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ヤコブ3章の雑感

パウロの手紙を批判する2章に比べて、たとえが多く、話の主旨にまとまりが欠けて感じる3章です。

ヤコブは何度も、「完全であれ」と言いますが、これらはこの3章に掛かってきます。
言葉の上であやまちのない人は、全身をも制御することができる完全な人である、とヤコブは言います。
「ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない」と、ここで話を一転させます。
ヤコブは完全であることは無理だと判断していながら、ここまで論じていたわけです。

パウロは、キリストの死にあずかる者は、罪から逃れることができたと考えていたようです。(ローマ 6章あたり)
教会は、キリストによって罪から贖われたと考えたわけです。
問題は、その後、すぐに終末が来なかったことです。
神の国がなかなか来ないことによって、神の裁きの前に信徒が亡くなったり、罪を犯したりと、ゴタゴタしはじめます。

ヤコブの教会では、罵り合いが起こった。
おそらく、パウロ神学の影響を受けた人々が、律法を素朴にまもろうとした人々を批判したのでしょう。
「ユダヤの神も、異邦人の神も、一つだ。異邦人を救ってくださる神は、信仰を見て救ってくれたのだ。律法の行いに頼っているのはキリストの恵みを台無しにしているんだぞ」というような調子で批判したのかなと思います。
「神がお一人であると信じているのか、それは結構なことだ。悪霊もそう信じておびえているさ。行いのない信仰など、何の役にたつ。それなら、行いなしに信仰を見せてみよ。わたしは行いで信仰を見せてあげますよ」
このあたりが、2章でヤコブが描いている構図だと思います。

3章では、ヤコブは、相手がそうやって「教師」として偉そうに教えていることを批判します。
教師にはより厳しい裁きが待っているのだぞと。
くつわが馬を制御できるように、かじが船を制御できるように、舌は人間を制御してしまう。
舌は大言壮語し、相手を罵る毒を吐く。
さて、罵り合っているみなさん、舌を制御できてますか。
信仰を持っている。それは結構だ。で、行いは制御できてますか。
罪から贖われている。それは結構だ。でも、貧しい者を冷遇しているのではないですか。

罪なんて抽象的なものは、何とでも言い逃れできてしまう。
でも、言葉にあらわれているでしょうと突かれると、言い逃れができない。

いや、これも言い逃れることはできる。
相手が邪悪なことをやっているから、批判するのは当然だ、と。
自分の悪を正当化するのに、相手がもっと悪だからだと説明する。

言い逃れるポイントはいくつかある。
・相手が悪いから、俺の批判は当然である。
・俺の悪口によって実際何も損害は出ていない。
・俺を批判する奴も、悪口ぐらい言っているんだから、えらそうに言えないだろう。
・俺は教会を良くするため、社会のため、みんなのためにやっているんだ。
などなどがあるでしょう。
こういう言い訳によって、自分を正当化し、相手を罵ることを正当化し、他者からの批判に耳を貸さないわけです。

たぶん、ヤコブはそういう言い逃れをさせないように工夫している。
「キリストの信仰を持ちながら差別してならない」
「神を賛美する口で、神が創った人を罵ってはならない」
このような批判の仕方は、相手に上記のような言い逃れをさせない。
あなたは信仰を持っているというのだな。それならば、差別してはならない。罵ってはならない。
罵るならば、それは舌の悪に毒されているのだ。
知恵のある者は、行いによってそれを示してみなさい、と。

こういう言い訳させない話の展開の仕方からすると、ヤコブさんは議論慣れしている印象です。
ヤコブさんは、結構、議論巧者だと思います。

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コメント

ん~なるほど~。( ^ω^ )

投稿: インギー改 | 2011年11月 6日 (日) 15時42分


コメントありがとうございます。
またご意見いただければ幸いです。

(すみません。このブログ、コメントいただくことが稀なので、見落としてしまってました)

投稿: Kazist | 2011年11月19日 (土) 09時14分

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