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善い存在

オリゲネスの本を読み始めています。
オリゲネスは「悪魔ですら救われうる」と論ずるなどによって、異端的であるとみなされたそうです。
解説からすると、「神は善い存在である」という理解がオリゲネスの思想の中心にあるようです。
神が善い存在であるならば、救う意思があるわけで、意思があるならば悪魔であっても救われることは可能だ…というようなことなのかなと。

ローマ書のなかでパウロは、9章あたりから似た問題で苦悩しています。
神が、イスラエルを救う気が無いならば、神は約束を反故にしている。
神の意図によってイスラエルの人々がかたくなになっているのに、なぜ神はそのことで人を責めるのかと(9:19)。
神は全能である。だから、救う意思があるならば救うことは可能である。救わないのは、救う意思がないからだ。
それでは、神が善い存在だといえなくなる。

 (ローマ 11:25-26 口語訳 一部)
 兄弟たちよ。あなたがたが知者だと自負することのないために、この奥義を知らないでいてもらいたくない。
 一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人が全部救われるに至る時までのことであって、
 こうして、イスラエル人は、すべて救われるであろう。

パウロは、神による選択という「恵み」を強調しながら、イスラエルがすべて救われるだろうと、ちょっと矛盾した話をしています。

これはキリスト教神学の特徴なのでしょうか。
「恵み」を強調すると、そこからこぼれ落ちた人々が出てきてしまう。そうなると神が善い存在であると言いにくい。

神が善い存在であると強調すると、みんなが救われることになってしまう。救われることが前提になると、「恵み」によって救われることのありがたさが失われる。
これはどちらかを選択するしかなさそうです。
まぁ、「恵み」の方を選択されるのでしょうけど。

「ヤコブの手紙」の著者は、おそらく「神は善い存在だ」という傾向が強い気がします。
神の選択について語られているのだけど、欲にしたがって悪事を働くことが裁きをまねくと考えている。
何も罪を犯していないのに、神が裁きに陥れる…というような「選択」はヤコブは意識してなさそうです。

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