は悩んだ末に、ギターを買って、妻にプレゼントして、「ギターを練習してくれ」と願います。
ギター演奏が好きな夫は、一緒に演奏を楽しめるように妻にギターを練習してほしいと願ったわけです。

二人が一緒に楽しめるように、共通の趣味を持てるように、理解しあえるように願い事をしたので、いい願い事だなぁと僕は感心しました。
ヤコブが考える求め方もこれにちょっと近いのではないかなと思います。
相手の幸福が、自分の幸福につながっていて、それを願う。
そういう発想をすることが重要なのであって、だからこそ、舌を制することなく相手を罵る「快楽」のために求めることは違う、とヤコブは言っているのかなと。

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求めても与えられないのはなぜ

ヤコブにとって「良い求め方とは」どのようなものでしょうか。

 【ヤコブ 4:2-3】
 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。
 熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。
 あなたがたは、求めないから得られないのだ。
 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

「快楽」の元にあるギリシャ語は「喜び」「楽しみ」を指す語です。
下記の「欲情」と訳されている語も同じ語です。

 ヤコブ 4:1
 あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。
 それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。

「肢体/器官」に当たる語は、ヤコブの手紙の中では主に「舌」を指しています(ヤコブ 3:5-6)。
ですので文脈からすると、ヤコブが問題にしている「快楽」とは、舌という器官をつかって相手を罵ったり、大言壮語する「快楽」を指しているようです。

基本的にはヤコブは、求めれば与えられるのだというイエスの教えを受け継いでいるようです。
「求めよ、そうすれば、与えられるであろう」(マタイ7:7 抜粋)
「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。
そうすれば、与えられるであろう」(ヤコブ1:5 抜粋)

神が一貫して良いものを与えてくれる存在であるという認識も共通しているようです(マタイ7:11、ヤコブ1:17)。

マタイでは、神が一貫して良いものを与えてくれる存在であることを根拠にして、「だから、何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」(マタイ7:12)と教えています。
祈りのなかにも、同じ姿勢が見られます。
「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください」(マタイ6:12)
神は一貫してやさしく何でも与えてくれて、寛容に罪を許してくれる存在であると信じているので、私はそれを見習って人を許しますよと。だから、神様は寛容に私の罪を許して悪から救ってくださいね、と。
そういう文脈になっているようです。

おそらく、ヤコブも同じようなスタンスをとっていると思われます。
何か求めるのならば、自分がほしいと思うものを人に与えるように努めるべきだ、と考えているのだろうと思います。

ヤコブ書は、教会内で論争が生じ、互いに罵り合っている状況が背景にあるようです。
そのなかでヤコブは争いをおさめようと介入しているようです。
ヤコブの文脈からすると、一方は貧しく、食うや食わずの生活をしており、教育が受けられないでいるユダヤ系の信徒です。ユダヤ系キリスト教徒は、おそらく素朴に律法を守りながらキリストを信仰していたのだろうと思います。
もう一方は比較的裕福な人たちで、集会の場所を提供していた人たちではないかと思われます(新共同訳・口語訳でははっきり訳出されてませんが、ヤコブ2:3において、貧しい人に「足台」の横に座るように言うセリフがあります。椅子と足台はセットでつかわれます。集会の場所を提供している裕福な人の椅子があるということかと思われます)。その比較的裕福な人たちが指導的な役割を果たしていたのでしょうけど、彼らはパウロ神学の影響を受けてわりと律法の制限を受けずに、わりと自由に商売ができていたのかなと想像します。そして、律法を守ろうとしている貧しい信徒たちに対して「律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」(ガラ5:4)と教えたために、論争が生じたのではないかなと思います。

ヤコブは、パウロ神学を牽制しながら、批判にうろたえてヒステリックな罵り合いに陥る人々に、落ち着くように呼びかけているようです。

 【ヤコブ 3:13】
 あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか。
 その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、立派な生き方によって示しなさい。

貧しいものは教育を受けられない。裕福な人々は教育を受けている。その点有利です。
でも、ヤコブは知恵は求めれば神が与えてくれるとして、裕福な人たちの優位を否定しているようです。
神は知恵を与えてくれる。でも、海の波のように不安定な者には与えられない(1:6-7)。
知恵が与えられたなら、知恵にふさわしい柔和な態度であれ。
争いや罵り合いを引き起こすような知恵なんぞは、そんなものは神の知恵ではない(3:15)。

ヤコブは手紙の冒頭で「いろいろな試練に陥ったとき、それらすべてを喜びと思え」と教えています。
その試練(ギリシャ語では「誘惑」と同じ語です)は、べつに神が与えたものではありません。
神は誘惑したり、試練を与えたりしない。一貫して善なる存在だとヤコブは言ってます( 1:13)。
人が試練に陥るのは、欲望に釣られているからであると。
それでもなお、この試練を楽しめと言っているわけです。

自分の欲望によって、人は苦しみを招いている。
しかし、その試練を楽しめ。喜んで耐えるべきだと。
人間を罵るな。神のかたちをかたどった人を罵って、同じ舌で神を賛美するようなことがあってはならない(3:9-10)。

ヤコブは、人間が引き起こす試練に、愚痴も言わずに平然と、むしろ喜んで耐えるように言っているわけです。
そして、一方で、自分が求めるものを、相手に与えるように努めるわけです。
求めるものは、つまり「与えられるもの」でもあるわけです。未亡人や苦境にある貧しい人々を見舞うように言ってます。
ヤコブは「求めるもの」として、神の愛であるとか、神の国であるとか、そういう神学的な発想をしているわけではないようです。
そのあたりは、祈りのなかで「日ごとのパンを与えてください」と祈るイエスの姿勢に似ています。

ヤコブは行いを重視しますが、パウロが批判した形式主義的な「律法の行い」ではなく、「隣人愛の行い」です。
形式主義的に律法を守ることが重要なのではないという姿勢は、旧約聖書にも見られます。それはヤコブ書と共通した姿勢に思えます。

 【ヤコブ1:27】
 父なる神のみまえに清く汚れのない信心とは、
 困っている孤児や、やもめを見舞い、自らは世の汚れに染まずに、身を清く保つことにほかならない。

 【イザヤ 58:6-7】
 わたしの選ぶ断食とはこれではないか。
 悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて
 虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。
 更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え
 さまよう貧しい人を家に招き入れ
 裸の人に会えば衣を着せかけ
 同胞に助けを惜しまないこと。

ヤコブは知恵があれば、それを生き方で示すように言っており、それは単に求めて欲しがっているだけでなく、何らかの形で生き方に反映させることをヤコブは考えているようです。
黄金律の教えのように、自分がしてほしいと思うことを、相手に与えるわけです。
つまり、ヤコブが考える「求め方」とは、単に自分の欲望を満たすようなものではなく、相手を含めて幸福になるように発想すること、さらにそれを行うことであるようです。

(mixi で、同じテーマでトピックを立てて意見を頂きました。それらを参考にしてます。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=68411106&comm_id=918354&page=all)

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