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2011年7月

いつから

史的イエスの研究書を読んだりすると、一体いつごろからイエスを神だと考えるようになったのだろうと不思議に思う。

いや、最初期には「神の子」であって、それも復活によって神の子とされたという認識だったのではないか、とか。
いや、ヨハネの洗礼を受けたあたりで神の子とされたのではないか、とか。
あるいは、先在のロゴスとか。
ならべると、徐々に神の子とされた時期がさかのぼって行ってるようでもある。

でも、同時に結構古い資料のなかに、すでにひょっこり神だと言われていたりもする。

【ローマ 9:5】
先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。
キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

史的イエスだけではない、神学的な流れが背景にあるってことなんでしょうけど。
聖書は、こちらが予測しているものを裏切って、意外なことを見せてくれる。

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アイドル

僕は聖書を読んではいますが、信者ではないです。
どういう心理で宗教に肩入れするのでしょう。

教会というものはイエス・キリストのカリスマ性に対するファンクラブみたいなものなのかな、と感じるときがあります。
僕はアイドルのファンになったこともないし、なかなかそういう心理が理解できないなぁと思ってましたが、この頃ちょっと「少女時代」にはまってきたので、そこからファン心理を分析します。
ファン心理と、宗教の護教的な発想との共通点など考えて見ます。

少女時代は脚線美を売りにした9人組の韓国系アイドル。
「GENIE」をテレビで見て「モデルみたいで格好よいなぁ」と思って見始めてます。
9人もいると誰が誰だか見分けがつかない。ダンスが揃っているところが格好よいという印象です。
「GENIE」のコーラスの途中なのにセンターが入れ替わるのが凄いよな。

9人もいれば、好みのタイプの子がひとりくらいはいるのであって、そのうち見分けがつくようになる。
同時にそんなに好みじゃないというか、このメンバーのなかではそんな美人じゃないかな…なんて思うのも居たりするわけですが、トータルに少女時代というグループを美しいと思っているので、「こんな綺麗なのがそろっているメンバーだと比較されて大変だろうな。がんばれー」と応援する心理になりますね。
これがアイドル教の護教論とでもいうべきものになるかなと思います。
アイドルを批判をさせない理屈を自分のなかに作り上げてしまうわけです。

アイドルなんてのは大抵じっくり見れば、そんなに美人じゃなかったりします。KARAの方が可愛いじゃないかとか。
でも、そういう批判にいろいろ理屈をつけて耳を貸さないところがファン心理だったりするわけです。
少女時代の場合は、たぶん美人であるかどうかより、美人オーラが出てるかどうかの方が重要な気がします。僕の見方では、そうだ、というだけですが。
youtubeにはダンスの練習動画なんかがアップされていて、そちらの方がPVよりもダンスの振り付け・フォーメーションがわかりやすい。
PVの方が顔のアップがあって顔はよく見えるわけです。
でも、ダンスの練習動画なんかを見るのが楽しいのは、たぶん美人オーラがすでにそこにあるから…それがどこから生まれるのかを見極めたくて見てしまうのだと思います。
こういう理屈をこねたくなるのが、つまり護教論ですね。

一般の人がダンスに挑戦して踊ったものもアップされてますね。
それを見て、うまくダンスしてるんだけど、やっぱり本物の方が凄いな…とか思ってたりします。
振り付けをしたダンサーの仲宗根梨乃さんの動画は流石に動きの切れが違いますね。
振り付けは日本人がやってたんですね。びっくり。

少女時代の「Gee」は可愛らしい曲ですが、日本語の歌詞とダンスがちょっと合っていません。
ダンスを見てると「彼って素敵なの どう思いを伝えたらいいのかしら」って感じの振り付けです。
「Gee」というのは、英語の「おや」ぐらいの言葉だそうです。「Gee、Gee…」というのは恋の相談に乗ってる友達の反応でしょうか。
でも、日本語の歌詞は「やめちゃえ いっそ ヤなことなんて 全速力回避せよ」と授業でもエスケープするような話になっている。
原曲の歌詞をベースにダンスが振付けられているので、ダンスとあわない部分はどうしても出てきます。
歌詞の翻訳する人は大変だろうなぁと思います。

