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2011年9月

DVDでギリシャ語学習

東北の震災後、出勤する時間を早くしてます。
僕は暑がりでして、電力不足から電車のエアコンの設定温度が上げられたりすると耐えられそうにないので、混んだ時間を避けようと早起きします。
早く出勤して、会社の近くのドトールコーヒーで時間をつぶす。
マクドナルドの方がコーヒー代は安いけど。でも、朝の繁華街のマクドナルドは徹夜明けの若い客が結構うるさいのだ。そこのドトールは比較的静かです。

「DVD やさしく学べる 新約聖書ギリシア語独習」を買ったので、朝の時間にポータブルプレイヤーで見てます。
変化形なんかは、やっぱり覚えなきゃいけないんだな(…今さら言うことでもないが)。
暗記する部分をどう暗記しているか、ビデオで見れるだけでも「あぁ、そうやってたのか」と発見するものです。
文法の解説と、後半の方には「ガラティア」の解説もある。
講師の方は、真面目そうな、ちょっとオドオドした感じの方ですが、田川訳をちょっと批判してみせたりしますね。面白い。

アクセント規則とか、本で読んでも今ひとつピンとこないけど、これはさすがに分かりやすい。
あと、僕はちょいちょい気息記号を見落として覚えてしまった単語があって、ビデオを見ると「あれ、その単語はハ行の音で始まるのか」なんて気がついたりします。
形態論というか、その語のなりたちの解説は面白いですね。わかりにくい変化形が、どういう風に形成されてるかの解説はなかなか本だけでは理解しにくい。
18,900円と高いんだけど、約24時間分も講義が入ってる。
まだまだあるので、ゆっくり観てゆきます。

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リベラル派

このブログは、ブログ村の「リベラル派」のカテゴリーに一応入れてます。
でも、まぁ実際「リベラル派」という派は、現在は存在していない。
福音派が彼らの教理に合わない人たちをそう呼んでいるだけです。
その教理というのは福音派が「聖書信仰」とか呼んでるもので、「聖書には矛盾がないと信じる」ということです。

聖書には山のように不整合がありますが、「聖書信仰」とやらからすれば、それらを無視するわけです。それについてとやかく言う奴は異端か悪魔の手先だから話を聞く必要はないのだと拒絶することになります。

元来、リベラルと呼ばれた自由主義神学は、ずいぶん昔に論争のなかですたれていったようですが、福音派は、聖書を歴史的・批判的に研究する研究を「リベラル派」と呼んで批判し続けます。
なので、批判が勢いあまってくると「カトリックもリベラル派だ」なんて奇妙な言い方をする人も出てきたりします。プロテスタントの一派がなんでカトリックなんだ。
これは実際に存在する「派」の話をして「いない」から、こういう語彙の矛盾が生じるわけです。
「リベラル派」と批判するとき、その語が指しているのは「聖書学」のことです。とくに「歴史的・批判的な聖書学」のことです。

「歴史的な研究」というものは、つまり、学問的な研究成果は教派を超えた成果ですので、それを共有することができる。
なので、プロテスタントもカトリックも、その成果をもちよって共同で聖書を翻訳しましょう…という動きができるようになるわけです。その成果はつまり新共同訳などですね。
で、当然、それぞれの派にはそれぞれの伝統があるわけですが、歩み寄らないと共同でことは進められない。
相手に妥協するのが嫌だという人たちは、「派」として分離してゆくわけです。
そういう教派の協力を「エキュメニズム」として、これまた福音派は嫌ったりする。

福音派は「リベラル派」「エキュメ二カル派」というものを批判するわけです。
ところが、「派」なんてものの実態があるわけではない。
学者肌の牧師さんがいる教会もあるでしょうけど、信徒さんが資料仮説に詳しかったり、文献批判を行っている聖書学者であるわけではない。
だから、福音派の人が「リベラル派」について頻繁に批判していても、そんなものは実際にはいなくて、当然、ブログ村が「リベラル派」というカテゴリーを作っても数人しかこのカテゴリーに登録することはないわけです。
福音派の人が「あの連中はリベラル派だ」と批判することはあっても、「わたしたちはリベラル派です」と自称するような用語じゃないからね(たまにはいるでしょうけど)。

