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リベラル派

このブログは、ブログ村の「リベラル派」のカテゴリーに一応入れてます。
でも、まぁ実際「リベラル派」という派は、現在は存在していない。
福音派が彼らの教理に合わない人たちをそう呼んでいるだけです。
その教理というのは福音派が「聖書信仰」とか呼んでるもので、「聖書には矛盾がないと信じる」ということです。

聖書には山のように不整合がありますが、「聖書信仰」とやらからすれば、それらを無視するわけです。それについてとやかく言う奴は異端か悪魔の手先だから話を聞く必要はないのだと拒絶することになります。

元来、リベラルと呼ばれた自由主義神学は、ずいぶん昔に論争のなかですたれていったようですが、福音派は、聖書を歴史的・批判的に研究する研究を「リベラル派」と呼んで批判し続けます。
なので、批判が勢いあまってくると「カトリックもリベラル派だ」なんて奇妙な言い方をする人も出てきたりします。プロテスタントの一派がなんでカトリックなんだ。
これは実際に存在する「派」の話をして「いない」から、こういう語彙の矛盾が生じるわけです。
「リベラル派」と批判するとき、その語が指しているのは「聖書学」のことです。とくに「歴史的・批判的な聖書学」のことです。

「歴史的な研究」というものは、つまり、学問的な研究成果は教派を超えた成果ですので、それを共有することができる。
なので、プロテスタントもカトリックも、その成果をもちよって共同で聖書を翻訳しましょう…という動きができるようになるわけです。その成果はつまり新共同訳などですね。
で、当然、それぞれの派にはそれぞれの伝統があるわけですが、歩み寄らないと共同でことは進められない。
相手に妥協するのが嫌だという人たちは、「派」として分離してゆくわけです。
そういう教派の協力を「エキュメニズム」として、これまた福音派は嫌ったりする。

福音派は「リベラル派」「エキュメ二カル派」というものを批判するわけです。
ところが、「派」なんてものの実態があるわけではない。
学者肌の牧師さんがいる教会もあるでしょうけど、信徒さんが資料仮説に詳しかったり、文献批判を行っている聖書学者であるわけではない。
だから、福音派の人が「リベラル派」について頻繁に批判していても、そんなものは実際にはいなくて、当然、ブログ村が「リベラル派」というカテゴリーを作っても数人しかこのカテゴリーに登録することはないわけです。
福音派の人が「あの連中はリベラル派だ」と批判することはあっても、「わたしたちはリベラル派です」と自称するような用語じゃないからね(たまにはいるでしょうけど)。

今後も、せいぜい「リベラル派」という言葉を政治用語として勘違いして登録する人や、まれにブルトマンなどを研究する学者肌な人が現れたとしても、「派」と呼べるほどの数になることはないでしょう。
僕はそもそも信者ではないので、「リベラル派の信仰」を持っているわけではない。
なので、「リベラル派です」というようなカテゴリニーに登録していると、居心地が悪い。
それでも、まぁ僕はブルトマンあたりを好んで読んでるし、まだちょっとは該当するかな。

まぁ、「福音派の人に好かれるようなことは書くことはないですよ」という目印にはなるかもね。

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