日本語の歌詞とダンスとの間に違和感があるので、意味がわからなくても韓国語バージョンで見てることが多いです。
韓国語は何を言ってるのかわからないけど、歌詞の部分で違和感がない方が聞きやすい。
僕は韓流を嫌うタイプではないけど、ほぼ韓国やアジアに関心がなかったのですが、結構少女時代を聞いてる間に韓国語に興味をもってきました。

そうして韓国語バージョンで聞いてるうちに、日本語の歌詞で評価しなくなってるんですね。
「Run Devil Run」の日本語の歌詞があんまり好きでないわけです(「革命的制裁でぇ~♪」ってのがどうもいかん)。でも、曲は好きなので韓国語バージョンで良ければ(歌詞はわかんないけど)良しとするわけです。
これで歌詞がいまいちだ、という批判をスルーすることになります。これも一種のアイドル信仰を護るための論理となる。つまり、護教論ですね。
キリスト教でいえば、聖書のこう書いてるのが気にいらないと批判されると、ギリシャ語の原典では意味が違うんですと言い逃れるようなものです。

そうやってほぼ無意識に批判をかわす理屈を作り上げていることに、先日気づきました。
おぉこれがファン心理というやつか。
宗教の護教論も似たようなものかな、と思ったりしました。

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プロレス

宗教というものは怪しい。
どれぐらい怪しいかというとプロレスぐらいの怪しさだと思います。
世間のリアクションは「えッ、あんなの信じてんの?」というようなものです。

僕はどの宗教も信じてませんが、プロレスは結構好きです。

でもプロレスは、八百長疑惑がつきまとうものです。
たまに分かってない人が「プロレスは死ぬまで戦わないから八百長だ」と無茶を言いますが、格闘技をショーとして行なうのに死ぬまでやっていいわけない。
あくまでスポーツの範囲内でやるものです。

試合に勝つということも大事だけど、観客を満足させるということも大事だ。
大相撲の八百長は勝ち星が欲しいのかも知れないが、プロレスで八百長だと言われるのは「わざと試合を面白くしている」部分だと思う。
プロレス技を喰らっているときに、あんまりリアリティがないのだ。
その積み重ねで勝敗が決まるので、結局、勝敗についてもリアリティがないと見なされるわけです。

プロレスの試合は、スリーカウントフォールとギブアップなどで決まる。
スリーカウントというのが結構絶妙です。
相当攻め込まれても何とか返せるし、大したダメージがなくても隙を疲れると丸め技でスリーカウントを取られることもある。
一発逆転の試合がしやすいルールです。
ここにゲーム性があります。
基本的には強い方が勝つのだけど、スリーカウントフォールによってゲームを逆転させることができる。

一発逆転も、何度もやっているとその試合運びがパターンになってきます。
結局「出来すぎて胡散臭い試合」になってきます。

これにはいくつか原因が考えられます。
ひとつは試合数が多いということ。年間に何百試合もするとなると、同じメンバーでやる組み合わせが多くなるわけです。
昨日と今日でそう急激に実力アップするわけない。実力が大して変んないのですから、同じような試合になってしまう。
これを避けるのは難しい。
団体が大きくて、いろんな選手を抱えていれば色々なマッチメイクもできるでしょうけど、そんなに選手がばかりが多くても、客が選手をみんな覚えてくれるとは限らない。スター性がないと集客にはならない。
格闘技系の団体は、鋭角打撃ありで負傷も多くなるけど、その分年間の試合数を減らして興行しているケースが多い。それで客がついてくるならば良いのでしょう。
でも興行回数が少なくなれば、チケットが高くなる。高い金に見合った有名選手の対決を中心にしたドリームマッチにするのはいいけど、若手を育てていくという面が難しいのではないかなと。高いチケットで誰も知らない若手同士の試合などを見に来てもらえるならばうまく行きそうですが、難しいかなと。若手をしっかり育てながら興行を続けるとなると難しくなります。