今後も、せいぜい「リベラル派」という言葉を政治用語として勘違いして登録する人や、まれにブルトマンなどを研究する学者肌な人が現れたとしても、「派」と呼べるほどの数になることはないでしょう。
僕はそもそも信者ではないので、「リベラル派の信仰」を持っているわけではない。
なので、「リベラル派です」というようなカテゴリニーに登録していると、居心地が悪い。
それでも、まぁ僕はブルトマンあたりを好んで読んでるし、まだちょっとは該当するかな。

まぁ、「福音派の人に好かれるようなことは書くことはないですよ」という目印にはなるかもね。

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ヤコブ3:18 義の実

καρπὸς δὲ δικαιοσύνης ἐν εἰρήνῃ σπείρεται τοῖς ποιοῦσιν εἰρήνην.

(口語訳)義の実は、平和を造り出す人たちによって、平和のうちにまかれるものである。

---
καρπὸς δὲ δικαιοσύνης
また義の実は
ἐν εἰρήνῃ
平和において
σπείρεται
蒔かれる
τοῖς ποιοῦσιν εἰρήνην.
平和をなす者たちに

平和をなす者たちに「よって」蒔かれると訳すのか。
口語訳を読むまでは、平和をなす者たちに「対して」蒔かれるのかと思ったや。

なので訳すと、
「また義の実は平和において、平和をなす者たちによって蒔かれる」
という感じでしょうか。

実が蒔かれるのか。種ではなくて。
蒔かれた種を育てる行為が、つまり平和をなすということなのでしょうから、すでに平和をなしているならばそこには実がもう成っているということかな。

ともかく、ヤコブさんとしては、義の実は平和なものなのだ、ということです。
なので、ヤコブさんは争いがあれば、そのことを問題にします。つづく4章はそういう展開ですね。

でも、まぁ世の中のことに当てはめて考えると、おとなしくしていれば、それで正しいというわけでもない。
ヤコブさんも、それは分かっている。おとなしければ、平和であればそれでいいとは思っていない。
なすべき善が何であるか分かっているならば、それを行なわなければならない責任があるとヤコブは考えているようですね。

ヤコブさんは、祈りの重要性なども後半に論じてますが、基本的には合理的に行動するタイプに思えますね。
合理的に行動すべきであると分かっているときには、行なうべきを行なう。
何でもかんでもオカルティックに解決しようとしないところが、わりと理解しやすいです。

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Different Seasons

先日、ブックオフでスティーブン・キングの「Different Seasons」を300円で買った。
この本には「ショーシャンクの空に」の原作が入っている。僕は高校時代に翻訳でこれを読んでメチャ感動した。原作が好き過ぎるので、映画の方はあんまり評価する気にならない。
さらに、「Apt Pupil」も大好きだ。これも映画になっていて「ゴールデン・ボーイ」というタイトルです。まぁこれも映画化をするのは至難の業という作品でして、健康的で陽気だった少年がじわじわと猟奇殺人に取り憑かれてゆく描写がリアルでたまらんわけです。
あと、「スタンド・バイ・ミー」もあるけど、それがかすむぐらいの名作ぞろいの短編集。
で、この本は大好きな本だから、まぁがんばって洋書で読んでみようかなと。
でも、まぁ翻訳を並べて読めば難しいところも何とかなるかな。まぁギリシャ語よりはましだろうと。
辞書がまた100円で売っていた。英和和英の小型の辞書。それでも100円は安いな。
いまどきはこんな辞書は使わずにモバイルで調べるものなのかな。まぁ僕はこのあたりはアナログでいいんだけど。

今のところのんびり読んで「ショーシャンク…」が10ページほど。100ページほどの作品だから、もう10パーセントも読んだのか。
ただまぁ法廷の場面があったり、刑務所の話だったりするので単語は難しい。たくさん辞書で引きます。
辞書で引くような難しい単語は、どちらかというとすぐ解決する。辞書に書いてある意味どおりだから。
もっと簡単な単語の方が言い回しが難しいな。
まぁ、それもぼちぼち読んでゆきます。

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ヤコブ 3:17 上からの知恵は、第一に清く

ἡ δὲ ἄνωθεν σοφία πρῶτον μὲν ἁγνή ἐστιν, ἔπειτα εἰρηνική, ἐπιεικής, εὐπειθής, μεστὴ ἐλέους καὶ καρπῶν ἀγαθῶν, ἀδιάκριτος, ἀνυπόκριτος.

