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2012年1月

ヤコブ 4:4 世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである

(口語訳)不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

μοιχαλίδες,
姦婦どもよ、
οὐκ οἴδατε ὅτι ἡ φιλία τοῦ κόσμου ἔχθρα τοῦ θεοῦ ἐστιν;
世への愛着は、神への反抗であることを知らないか、
ὃς ἐὰν οὖν βουληθῇ φίλος εἶναι τοῦ κόσμου,
だれでも世の友であろうとするものは、
ἐχθρὸς τοῦ θεοῦ καθίσταται.
自らを神の敵に定める。
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これは教会内で争いが生じることについて「欲望が原因である」と指摘する文脈にあります。
欲望を持つが、手に入らない。だから、争う。
手に入らないのは求めていないからだ、と。それが「世の友であろうとしている」状態である、という文脈になります。

ヤコブは、教会内の争いは、一種の欠乏状態から生じていると見ているようです。
争うときに、何が欠乏しているものでしょう。

貧しい人々が冷遇されることを批判した部分がありますので、えこひいきが問題になったのでしょうか。
当時もおそらく教会を維持するための献金していたかと思われます。
「足台」が出てきますので、椅子があるような裕福な信徒の家で集会をしているようです。
裕福な信徒は優遇され、献金が少ない貧しい信徒に対しては指導者がなじったりしたのでしょうか。

「えこひいきせず、隣人愛に行いを伴わせること」をヤコブは強調してます。
献金を貧しい人たちへの施しのために使うことは申命記で前提されているようです。
下記のように、神殿から遠く離れている人々は、十分の一の捧げ物を金に変え、それで買ったもので家族で食事して楽しむべしとしています。
2年に一回(三年の終りごとに)は、孤児や寡婦に満足ゆくまで食べさせるべしと。

 【申命記 14:24-29】
 ただし、その道があまりに遠く、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所が、
 非常に遠く離れていて、あなたの神、主があなたを恵まれるとき、
 それを携えて行くことができないならば、あなたはその物を金に換え、その金を包んで手に取り、
 あなたの神、主が選ばれる場所に行き、その金をすべてあなたの好む物に換えなければならない。
 すなわち牛、羊、ぶどう酒、濃い酒など、すべてあなたの欲する物に換え、
 その所であなたの神、主の前でそれを食べ、家族と共に楽しまなければならない。
 町の内におるレビびとを捨ててはならない。彼はあなたがたのうちに分がなく、嗣業を持たない者だからである。
 三年の終りごとに、その年の産物の十分の一を、ことごとく持ち出して、
 町の内にたくわえ、あなたがたのうちに分け前がなく、嗣業を持たないレビびと、
 および町の内におる寄留の他国人と、孤児と、寡婦を呼んで、それを食べさせ、満足させなければならない。
 そうすれば、あなたの神、主はあなたが手で行うすべての事にあなたを祝福されるであろう

しかし、そのような隣人愛がなされていない、ということなのかも知れません。

罵り合う状態になると、どちらが正しいなどという状態ではなくなります。
ただ、争いをやめて、舌を制して、罵るのをやめるべきであると。
柔和な行いによって知恵を示すべきだとヤコブは言ってます。
正義であるように思えても、報復はよい結果をもたらさないものです。
「人の怒りは、神の義を全うするものではない」とヤコブは言います。

柔和な行いのなかで知恵を求めること。
そこに立ち返らなければ、欲しいものは本当のところ手に入らないのだと。

相手を言い負かそうとして知恵をつけても、たいして本人の成長につながってないものです。
馬鹿にしている相手と議論しても罵り合いにしかならない。
尊敬している相手と議論して、相手の語っていることを理解しようとしてないと、勉強にはならないものです。
憤りに取り憑かれている状態だからこそ、冷静になることが、結局自分自身の利益になるものかなと。

などと思いながら読みました。

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