« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »

2011年1月

言葉のリズム

このブログに書く前に、3章はあらかじめ単語の意味を調べておいて、何度も読んでおこうと思う。
ギリシャ語聖書をコピーしたものを通勤電車のなかで読む。
1-2章も何度も読んでます。
頭のなかで自分で自分に調べた内容を解説するようにしてます。
「この単語はこういう意味で、語尾がこう変化しているから何人称で、時制は何で…」という風におさらいしてゆくと、ちゃんと覚えてないところが良く分かります。
あれ…分かんないなぁと思ったら鞄から本を出してちょっと調べます。…調べると言っても、フツーはもう暗記できてて当たり前な変化のパターンをまだ確認したりするだけだったりします。
覚えられないんだなぁ。

読んでると文章のリズムが気になってきます。
ギリシャ語にはリズムがあるようなんですが、ちょっとピンとこない。
『日曜はダメよ』は歌詞を読むだけで「トン・タタ・トン・タタ」のようなリズムがありますね。
ヤコブの手紙は、そんなにリズムはなさそう。

外国語の詩でも美しさを感じたりするモノなんだろうか。
歌の歌詞で思い出すのはHR/HMばかりで、好きなんだけど「美しい」かというと微妙な歌詞です。
韻を踏んだりする歌詞だと、日本語でもこの頃はラップのイメージが強いか。
でも、ラップで韻を踏んでいるからと言って「美しい」と感じているわけでもないんだけど。

シェイクスピアのソネットってどんなものでしょう。
youtubeに朗読がアップされているので、色々聴いてみた。
詩は18番が有名みたいだけど、これはなかなか良い朗読がみつけられない。
女の子の朗読が多いけど、みんな何か読み方が軽い。さらっと読めるところも、抑えて読まないと感じがでないみたい。

SONNET 130 はこれが良いみたい。
Alan Rickman が朗読している。映画では悪役のイメージが強いか。
ほどよく抑えて軽すぎない。

SONNET 130
My mistress' eyes are nothing like the sun;
Coral is far more red than her lips' red;
If snow be white, why then her breasts are dun;
If hairs be wires, black wires grow on her head.
I have seen roses damask'd, red and white,
But no such roses see I in her cheeks;
And in some perfumes is there more delight
Than in the breath that from my mistress reeks.
I love to hear her speak, yet well I know
That music hath a far more pleasing sound;
I grant I never saw a goddess go;
My mistress, when she walks, treads on the ground:
And yet, by heaven, I think my love as rare
As any she belied with false compare.

あと SONNET 29 は歌詞につられて重苦しく朗読すると何だか違ってくる。
Rufus Wainwright は歌にしているけど、重い歌詞を軽く歌っているので聴きやすいようです。

When, in disgrace with fortune and men's eyes,
I all alone beweep my outcast state
And trouble deaf heaven with my bootless cries
And look upon myself and curse my fate,
Wishing me like to one more rich in hope,
Featured like him, like him with friends possess'd,
Desiring this man's art and that man's scope,
With what I most enjoy contented least;
Yet in these thoughts myself almost despising,
Haply I think on thee, and then my state,
Like to the lark at break of day arising
From sullen earth, sings hymns at heaven's gate;
For thy sweet love remember'd such wealth brings
That then I scorn to change my state with kings.

いくつか聴いて見て思いましたが、外国語でも、何となく詩の良さは感じるようです。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

大貫隆著『グノーシス 「妬み」の政治学』を読んだ。

大貫隆著『グノーシス 「妬み」の政治学』を読んだ。

久しぶりに刺激的な本だった。
何といてもマックス・ウェーバーを批判していて、ブルトマンにも触れている。それがとても美味しい。

グノーシスの神話はゴチャゴチャしていてどうも理解しづらいのですが、「妬み」という切り口で見ると、そこで問題にされていたものが見えてくるようです。
聖書学の本ばかり漁ってますが、ほかの古典とどうも接点が見つけられなかったので、広がりがなかったのですが、この本でその当時の周辺世界のつながり方が見えてきた感じです。フィロンなど同時代の哲学者や、そこからプラトンあたりへつながっていく道が見えた気がます。
僕はヤコブの手紙を読んでますが、「妬み」についてヤコブも語ってますし、ちょっとグノーシスとの関連を疑っている表現もあります(ヤコブ 4:5あたり)。ヤコブの手紙も、パウロ神学との関係だけで読むと煮詰まってしまうので、どこか別の切り口が欲しいなぁと感じてたところでした。「妬み」をどうヤコブがとらえているのかチビチビ読んでいこう。