(口語訳)しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。

---
自分なりに訳してみると下記のような感じです。

ἡ δὲ ἄνωθεν σοφία πρῶτον μὲν ἁγνή ἐστιν,
しかし、上からの知恵は第一にまさに純粋であり、
ἔπειτα εἰρηνική, ἐπιεικής, εὐπειθής, μεστὴ ἐλέους καὶ καρπῶν ἀγαθῶν,
そうして平和で、優しく、求めに応じてくれて、慈悲とよい実に満ちて、
ἀδιάκριτος, ἀνυπόκριτος.
決め付けることがなく、偽善的でもない。

形容詞がズラズラと出てきます。
知恵は純粋であることが第一に挙げられてますが、ここまでの文脈のなかでそんなに純粋という言葉が出てきてないのに、ここに来て突然「純粋であること」が筆頭に来てますね。
純粋って何?
これまでの文脈だと、欲望や嫉妬や野心なんてものは、利害的な関心から行動しているのだって話であったので、まぁそういう動機が混じっていれば純粋ではないか。
ヤコブは、神は「惜しみなく与えてくれる」と言ってるけど、この惜しみなくというのは「ἁπλῶς 純真に」というような語ですが、これまでの文脈ではこれが一番近いかな。
あと「清く汚れのない信心とは…」(ヤコブ1:27)という表現があったけど、「καθαρὰ 清く」と「ἀμίαντος 汚れがない」という語なので、ちょっと違う。

全体的に、ヤコブにとっての神のイメージに近い。
こういうものは、神とはこういうものだ…と自分なりのイメージをもって、それを根拠に論じてゆくものなのかな。
ヤコブの善なる神は、キリスト教の神のイメージのなかでは、ちょっとズレた位置にある気がします。ヤコブの神は、どちらかというとすべてを与えてしまっていて、人間に余計な干渉をしない。人間のあるべき道は知恵によって示され、それは善であることが分かる。どちらかといえば、正しい道を歩んでいるか何度も自分を検証しながら進んでゆくという感じです。
でも、キリスト教の神のイメージは、どちらかというと信徒に対して決定的な干渉を行っており、信徒は義とされるのだと「決定」しているような存在として理解されているように見えます。
ヤコブは、そういう決定を受けたと意識している印象はなくって、むしろ何か道のなかばにあって先に進まねばならない、というような意識をもっている印象をうけます。ディダケーにあるような、命へいたる道のなかばにいますよ、という感じでしょうか。道は選択し、そこを進み始めてはいるけれど、とくにその道は何といって完成していないし、まだまだ善は検証され追及されねばならない。
神の知恵に従って生きてゆくということが、ヤコブとしてはひとつの課題としてあるということでしょうか。
ヤコブは律法遵守を中心に理解されますが、律法全体を守るように言ってはいるけど、実際に取り上げているのはイエスが重んじた隣人愛であるし、異邦人出身の信徒が律法全体がまもれないにしても遵守しようとする人々にケチをつけてこなければそれで良くて、基本的にはイエスの教えと神の知恵を同一視して、それに従って生きて、迫り来る終末の裁きに備えるべきだ、というのがヤコブさんの理解しているところかなと思います。

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ヤコブ 3:16 混乱とあらゆる忌むべき行為

ὅπου γὰρ ζῆλος καὶ ἐριθεία, ἐκεῖ ἀκαταστασία καὶ πᾶν φαῦλον πρᾶγμα.

(口語訳)ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべき行為とがある。

---
自分なりに訳してみると、下記のような感じでしょうか。

ὅπου γὰρ ζῆλος καὶ ἐριθεία,
なぜなら嫉妬と野心があるところは、
ἐκεῖ ἀκαταστασία καὶ πᾶν φαῦλον πρᾶγμα.
そこに無秩序とあらゆる悪しき行為があるからだ。

この部分には動詞がないです。「あるところ」などは付け足してます。
ἀκαταστασίαは、元になっている「ἀκατάστατος 不安定」という語が(ヤコブ 1:8)に出てきます。

