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ナザレのイエス

『ナザレのイエス』ボルンカム
イスラエルの生活の拠りどころである律法(トーラー)も、彼らの本性とか倫理観の総括とはまったく異なったものに基づいている。この律法は、彼らのなかに眠っている感情や世観の表現でも、彼らの民族性や人生経験や形而上学的組織化でもなく、またはギリシア的現代的な考え方によって言い表わされるものとも異なる。むしろこの律法は、イスラエルに対する神の権威ある意思表示であって、イスラエル自身の願望や意思にさからって、雷鳴や稲妻をともなって与えられたものである。

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上記はボルンカムの『ナザレのイエス』からの引用です(p45~)。
聖書を読んでいると、それが倫理をまとめたものだと思って読んでしまう。
でも、読んでいるとそういうものとは違った読みごたえです。では、聖書とは何なのか、というと上手く答えられない。
そうしてもやもやした気分が残るわけです。

上記のボルンカムの一節は僕のもやもやを解消してくれます。
聖書は、神の権威ある意思表示である、というのは巧いまとめかたです。
しかも、それは民の意思に逆らって、民を圧倒し、民に権威を見せつけてくる存在です。

僕なんかはどうしても、個人的な罪とか罰などに結び付けて考えてしまいます。
でも、やっぱり「民」という単位で考えられている印象です。
苦境に陥ったときに、その個人の罪を問題にするのか、「民」の問題として理解されるのか、ではまるで意味が違います。
だから、(個人の)倫理だと考えてしまうとちょっとズレる気がする。
倫理観の総括などではない。

ボルンカムの「神の権威ある意思表示」という説明がとくに感心します。
詩篇29では、ヤハウェは天上の海のうえで雷鳴を響かせ、大地をゆるがす。
これは怒りの表現でもなくて、ただ人間や動物たち、また森の木々や大地まで圧倒する姿を描く形で、神を賛美しているわけですが。
いわば、自然が人間を圧倒しているような、人間が自然の支配者ではく、また人間自身の支配者ですらないことを見せつけられるわけです。
聖書の基本的なトーンはそのような畏怖の感情ではないかと思います。

それがいわば神の権威ある意思表示として描かれている。
それらを、神のものを神に帰し、祈り、賛美するなかで形作られて聖書になっている、という感じでしょうか。

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