マックス・ウェーバーは聖書学の専門家ではないけど、結構聖書学に影響を与えている。
旧約の研究者のG・フォン・ラートやM・ノートの学説に影響を与えていたりする。大貫氏自身も本書のあとがきのなかでウェーバーの『古代ユダヤ教』に「すっかり魅了され」たと書いている。
素人の僕なんかだと、まぁただただ圧倒されながら読むわけですが、さすがプロの人たちは研究成果から先人をきっちり批判します。
そういうのは格好良いです。
ウェーバーの影響は、グノーシス論についても大きい。大貫氏はウェーバーの論の中にねじれを見出だし、批判してます。

さらにブルトマンについては『ヨハネ福音書』の注解の序文を大貫氏が書いてますが、ほぼその内容を下敷きにしてるみたい。
ウェーバーと同じく、グノーシスを考察する際の考察にねじれが生じているという点ですね。
いくつかの点についてはすでにブルトマンの説は覆されているそうです。
ブルトマンの説についてあっているか、間違っているか、という話はまぁともかく。大貫氏の本の面白いところは、ざっくりとでもブルトマンの方法を辿ってくれるところだと思います。
ブルトマンとウェーバーについて、「宗教史学派」の系譜につながるものとして解説されている。

聖書学関係の本を買って、読んだけど、知識不足でまるで理解出来てないところがまだまだある。
ブルトマンの『ヨハネ福音書』の注解も、買っているけど、ちゃんと読んでない。勿体ない。
でも、今回ちょっとグノーシスのイメージができたので、読み直してみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブの手紙 2章の雑感

2章はヤコブの手紙のなかでも重要な章ですね。ヤコブさんの主張が詰まっています。

ヤコブさんの教会は何かゴタついている。たぶん原因はパウロ神学に影響された裕福な信徒が、教師のように偉そうに言って貧しい信徒を馬鹿にしていることにあるのだと思います。
パウロ神学に影響されて、ユダヤの神は異邦人の神でもある。神は唯一だ。しかし、律法の行いによって義とされないのだと説教していたのでしょう。
ひょっとすると「ユダヤ系キリスト教徒」が律法を遵守しようとしていると、「律法に頼るならばその者はキリストから離れている」などと批判していたかも。

それに対するヤコブの反論は鋭い。
「神は唯一だと信じている、それは結構なことだ」と、まず皮肉なトーンで相手の主張を捌いていく。
「もしあなた方が『隣人を自分のように愛せよ』という律法を実行しているなら、結構なことだ」だが、律法全部まもっても、一つ落ち度があるなら…隣人を愛してなければ、それは立派な違反者なんだよ。あんたらは貧しい仲間を差別しただろう。
「信仰も…行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」
「行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」
「行いのない信仰も死んだものなのである」
とねじ伏せてゆきます。

ヤコブのいう「行い」は、律法に全体を指しているですが、何よりも「人を差別しない」という点に掛かっています。
使徒教令によって、異邦人信徒は律法を守る必要はないとされていたのだろうと思います。
でも、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」はイエスが重んじた教えなので、異邦人信徒も守るように指導されていたのかな。
「良きサマリア人」の話では、通常は「隣人」に数えられなかったサマリア人を偏見なく「隣人」であると言ってますね。
イエスの教えでは、「人を分け隔てしない」という意味を持った「隣人愛」です。
だから、「隣人愛」を守ろうとするならば、人を分け隔てしてはならないという主張につながります。