プロレスのルールだと、鋭角打撃はない。
ノックアウトするような打撃ではないけど、全身をぶつけるような技でダメージを与える。
プロレスラーは打たれ強いし、スリーカウントフォールのルールだと少々相手の技を受けても逆転はできる。
「プロレスは膠着を嫌う」
「リングを大きく使って飛び跳ねるような技の方が見栄えが良い」
「技を受けてはね返す方が試合として面白い」
ということがプロレスの試合の運び方を決定してゆく。
つまり、相手の大技を引き出し、受けながら、逆転の大技で勝つというものですね。

これがまた八百長臭くなるわけです。つまり、相手の大技を「わざと」引き出す。

あと、プロレスらしさが出るのはタッグマッチですね。
プロレスらしい大技をどんどんぶち込んで、苦しくなったらパートナーにスイッチできる。試合のテンポが速く、激しい試合ができる。
そのなかでタッグの特性を生かして、うまく試合を運んで二対一で闘うわけです。
二対一の形だと、わりとあっけなく勝てるのではないかと思う。これは一発逆転が可能だということです。ここにまたゲーム性がある。

あと、技をかけるときのリングの位置ね。
これが重要だと思う。
ジャンボ鶴田と長州力の試合で、鶴田はわざと倒れてサソリ固めを「かけさせる」。
しかし、鶴田はわざとロープぎわに倒れる。手を伸ばせばロープに手が届くように倒れる。
長州はサソリに入るときに、ロープから引き離そうと、鶴田をリング中央に押し込むようにポジションを変えようとする。
たぶん鶴田の狙いはそこにある。そこで長州を疲れさせることなんだな。
リング中央に位置を変えられたあたりで鶴田は長州を振り払って技をかわしてしまう。長州は技を十分かけることができず、スタミナを失ってゆく。

さらに、鶴田は四の字固めを長州にかける。四の字をかけるときは、相手(長州)がリング中央で鶴田は頭の上に手を伸ばすとロープをつかむことができる位置でかける。
長州はかなり粘って、四の字固めが崩れてしまう。でも、それも鶴田の計算に入っている。
長州は四の字から逃れると、跳ね起きてサソリ固めを仕掛ける。でも、またポジションが悪い。鶴田の頭の上にロープがある。
長州はまたサソリをかけるために鶴田のポジションを変えようとする。鶴田はそれを手こずらせて、スタミナを奪ってゆく。

技を喰らって倒れるときにもプロレスラーは、リング上の位置を計算している。
それを見てないと、プロレスラーの勝負が見えない。

勝負はしているのだけど、面白くもしている。だから、まぁ八百長説はつきまとう。

プロレスについては上記のように考えてます。

宗教については単に「怪しい」と思ってます。そこは信者ではないのでね。そんなもんです。

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信/ピスティス

パウロの書簡にある「信/ピスティス」の問題についてのメモ。

口語訳・新共同訳で「キリストを信じる信仰」と訳される「ピスティス」は、必ずしも「人間がもつ」信仰を意味するわけではないそうです。
神が「信頼できる/誠実である/真実である」という意味で、神を主語に解釈することもできる。
このように解釈すべきだとされるのは(ローマ 1:17)です。

 【ローマ 1:17 前田訳】
 そこに、信仰から信仰へという神の義が示されています。
 聖書に、「信仰による義人は生きる」とあるとおりです。

前田訳だと、啓示されるものは「信仰から信仰へという神の義」です。
このように訳すと、「人間の信仰」が神の義として啓示されることになる。

この場合、「神の義」は「(信仰によって)神から義とされること」と解釈されているのだと思います。
これは信仰義認という新しい信仰が啓示されたのだという意味に解釈されるようですが、人間の信仰が啓示されるというのは奇妙な話です。

 【ローマ 1:17 口語訳】
 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。
 これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

口語訳だと神の義は「信仰に始ま」る。神の義が人間の信仰に依存し、そのなかに終始することになる。
人間の何を信仰したかによって、神の義を決定するというのはどうでしょう。

