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ヤコブ 3:8 舌を制しうる人は、ひとりもいない

τὴν δὲ γλῶσσαν οὐδεῖς δαμάσαι δύναται ἀνθρώπων, ακατάστατον κακόν, μεστὴ ἰοῦ θανατηφόρου.

(口語訳)ところが、舌を制しうる人は、ひとりもいない。それは、制しにくい悪であって、死の毒に満ちている。

τὴν δὲ γλῶσσαν οὐδεῖς δαμάσαι δύναται ἀνθρώπων,
しかし、舌は、人が飼いならすことのできない、
ακατάστατον κακόν,
止むことのない悪(であり)、
μεστὴ ἰοῦ θανατηφόρου.
死の毒を満たしている。


「止むことがない」という語は、(ヤコブ 1:8)で出てきます。
二心の者は何事も「不安定/止まることがない」であるという部分です。
あとは、「死の毒を満たしている」のところ、満たしているという語は「舌」にかかる形容詞なんですね。
なので、「毒が死を満たしてる」のではなくて、「舌は、死の毒を満たしている」という意味になるようです。

制御することができない舌に振り回されて、悪を犯すということですね。
「二心」と「舌」に同じ形容詞を使っているのは、ヤコブのなかでこれはある程度つながった問題なのだと思います。
「舌を制御できないままにしている」その状態が「二心」である、と考えるべきかと。

ヤコブが1章の序盤(1:5-7)で語っているのは、神が一貫して善い存在であり、それを信頼して神に(知恵を)求めなさいということかと。
神が悪意をもっているなどと疑うものは、二心の者であり、つまり舌の悪に振り回されているのだと。
そのような者に(知恵が)与えられるわけではない、ということではないかと思います。

ネット上で見かける理解は、大抵もっと「信仰重視」な説明です。
つまり、神を「信仰すれば」与えられるのだと。
でも、そういう意味で信仰しろとばかり言ってるニュアンスではない気がします。
「神はただひとりであると信じているのか。それは結構である」(ヤコブ 2:19)という皮肉な調子からして、信じているぐらいは当たり前であって、そこを重視しているわけではないかと。
疑わないのは「一貫して善い存在である」ことだと思う。この点はかなり強調されている。
天が回転して翳ることがあっても、神は変化することはない。神は誘惑することはないし、悪から誘惑されることもない。このことを「疑わない」ようにと言っていると思います。
これは、神が何をやっても正しいのだという意味ではない。そういう何が何でも信じ込めという話ではない。
聖書を読んでいると、神が人間を試みたりしているじゃないかと思うけど、不思議とヤコブはそんな話は無視している(たとえば「イサクの燔祭」で神が試みたことは無視されている)。
ヤコブが問題にしている悪は、人間の欲によって引き起こされ、貧しいものを踏みにじる行為です。神は必要なものを与えているのに、人間が惜しんで分け与えないのだとヤコブは言ってるわけです。
人間と違って、神は「とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える」のだと。
それを「疑わない」で信頼して求めるということの意味は、神が惜しまない方であるという点にかかっていると思います。

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