しかも、この「行い」は何をすればよいというような決まりがあるわけでもない。
自発的に愛を行う必要がある。
貧しい者を馬鹿にしたり、偏見をもっているようでは、愛など行えるわけがない。
だから、ヤコブさんは立ち返って「人を分け隔てするな」と叱っている、ということなんでしょう。

このあとヤコブさんの怒り方は激しくなって行きますが、相手を排除しようとはしてないと思います。
ヤコブの怒りは、預言者チックなのですが、預言者がそうであるようにヤコブさんも決して人々を見捨てたりしない。…あぁ、「富んだ者」は滅びるとしてますが。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 2:26 行いのない信仰も死んだもの

ὥσπερ τὸ σῶμα χωρὶς πνεύματος νεκρόν ἐστιν, οὕτως καὶ ἡ πίστις χωρὶς ἔργων νεκρά ἐστιν.

(口語訳) 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。

ὥσπερ /ὥσπερ (~だけ) 副詞
τὸ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数中性
σῶμα /σῶμα (肉体) 名詞 主格単数中性
χωρὶς /χωρίς (~なしに) 副詞
πνεύματος /πνεῦμα (霊) 名詞 属格単数中性
νεκρόν /νεκρός (死) 形容詞 主格単数中性
ἐστιν /εἰμί (~である) 動詞 現在能動直接法 三人称単数
οὕτως /οὕτως (このように) 副詞
καὶ /καί (また) 接続詞
ἡ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 名詞 主格単数女性
χωρὶς /χωρίς (~なしに) 副詞
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 属格複数中性
νεκρά /νεκρός (死) 形容詞 主格単数女性
ἐστιν /εἰμί (~である) 動詞 現在能動直接法 三人称単数

訳としては
「霊のない肉体だけでは死んでいる、同じように信仰も行いなしには死んでいる」
という感じです。

ヤコブ書を象徴する一節ですね。
肉体だけあっても生命活動がないと死体と同じだと。信仰も、活動がなければ死んだものなのだと説明するあたりは、ヤコブさんはなかなかな論客です。

これに対立する命題はパウロの神学ですね。

(ローマ 3:28)
わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

パウロの場合は、律法を行ったからと言って、その功績を誇ることはできない、というものですね。
ヤコブの場合は、信仰しているというだけでは、その信仰は死んでいる。行いを伴わせなければならないというもの。


↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ヤコブ 2:25 かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし

ὁμοίως δὲ καὶ Ραὰβ ἡ πόρνη οὐκ ἐξ ἔργων ἐδικαιώθη ὑποδεξαμένη τοὺς ἀγγέλους καὶ ἑτέρᾳ ὁδῷ ἐκβαλοῦσα;

(口語訳) 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。

ὁμοίως /ὁμοίως (同様に) 副詞
δὲ /δέ (しかし) 接続詞
καὶ /καί (そして、~も) 接続詞
Ραὰβ /Ῥαάβ (ラハブ) 固有名詞
ἡ /ἡ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πόρνη /πόρνη (売春婦) 名詞 主格単数女性
οὐκ /οὐ (~ない) 
ἐξ /ἐξ (前置詞) 
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 属格複数中性
ἐδικαιώθη /δικαιόω (義とされた) 動詞 アオリスト受動直接法 三人称単数
ὑποδεξαμένη /ὑποδέχομαι (もてなす) 動詞 アオリスト中動分詞 主格単数女性
τοὺς /ὁ (冠詞) 冠詞 対格複数男性
ἀγγέλους /ἄγγελος (使者) 名詞 対格複数男性
καὶ /καί (そして) 接続詞
ἑτέρᾳ /ἕτερος (もうひとつの) 形容詞 与格単数女性
ὁδῷ /ὁδός (道) 名詞 与格単数女性
ἐκβαλοῦσα /ἐκβάλλω (出す) 動詞 2アオリスト能動分詞 主格単数女性

