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ヤコブ 3:17 上からの知恵は、第一に清く

ἡ δὲ ἄνωθεν σοφία πρῶτον μὲν ἁγνή ἐστιν, ἔπειτα εἰρηνική, ἐπιεικής, εὐπειθής, μεστὴ ἐλέους καὶ καρπῶν ἀγαθῶν, ἀδιάκριτος, ἀνυπόκριτος.

(口語訳)しかし上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りがない。

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自分なりに訳してみると下記のような感じです。

ἡ δὲ ἄνωθεν σοφία πρῶτον μὲν ἁγνή ἐστιν,
しかし、上からの知恵は第一にまさに純粋であり、
ἔπειτα εἰρηνική, ἐπιεικής, εὐπειθής, μεστὴ ἐλέους καὶ καρπῶν ἀγαθῶν,
そうして平和で、優しく、求めに応じてくれて、慈悲とよい実に満ちて、
ἀδιάκριτος, ἀνυπόκριτος.
決め付けることがなく、偽善的でもない。

形容詞がズラズラと出てきます。
知恵は純粋であることが第一に挙げられてますが、ここまでの文脈のなかでそんなに純粋という言葉が出てきてないのに、ここに来て突然「純粋であること」が筆頭に来てますね。
純粋って何?
これまでの文脈だと、欲望や嫉妬や野心なんてものは、利害的な関心から行動しているのだって話であったので、まぁそういう動機が混じっていれば純粋ではないか。
ヤコブは、神は「惜しみなく与えてくれる」と言ってるけど、この惜しみなくというのは「ἁπλῶς 純真に」というような語ですが、これまでの文脈ではこれが一番近いかな。
あと「清く汚れのない信心とは…」(ヤコブ1:27)という表現があったけど、「καθαρὰ 清く」と「ἀμίαντος 汚れがない」という語なので、ちょっと違う。

全体的に、ヤコブにとっての神のイメージに近い。
こういうものは、神とはこういうものだ…と自分なりのイメージをもって、それを根拠に論じてゆくものなのかな。
ヤコブの善なる神は、キリスト教の神のイメージのなかでは、ちょっとズレた位置にある気がします。ヤコブの神は、どちらかというとすべてを与えてしまっていて、人間に余計な干渉をしない。人間のあるべき道は知恵によって示され、それは善であることが分かる。どちらかといえば、正しい道を歩んでいるか何度も自分を検証しながら進んでゆくという感じです。
でも、キリスト教の神のイメージは、どちらかというと信徒に対して決定的な干渉を行っており、信徒は義とされるのだと「決定」しているような存在として理解されているように見えます。
ヤコブは、そういう決定を受けたと意識している印象はなくって、むしろ何か道のなかばにあって先に進まねばならない、というような意識をもっている印象をうけます。ディダケーにあるような、命へいたる道のなかばにいますよ、という感じでしょうか。道は選択し、そこを進み始めてはいるけれど、とくにその道は何といって完成していないし、まだまだ善は検証され追及されねばならない。
神の知恵に従って生きてゆくということが、ヤコブとしてはひとつの課題としてあるということでしょうか。
ヤコブは律法遵守を中心に理解されますが、律法全体を守るように言ってはいるけど、実際に取り上げているのはイエスが重んじた隣人愛であるし、異邦人出身の信徒が律法全体がまもれないにしても遵守しようとする人々にケチをつけてこなければそれで良くて、基本的にはイエスの教えと神の知恵を同一視して、それに従って生きて、迫り来る終末の裁きに備えるべきだ、というのがヤコブさんの理解しているところかなと思います。

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