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信/ピスティス

パウロの書簡にある「信/ピスティス」の問題についてのメモ。

口語訳・新共同訳で「キリストを信じる信仰」と訳される「ピスティス」は、必ずしも「人間がもつ」信仰を意味するわけではないそうです。
神が「信頼できる/誠実である/真実である」という意味で、神を主語に解釈することもできる。
このように解釈すべきだとされるのは(ローマ 1:17)です。

 【ローマ 1:17 前田訳】
 そこに、信仰から信仰へという神の義が示されています。
 聖書に、「信仰による義人は生きる」とあるとおりです。

前田訳だと、啓示されるものは「信仰から信仰へという神の義」です。
このように訳すと、「人間の信仰」が神の義として啓示されることになる。

この場合、「神の義」は「(信仰によって)神から義とされること」と解釈されているのだと思います。
これは信仰義認という新しい信仰が啓示されたのだという意味に解釈されるようですが、人間の信仰が啓示されるというのは奇妙な話です。

 【ローマ 1:17 口語訳】
 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。
 これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

口語訳だと神の義は「信仰に始ま」る。神の義が人間の信仰に依存し、そのなかに終始することになる。
人間の何を信仰したかによって、神の義を決定するというのはどうでしょう。

この問題は、ピスティスという語を「(人間の)信仰」と訳しているために生じる。
啓示の「内容」なので「信から」は、「神が信であることから/神が真実であることから」という意味である可能性がある。
「信仰」という訳語を避けて、ピスティスを「信」と訳している田川訳は下記のように訳されています。

 【ローマ 1:17 田川訳】
 何故なら神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。
 「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように。

「信から」が共通した表現なので、「信へ」は「生きる」と対応しているように見えます。
つまり、神の義は、生かす働きとして啓示されるのだ、と言っているようです。
生かす力は、律法に欠けていると論じられています。

 (ガラティア 3:21口語訳)
 では、律法は神の約束と相いれないものか。
 断じてそうではない。
 もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。

パウロが言う「信から信へ」が意味するものは、おそらく、「(約束に対して)神が真実であることから」つまりこれが「信から」、「(神の力によって)人を生かすことへ」つまり「信へ」と啓示されることのなかに「神の義」が現れる、ということかなと。
約束に対して「神が真実である/誠実である」ことに発して、神が人を生かすことでその約束が実現する。

 (ローマ 11:36)
 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。

というのは、たぶん同じことを言い替えたのではないかなと思います。

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