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2011年3月

ナザレのイエス

『ナザレのイエス』ボルンカム
イスラエルの生活の拠りどころである律法(トーラー)も、彼らの本性とか倫理観の総括とはまったく異なったものに基づいている。この律法は、彼らのなかに眠っている感情や世観の表現でも、彼らの民族性や人生経験や形而上学的組織化でもなく、またはギリシア的現代的な考え方によって言い表わされるものとも異なる。むしろこの律法は、イスラエルに対する神の権威ある意思表示であって、イスラエル自身の願望や意思にさからって、雷鳴や稲妻をともなって与えられたものである。

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上記はボルンカムの『ナザレのイエス』からの引用です(p45~)。
聖書を読んでいると、それが倫理をまとめたものだと思って読んでしまう。
でも、読んでいるとそういうものとは違った読みごたえです。では、聖書とは何なのか、というと上手く答えられない。
そうしてもやもやした気分が残るわけです。

上記のボルンカムの一節は僕のもやもやを解消してくれます。
聖書は、神の権威ある意思表示である、というのは巧いまとめかたです。
しかも、それは民の意思に逆らって、民を圧倒し、民に権威を見せつけてくる存在です。

僕なんかはどうしても、個人的な罪とか罰などに結び付けて考えてしまいます。
でも、やっぱり「民」という単位で考えられている印象です。
苦境に陥ったときに、その個人の罪を問題にするのか、「民」の問題として理解されるのか、ではまるで意味が違います。
だから、(個人の)倫理だと考えてしまうとちょっとズレる気がする。
倫理観の総括などではない。

ボルンカムの「神の権威ある意思表示」という説明がとくに感心します。
詩篇29では、ヤハウェは天上の海のうえで雷鳴を響かせ、大地をゆるがす。
これは怒りの表現でもなくて、ただ人間や動物たち、また森の木々や大地まで圧倒する姿を描く形で、神を賛美しているわけですが。
いわば、自然が人間を圧倒しているような、人間が自然の支配者ではく、また人間自身の支配者ですらないことを見せつけられるわけです。
聖書の基本的なトーンはそのような畏怖の感情ではないかと思います。

それがいわば神の権威ある意思表示として描かれている。
それらを、神のものを神に帰し、祈り、賛美するなかで形作られて聖書になっている、という感じでしょうか。

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人の霊を妬む神

前に大貫隆著『グノーシス「妬み」の政治学』を読んだけど、まだどういうものがグノーシスなのかまだよく分かってません。
少し先の部分ですがヤコブの手紙を読んでいて気になる表現があったのですが、下記の表現はグノーシス神話に関連しているのでしょうか。

 (ヤコブ 4:5 口語訳)
 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。

このとおりの言葉は聖書には見当たりません。
当時はまだ正典が定まってなかったので、当時流布していたテキストに基づいているようです。

神が人間のなかにある霊を「ねたむ」というのは、大貫氏の本に書かれているグノーシス神話の通りに見えます。
その対応関係が分かりやすいかなと思うところを、下記のサイトからを引用します。

 「ヨハネのアポクリュフォン」
 http://www1.ocn.ne.jp/~koinonia/gnosis/johnapocryphon.htm

 >さてアルコーンたちは、ヤルダバオートに、
 >「(彼らがこしらえた)人間の自然な体の中にあなたの息を吹き込むなら、それは立ち上がるでしょう」と勧めた。
 >そこで、彼は、母からの力をその人間の内へ吹き込んだ。
 >彼は無知だったから、自分の力が抜き取られることを知らなかったのである。
 >すなわち、ヤルダバオートは、母と母=父の策略にかかって、知らずに天から遣わされた光を人間に吹き込んだのである

グノーシスの神話の創造神ヤルダバオートは、ヤハウェに対応しています。
『私はねたむ神である。わたしのほかに神はいない』というセリフもヤルダバオートは語ります。
ヤルダバオートはうっかり光を人間に吹き込んで力を抜き取られ、光を得た人間をねたんで、あれこれ行なうというというのが神話の大筋です。
このグノーシス神話では、創造神は人間をねたんでます。
自分で吹き込んだ、人間のなかにある「光」をねたみます。

ヤコブの手紙の「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむ」と言ってますが、「霊」と「光」という語を入れ替えればほぼグノーシス神話と同じことを言ってるようです。
これはグノーシスの神話に関係あるのでしょうか。

旧約聖書のなかにも「私は妬む神」とヤハウェが言っているところはあります。

 (出エジ 34:14 口語訳)
 あなたは他の神を拝んではならない。
 主はその名を『ねたみ』と言って、ねたむ神だからである。

ヤハウェが妬むのは、人間ではありません。ほかの神を妬むわけです。べつに人間がもっている「霊/光」を妬んでいるわけではない。
旧約聖書の表現では、ヤコブが言っていることはぴったりきません。

ヤコブがグノーシス的な神話を前提していたとしても、まぁたぶんヤコブがグノーシスにはまっていたということでもないかと思います。
ヤコブが議論している相手の方が、グノーシス的な傾向をもっていたのかな。
グノーシスは二元論をとっています。朽ちることのない「霊」と朽ち果てる「肉」。これに善悪が対応しています。

 (ヤコブ 3:15)
 そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。

ヤコブさんは、事態を混乱させるような「知恵」は肉に属するものだとしています。
この論法は、グノーシス的な論敵を説得しているのではないでしょうか。
(ヤコブ 1:5)では、「知恵に欠けた者」に対して、知恵を「惜しみなくすべての人に与える神」に求めるがよいと言ってます。
グノーシスの神は妬んで、惜しみます。
でも、ヤコブは、神は妬むけど、惜しまないと語ります。
星々のような回転やかげりもなく、一貫してよい物を与えてくれるのだと論じてます(1:17)。
だから、人間の間に争いがあるとすれば、それは人間の側の問題なのであり、舌にまかせて大言壮語していたり、罵倒したりして悪にとらわれているのだ、と断ずることができる。

ヤコブさんはこうやって半分グノーシス的な設定を認めているようですが、ここぞというところで反撃しているようです。
そうやって理解しあえる部分を確認しておいて、相手が認めている価値あるものを「壊すべきではないですよね」と相手を説得している感じでしょうか。

ヤコブは相手をたんに排除したいわけではなく、相手を説得し、混乱を円満に解決しようとしています。
相手を排除したければ、相手の話に一切同意しないという方法をとるかも知れませんが、そうではない。

でも、ヤコブの論敵が、どう議論していたのかはっきりしないので、状況を創造するのが難しいなぁ。

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