ヤコブのイメージとしては、神はあらゆる物を惜しみなく人間に与えてくれている存在であるようです。
でも、人間は欲を出してそれを台無しにしている。
ヤコブは当時の教会の問題として、世話役が貧しい人を冷遇したり、指導者の名誉を嫉妬して信徒が「教師」として振舞いたがるので混乱が生じている、と考えているようです。
その「教師」たちは、パウロの神学に影響を受けていて「律法にたよるものは、キリストとは無縁だ」などと言って、律法を遵守するユダヤ系キリスト教徒を困らせていたのかも知れません。
ヤコブとしては、その知恵が天からのものならば、平和をもたらすはずだとします。なぜなら神は常に善なる存在で、善いものを与えてくれるのだと。
ヤコブとしては、神が善であるならば、善を志向するのは当然ということになります。
そして、結果を見て、混乱が生じているならば、その知恵に問題があるのではないかと反省を促します。
人間の嫉妬や野心に由来する知恵は、神の知恵とは違って、混乱を生じるのだと。

これに対して人間は怒ればいいのでしょうか。
ヤコブとしては、それも違うと考えている。人の怒りは、神の義をもたらすことはない(ヤコブ 1:20)。

ヤコブとしては、神は十分人間の幸福のために準備してくれていると考えている。
それを無駄にしているのは、人間の方である。
不幸な結果は、間違った知恵に従っていたからだ。
欲や野心を出して、儲けて傲慢になって、貧しい人々を苦しめる。
しかし、それは神の怒りを招くのだと、続いてゆきます。

パウロだと、神は果たして正しい存在なのかと議論してたりします(ローマ9章以下ぐらい)。
結局これは神が救う対象を「あらかじめ選択している」と考えた結果、「神に救う気がない」という結論が出てしまうためです。
神が救いたいものだけを救うというのは、妙にケチで邪悪なイメージになってしまう。
神が、イスラエルをわざとかたくなにして、その罪のためにイスラエルの人々を見捨てる、とパウロは考えることはできない。
パウロは自分で考えた結論に、自分でつまづいてます。
結局パウロにしても、勢いあまってイスラエル全部だけでなく、異邦人も全部すくわれるのだと言い張ります。

 (ローマ 11:25-26 抜粋)
 一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。

パウロとしては、この希望のなかで活動することで神を正しい存在だと考えることができたみたい。

 (ローマ 9:3)
 実際、わたしの兄弟、肉による同族のためなら、
 わたしのこの身がのろわれて、キリストから離されてもいとわない。

 (1コリント 13:2)
 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、
 また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

パウロの考え方は、案外清々しい
信仰しているから偉いんだぜ、と考えておらず、同族のためならのろわれることも厭わず、自分に愛がなければ無に等しいのだという姿勢ですね。
これがなくなると、「神にかたくなにされた人は滅びますね、ははは」で終わる。そんな神はパウロは信じてない。

それにしても、こういうのはヤコブと比べると随分危なっかしい不安定な発想だと僕は感じます。

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ヤコブ 3:15 地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである

οὐκ ἔστιν αὕτη ἡ σοφία ἄνωθεν κατερχομένη ἀλλὰ ἐπίγειος, ψυχική, δαιμονιώδης.

(口語訳)そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。

---
οὐκ ἔστιν αὕτη ἡ σοφία ἄνωθεν κατερχομένη
この知恵は上から降りて来たのではなく、
ἀλλὰ ἐπίγειος, ψυχική, δαιμονιώδης.
地上の、感覚の、悪魔的なものである。


「ψυχική」を口語訳は「肉に属するもの」と訳している。
新共同訳だと「この世のもの」としている。
英語だと sensual と訳されたりするようです。「肉体的感覚の」というような意味でしょうか。
「natural」という訳もあります。うーむ。肉体的感覚で捉えられるものなのだから、物理的な、自然のなかの存在であるということでしょうか。
それを敷衍して新共同訳の「この世のもの」という訳になるのかな。
天からの存在ではなく、「この世のもの」であるならば、「肉に属するもの」であるというのが口語訳の理解でしょうか。
…でも、ヤコブは「肉」について他には何も言ってないしな。
ヤコブは、世は悪しき存在であると理解しているようですが、それを「肉」とは分類してない。
パウロだったら、「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」(ローマ 8:5)のように霊と肉を対立するものとして並べますが、ヤコブはそういう表現はしないですね。
うーむ。
ここは「感覚の」と訳しておいたらいいのかなと感じます。

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ヤコブ 3:14 真理にそむいて偽ってはならない

εἰ δὲ ζῆλον πικρὸν ἔχετε καὶ ἐριθείαν ἐν τῇ καρδίᾳ ὑμῶν, μὴ κατακαυχᾶσθε καὶ ψεύδεσθε κατὰ τῆς ἀληθείας.

