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ハナ・アーレント『全体主義の起原 3』を読んだ

「全体主義の起原 3」から読み始めました。「1」「2」は後回し。

まだザックリと読んだだけですが、うーむ。どうも煙に巻かれた気分になる本です。
『全体主義という現象はその要素や起源からはあまり説明がつかない』(p270)と書いてますしね。まぁそのままの印象です。

専制と全体主義が往々にして混同されているので、本書はこの違いを論じているところが多い。
でも終盤になってモンテスキューが君主制、共和制、専制の特徴を論じたものを引いて、モンテスキュー的な表現で全体主義を表現しようとしているのだが、あんまり成功してない。そのためか後半になって全体主義の輪郭が曖昧になってゆく印象があります。

間違っているかも知れませんが、乱暴に要約すると、全体主義が台頭してきた時代の意識は次のようなものだったようです。
それまで人々は自分の属する階級に組み込まれ、利害関係はその階級を代表する政党によって調整されていた。
しかし階級社会が崩壊して、根無し草的な『大衆』となった人々は、政治的にはどの政党にも組み込まれなくなった。
従来の政党やモラルは偽善的であると見られるようになっていた。
そのような時代に、全体主義のプロパガンダは魅力的に見えたのだ。
世論が触れたがらないことを敢えてアジテーションに盛り込んで、差別的で暴力的なアピールをする姿は、従来の偽善的なモラルに拘束されない力強さの表現となった。
だが、そのプロパガンダの内容は荒唐無稽な陰謀説の類である。
それでも彼らは、政府が否定し隠し立てするものは真実であるに違いないと信じてしまった。

虚構を信じ込んでしまう人々だけではない、虚構であると「見抜いた」人々はその「嘘」の裏に戦略を感じとりさらに指導者を信頼した。
こうして「見え透いた嘘」が信頼されてゆく。
このあたりの全体主義の初期プロパガンダに流される人々の心理の考察は面白かった。

全体主義が実権を握るとまた事態が一変する。
プロパガンダは必要なくなる。かわりに暴力によって支配できるからだ。
あっという間に「敵」は一掃される。
しかし、そこから全体主義の支配の本質が現れてくる。
すでに敵は存在しないにも関わらず、「敵」として人々は告発され、実際には何の罪も犯していないのに次々粛清されてゆく。
いや、初めから「敵」とされ殺された人々もとくに罪を犯したわけではない。
初めから全部虚構なのである。
全体主義が続くかぎり「敵」との闘いは続く。
ひょっこりと自分が「敵」にされたりする。全体主義が続く限りはそのような抹殺が続くのだ。

これにブレーキが掛けられないのは全体主義において「意見」が排除されるためである。
これは「見え透いた嘘」を信頼すること、その絶対的な信頼のために「意見」が排され、指導に従ってただ行動するように組織された結果である。
このシンパの組織の仕方などの考察も面白かった。

終盤のまとまりがないような気がしてモヤモヤ感は残ったけど、全体的には面白い考察が読める本だなとこうしてメモをとってると思えてきました。

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