訳としては
「また同様に、娼婦ラハブも、使者たちをもてなし、もう一つの道へ送り出したので、行いから義とされなかったか」
という感じでしょうか。

訳がどうこうというよりも、ラハブは「もてなしたのか」が気になります。
ラハブというのはヨシュア記に出てくる娼婦ですね。エリコ攻略をねらうヨシュアが二人の斥候を送り出します。二人が泊ったのが娼婦ラハブの家です。
二人が省察に侵入したところは目撃されており、王はラハブに使いを出し、今日偵察に来た者たちを引き渡すように告げますが、ラハブは「二人は日暮れ前に出て行った」と嘘の証言によって二人を逃がします。

さて、ラハブは二人の偵察をもてなしたのでしょうか。
たしかに二人を泊めています。これがもてなしたということでしょうか。
これが「かくまった」というならば理解しやすい。「迎えた」とか、その程度の意味なのかも知れませんが。
もてなしというほどのことをしているかというと微妙なところです。ラハブは二人を屋上に積んであった亜麻布の束のなかに隠れさせ、後で屋上から城壁の外へ吊り下ろした綱から逃がします。

第一クレメンス 12:1以下に「信仰と持て成しの心ゆえ、遊女ラハブは救われた」とあります。
クレメンスはどうもヤコブの手紙と同じ解釈をしているみたいです。
訳文しか見たことがないので、元の語が何かは知らないけど、「持て成す」という意味はちょっと特徴的だなと思います。
第一クレメンスは、コリントの教会の信徒が長老を罷免しようとして揉めているのに介入する文書です。
「持て成し」については第一クレメンスでは初めの方にも少し出てきます。

(1クレメンス1:2 『使徒教父文書』 小河陽訳)
なぜなら、君たちのもとに滞在した者で、非の打ちどころなくまた堅実な君たちの信仰を確認しなかった者がかつて居ただろうか。
あるいは、節度あり親切心に富んだその敬虔さに感嘆しなかったことがあったろうか。
君たちの素晴らしい客の持て成しぶりを触れて歩かぬ者があったろうか。完全かつ確実なその知識を祝福しなかったものが居ただろうか。

教会から指導者が派遣されていたのでしょうか。宣教者が巡回して教会を巡っていたのかなと思います。
そのなかでコリントの教会は「持て成し」てくれるので素晴らしいと評判だといいたいのでしょう。
でも、これは教会のなかがゴタつく前の話で、今は外部から宣教者が介入しようとしても「持て成し」が受けられなくなっており、評判をさげているよと忠告する文脈にあります。
(1クレメンス47:7)で、もめごとの噂は教会内の「考えを異にする者たち」にも届いたとのこと。これには注釈がついていて教会内の異邦人のことだろうとあります。
この争いは、異邦人教会の考え方に与することになるから、はやく治めなさいということのようです。
エルサレム教会に献げ物を贈っていることについてクレームが出たということのようです(44:4)。こういう決まり事について揉めると、自由主義的な異邦人教会はいっそう決まりを守らなくなるので、さっさと事態を収拾しなさいということなのかな。

当時、巡回する宣教者たちは、各教会から「持て成し」を受けて活動していた。でも、教会がもめると指導者の言うことを聞かなくなるのだから、「持て成し」もなくなる。
そこで「信仰」と「持て成し」というものがワンセットで求められるようになったのでしょうか。
チョイチョイ教会は弾圧されて、まさにラハブのようにかくまってもらわないといけなくなることもある。
「持て成し」はありがたいものだったはず。
そういう背景でもあるのなか。

別の書簡では、たとえばヘブル書だとどうでしょう。

(ヘブル人への手紙 11:31)
信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

これは普通の解釈ですね。「迎える」がδεξαμένηですが、敵を「迎えた」ときに穏やかだったので、バレなかったという話になってます。
これと比べるとヤコブの手紙と、1クレメンスの解釈は、ちょっと強調点が違う気がします。

↓ランキング参加します。クリックお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 聖書・聖句へ
にほんブログ村

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2010年12月 | トップページ | 2011年2月 »