(ヤコブ 3:14 口語訳)
しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、
誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。

自分なりに試訳すると下記のような感じでしょうか。

εἰ δὲ ζῆλον πικρὸν ἔχετε
また、もし苦い嫉妬を持つ者、
καὶ ἐριθείαν ἐν τῇ καρδίᾳ ὑμῶν,
またあなたたちの心に野心を持つ者があれば、
μὴ κατακαυχᾶσθε καὶ ψεύδεσθε κατὰ τῆς ἀληθείας.
傲慢になって真実について偽ってはならない。

---
εἰ は「もし」。
δὲ は「しかし」とか、「また」という意味。

ζῆλον πικρὸν で「苦い嫉妬を」。
ζῆλον が「嫉妬」とか「熱心」という名詞で、πικρὸνは「苦い」という形容詞。語尾が「-ον」になっていて、どちらも対格(~を)の形です。

ζῆλονは辞書だと、「ζῆλος, ου, ὁ」とそれぞれ「ζῆλος(主格単数の形)、ου(属格単数の語尾)、ὁ(冠詞)」が記載されてます。
この組み合わせで第二変化の男性名詞がわかります。
第二変化の男性単数は下記のように変化するので、
主格 ζῆλος
所有格 ζήλου
与格 ζῆλῳ
対格 ζῆλον
「ζῆλον」は対格(~を)の形です。「嫉妬を」ということですね。

「πικρὸν 苦い」も同じなんですが、辞書だと「πικρός, ά, όν」とあります。
これは「πικρός(男性), ά(女性), όν(中性)」のそれぞれの語尾がかかれてます。
形容詞は、かける名詞に性数格をそろえるので、男性名詞にかけるときには男性の形を使う。
これはすぐとなりにある「ζῆλον 嫉妬」にかかってますね。
「苦い嫉妬(を)」という意味になる。

ἔχετε
ἔχωは「持つ」とか「伴う」といった意味。
能動現在の動詞は、数によって語尾が下記のように変化します。

一人称単数(私は~する)-ω
二人称単数(あなたは~する)-εις
三人称単数(彼[女]は~する)-ει
一人称複数(私たちは~する)-ομεν
二人称複数(あなたたちは~する)-ετε
三人称複数(彼[女]らは~する)-ουσι

ἔχ-ετε は二人称複数の形です。

καὶ は「また」とか「そして」という接続詞。

「ἐριθείαν 野心」は辞書だと「ἐριθεία, ας, ἡ」となってます。
第一変化の女性名詞ですね。主格単数の語尾が「-α」で属格が「-ας」の変化のパターンのものです。
(ウィキペディアの「Ancient Greek grammar (tables)」に変化表も参考に)
ἐριθείανは表の単数(Singular)の対格(Accusative)に確認できます。
対格なので「野心を」という意味になります。
口語訳だと「党派心」となってますね。新共同訳だと「利己的」。
辞書だと「報酬目当ての」というような意味が出てますね。たしか、田川訳も、コリントスでこの語をそのような意味であると書いてたような。賞賛などの利益を目当てにしているという意味になるのかな。

ἐν τῇ καρδίᾳ ὑμῶνで「あなた方の心において」です。
ἐνは「~において」という前置詞。
τῇは冠詞。単数女性与格(~に)の形。
καρδίᾳ は「心」。辞書だと「καρδία, ας, ἡ」。第一変化の女性名詞。単数・与格(~に)の形。「心に」となる。
ὑμῶνは「私たちの」という語。
(例によってウィキペディアの変化表です。「Ancient Greek grammar (tables)」)

ここまでのところをまとめると、
「εἰ δὲ ζῆλον πικρὸν ἔχετε καὶ ἐριθείαν ἐν τῇ καρδίᾳ ὑμῶν」
「でも、もし苦い嫉妬をあなた方が持ち、またあなたがたの心において野心を(持つならば)」
という訳になりますかね。


μὴ κατακαυχᾶσθε
μὴ は「~ない」と否定する語。
κατακαυχᾶσθε は「傲慢な態度をとる/尊大である」という動詞の命令形。
「傲慢になるな」という意味ですね。

