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2011年6月

マタイ 28:18の宣教命令

他所(mixi)で話題になっていた部分の考察のためのメモ。

マタイ 28:18の宣教命令について、なぜイエスに権威が与えられることが根拠になって「だから οὖν」宣教せよ、という命令につながるのか。
ヨハネ 17:2では、神が「肉の権威」を与えたのは、それを受けた者がすべて(=永遠の命)を与えるためであると説明されている。

ヨハネ 17:2
καθὼς ἔδωκας αὐτῷ ἐξουσίαν πάσης σαρκός,
あなたが全ての肉の権威を与えたように、
ἵνα πᾶν ὃ δέδωκας αὐτῷ δώσει αὐτοῖς ζωὴν αἰώνιον.
彼は、あなたが与えた全てを、永遠の命を、彼らに与えるであろうために。

イエスが復活したことと、信徒が永遠の命を得られることは、どのようにつながっているのか。
パウロは、イエスをキリストと信じることによって神から義とされると説いたけど、その根拠は何なのか。
パウロ以前にも、イエスの教えを信じることで、神の国に入れることを信じていたようです。
彼らはどのように信じていたのか。
イエスの復活を起点にして、永遠の命が信徒にも与えられるということは、つまり、イエスに与えられた神との関係に加えてもらえるのだという意味に解されていたところがあるのかなと思えます。
そのうち、神学が発展して、イエスがひとり子と理解され、そうなると神とイエスの関係にそのまま参加させてもらうという話に違和感が出てきたのかなと。
でも、最初期はそのような理解がされていたのではないかなと感じます。

で、たぶん、マタイも同じような伝承を持っていたのではないかなと。
「肉の権威」は、グノーシス的な意味で、この世の万物に対する権威ぐらいの意味でしょうか。
マタイは、イエスがただこの世の権威をもっているのではなくて、天においても権威者だといいたくなったのかなと。
でも、その権威を一般信徒に渡してしまうというのは、どうも変な感じがするのでマタイはそのあたりを飛ばして伝えている気がします。
なので、宣教命令の根拠がいまひとつ理解できないのかなと。

マタイ 28:18
ἐδόθη μοι πᾶσα ἐξουσία ἐν οὐρανῷ καὶ ἐπὶ τῆς γῆς.
天においてまた地の上で全ての権威は私に与えられた。
πορευθέντες οὖν (μαθητεύσατε πάντα τὰ ἔθνη),
それゆえに、行って、諸国でみんなを弟子にしなさい、
βαπτίζοντες αὐτοὺς εἰς τὸ ὄνομα τοῦ πατρὸς καὶ τοῦ υἱοῦ καὶ τοῦ ἁγίου πνεύματος,
父と子と聖霊の名によって洗礼し、
διδάσκοντες αὐτοὺς τηρεῖν πάντα ὅσα ἐνετειλάμην ὑμῖν·
命じておいたことをすべて守るように教えることで。
καὶ ἰδοὺ ἐγὼ μεθ’ ὑμῶν εἰμι πάσας τὰς ἡμέρας ἕως τῆς συντελείας τοῦ αἰῶνος.
そして見よ、時代の最後の日までも、私はあなた方とともにいる。

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ヤコブ 3:8 舌を制しうる人は、ひとりもいない

τὴν δὲ γλῶσσαν οὐδεῖς δαμάσαι δύναται ἀνθρώπων, ακατάστατον κακόν, μεστὴ ἰοῦ θανατηφόρου.

(口語訳)ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。

τὴν δὲ γλῶσσαν οὐδεῖς δαμάσαι δύναται ἀνθρώπων,
しかし、舌は、人が飼いならすことのできない、
ακατάστατον κακόν,
止むことのない悪(であり)、
μεστὴ ἰοῦ θανατηφόρου.
死の毒を満たしている。


「止むことがない」という語は、(ヤコブ 1:8)で出てきます。
二心の者は何事も「不安定/止まることがない」であるという部分です。
あとは、「死の毒を満たしている」のところ、満たしているという語は「舌」にかかる形容詞なんですね。
なので、「毒が死を満たしてる」のではなくて、「舌は、死の毒を満たしている」という意味になるようです。

制御することができない舌に振り回されて、悪を犯すということですね。
「二心」と「舌」に同じ形容詞を使っているのは、ヤコブのなかでこれはある程度つながった問題なのだと思います。
「舌を制御できないままにしている」その状態が「二心」である、と考えるべきかと。

ヤコブが1章の序盤(1:5-7)で語っているのは、神が一貫して善い存在であり、それを信頼して神に(知恵を)求めなさいということかと。
神が悪意をもっているなどと疑うものは、二心の者であり、つまり舌の悪に振り回されているのだと。
そのような者に(知恵が)与えられるわけではない、ということではないかと思います。

ネット上で見かける理解は、大抵もっと「信仰重視」な説明です。
つまり、神を「信仰すれば」与えられるのだと。
でも、そういう意味で信仰しろとばかり言ってるニュアンスではない気がします。
「神はただひとりであると信じているのか。それは結構である」(ヤコブ 2:19)という皮肉な調子からして、信じているぐらいは当たり前であって、そこを重視しているわけではないかと。
疑わないのは「一貫して善い存在である」ことだと思う。この点はかなり強調されている。
天が回転して翳ることがあっても、神は変化することはない。神は誘惑することはないし、悪から誘惑されることもない。このことを「疑わない」ようにと言っていると思います。
これは、神が何をやっても正しいのだという意味ではない。そういう何が何でも信じ込めという話ではない。
聖書を読んでいると、神が人間を試みたりしているじゃないかと思うけど、不思議とヤコブはそんな話は無視している(たとえば「イサクの燔祭」で神が試みたことは無視されている)。
ヤコブが問題にしている悪は、人間の欲によって引き起こされ、貧しいものを踏みにじる行為です。神は必要なものを与えているのに、人間が惜しんで分け与えないのだとヤコブは言ってるわけです。
人間と違って、神は「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える」のだと。
それを「疑わない」で信頼して求めるということの意味は、神が惜しまない方であるという点にかかっていると思います。

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