この問題は、ピスティスという語を「(人間の)信仰」と訳しているために生じる。
啓示の「内容」なので「信から」は、「神が信であることから/神が真実であることから」という意味である可能性がある。
「信仰」という訳語を避けて、ピスティスを「信」と訳している田川訳は下記のように訳されています。

 【ローマ 1:17 田川訳】
 何故なら神の義はその中で、信から信へと啓示されるからである。
 「義人は信から生きるであろう」と書いてあるように。

「信から」が共通した表現なので、「信へ」は「生きる」と対応しているように見えます。
つまり、神の義は、生かす働きとして啓示されるのだ、と言っているようです。
生かす力は、律法に欠けていると論じられています。

 (ガラティア 3:21口語訳)
 では、律法は神の約束と相いれないものか。
 断じてそうではない。
 もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現されたであろう。

パウロが言う「信から信へ」が意味するものは、おそらく、「(約束に対して)神が真実であることから」つまりこれが「信から」、「(神の力によって)人を生かすことへ」つまり「信へ」と啓示されることのなかに「神の義」が現れる、ということかなと。
約束に対して「神が真実である/誠実である」ことに発して、神が人を生かすことでその約束が実現する。

 (ローマ 11:36)
 万物は、神からいで、神によって成り、神に帰するのである。

というのは、たぶん同じことを言い替えたのではないかなと思います。

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ヤコブ 3:9-10 神にかたどって造られた人間をのろっている

【口語訳】
3:9わたしたちは、この舌で父なる主をさんびし、また、その同じ舌で、神にかたどって造られた人間をのろっている。
3:10同じ口から、さんびとのろいとが出て来る。わたしの兄弟たちよ。このような事は、あるべきでない。

ἐν αὐτῇ εὐλογοῦμεν τὸν κύριον καὶ πατέρα
そこにおいて父なる主を賛美し、
καὶ ἐν αὐτῇ καταρώμεθα τοὺς ἀνθρώπους τοὺς καθ’ ὁμοίωσιν θεοῦ γεγονότας,
またそこにおいて神の似姿に創られた人を呪う、
ἐκ τοῦ αὐτοῦ στόματος ἐξέρχεται εὐλογία καὶ κατάρα.
同じ口から賛美と呪いが出る。
οὐ χρή, ἀδελφοί μου, ταῦτα οὗτως γίνεσθαι.
私の兄弟たちよ、このようなことがあるべきではない。


なぜ同じ口から賛美と呪いが出てはいけないのでしょう。ただ、呪いの言葉を発するなと言えば良さそうなものです。
なので、非信者からすると、この説明の仕方はピンと来ない。
ですが、このように説明であれば、「あの連中は罵るべきだ、なぜなら奴らは神の教えを曲げる神の敵だからだ」と熱くなってしまっている信徒を制することができます。
賛美と呪いが同じ口から出るようなことは、あるべきではない。
これでみんな罵倒しにくくなる。
それでも罵倒しようとする者には、あなたはご自身を舌を制することができる完全者だとでも思っているのか、と突っ込む。
「人の怒りは、神の義を全うするものではない」(ヤコブ 1:20)と突っ込むのも良いな。
これで頭に血がのぼっている信徒を落ち着かせる。

相手を神の敵であると設定して呪うことを正当化していたりすると、「悪口言っちゃ駄目だよ」と言っても聞かない。
怒りというものは、それが正当に思えるからこそ取り憑かれる。正しい怒りだと思っているからこそ、呪うべきではないというルールを破ってよいように思える。こういう正義感はバランスを失いやすい。
冷静に考えれば火急の問題でもなく、罵るほど大した問題でもないのに「○○だけは許せない」とムキになったりする。
「○○だけは…」という時に、モラルの偏りがあるんだよね。ほかは許しているんだから。
こういう人は自分を冷静に見つめるべきだ。「○○だけは許せない」と偏った正義を求める裏側には、自分の罪を逃れさせるための言い訳が隠れているものです。
偏った正義を求める人は、倒錯した欲望を批判からそらすために「○○だけは許せない」などと言ってる…ように僕には見えることがよくあります。

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