καὶ ψεύδεσθε は「また、偽るな」という意味。

κατὰ τῆς ἀληθείαςは「真実について」という意味。

---

真理に背く動機として、傲慢さが挙げられている。
おそらく教会の指導的な地位にある人物が批判されていて、信徒のなかの教師ぶる人々は賞賛を「嫉妬」から批判して、彼らは真実を捻じ曲げてしまっているのだ、と見なされているのだと思います。
似たような教会の混乱については、第一クレメンスの手紙も伝えています。クレメンスのケースでは、エルサレムへ献金することについて混乱が生じたようです。

ヤコブのケースでは、何が問題になったか分からないけど、貧富の差と、律法を行なうことがヤコブ書で強調されてます。
イスラエルから離れ、ユダヤ人以外にも広がってゆくにつれて、習慣や伝統に対する理解は難しくなります。
貧しいものを保護する意味をもつ律法・習慣が無視され、弱者が冷遇される状況を目にして、ヤコブは批判しているのではないかなと思います。

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東京物語

小津安二郎監督の映画は、一本しか観てません。「東京物語」だけです。
でも、まぁ随分巧いなぁと感心してみました。

とくに家のなかを歩き回るシークエンスです。
奥の部屋から廊下を通って玄関へ行って、戻ってくる。
このぐらいの部屋から部屋への移動するぐらいが、わりと映画のなかで処理が難しいように思えます。
場面が変ると、リズムが途切れてしまう。
一つながりの場面としてリズム感を失わずに場面が次々切り替わっていく必要があります。リズムが悪くなると、安っぽく感じるようになります。

観客は、案外映画の裏側を見抜いていて、セットの広さを想像しながら見ています。
そっちより先にいくとセットがなくなるのだろう…と予想したりするものだと思います。
ところが、登場人物がふらりと玄関まで歩いていくときに、そのカット割りが自然で、動作がスムーズにつながっていると、観客はセットを意識しなくなります。

たとえば、よくある処理の仕方として、奥の部屋の場面から、一気に玄関の場面に移るという方法もあるでしょう。
でも、観客はそういう場面転換だと、セットをケチったような安っぽさを感じると思います。
「セットがふたつあるんだな。奥の部屋と、玄関だな。次は応接間のセットかな」などと思うわけです。
でも、「東京物語」のように廊下を歩いて、玄関へやってくると、「家がある」と感じます。
一気に登場人物の生活感にリアリティが生まれます。

また、この家なんですが、結構狭い。
いや、家としては広いのだけど、狭く撮ってますよね。
セット臭くなるのは、リアリティがないぐらいだだっ広い応接間なんかが原因だったりする。
部屋が広いと、登場人物をクロースショットで撮っても背景に奥行きがあるので絵的に見栄えがするのだと思います。
でも、それが安っぽいわけです。金はかかっているのだけど、金のかけ方が安っぽい。
「東京物語」の家は、狭く撮っている。廊下は部屋から見える範囲しか写っていない。玄関も、部屋から見える範囲しか写っていない。
画面の縦に三分の一に割ったサイズぐらいしか、実際に人物が動いて見えるスペースはないですね。
なので人物はちょっと横に動くと、物陰に隠れてしまいます。
人物を動かせる範囲は狭いのだけど、人物が物陰に隠れたタイミングでショットが切り替わる。
あるいは、玄関から戻って廊下を「曲がる動作」を軸にして、ショットが切り替わる。
人物の動作が見えなくなる瞬間。次のショットがどうつながるのかちゃんと計算されている。これが綺麗ですよね。
次のショットで、動作は流れるようにつながっている。「曲がる動作」も、つながっている。これは確実に狙って、準備して演出されてる。

小津安二郎監督は、イマジナリーラインを超えるような切り替えしのクロースショットが有名だけど、それがつながって見えるのは監督が細かい動作をコントロールしているからだ。
イマジナリーラインを超える瞬間に、新しいイマジナリーラインに切り替える「動作」をしている。
観客は動作を見ているので、混乱しない。

それでいて、視点が自由に変化するので、舞台となる「家」がリアリティを増し、生活感がじわじわと感じられてくるのだと思う。

僕の分類の仕方だと、ルイ・マル監督の「鬼火」、チャン・イーモウ監督の「紅夢」が同じ系統の演出なのではないかなと思います。
細かい動作をコントロールし、それが自然な動作になる「きっかけ」を緻密に計算して構成して演出しないと、これはできない。

小津安二郎監督はうまいなぁと

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