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ヤコブ 2:25 かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし

ὁμοίως δὲ καὶ Ραὰβ ἡ πόρνη οὐκ ἐξ ἔργων ἐδικαιώθη ὑποδεξαμένη τοὺς ἀγγέλους καὶ ἑτέρᾳ ὁδῷ ἐκβαλοῦσα;

(口語訳) 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。

ὁμοίως /ὁμοίως (同様に) 副詞
δὲ /δέ (しかし) 接続詞
καὶ /καί (そして、~も) 接続詞
Ραὰβ /Ῥαάβ (ラハブ) 固有名詞
ἡ /ἡ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πόρνη /πόρνη (売春婦) 名詞 主格単数女性
οὐκ /οὐ (~ない) 
ἐξ /ἐξ (前置詞) 
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 属格複数中性
ἐδικαιώθη /δικαιόω (義とされた) 動詞 アオリスト受動直接法 三人称単数
ὑποδεξαμένη /ὑποδέχομαι (もてなす) 動詞 アオリスト中動分詞 主格単数女性
τοὺς /ὁ (冠詞) 冠詞 対格複数男性
ἀγγέλους /ἄγγελος (使者) 名詞 対格複数男性
καὶ /καί (そして) 接続詞
ἑτέρᾳ /ἕτερος (もうひとつの) 形容詞 与格単数女性
ὁδῷ /ὁδός (道) 名詞 与格単数女性
ἐκβαλοῦσα /ἐκβάλλω (出す) 動詞 2アオリスト能動分詞 主格単数女性

訳としては
「また同様に、娼婦ラハブも、使者たちをもてなし、もう一つの道へ送り出したので、行いから義とされなかったか」
という感じでしょうか。

訳がどうこうというよりも、ラハブは「もてなしたのか」が気になります。
ラハブというのはヨシュア記に出てくる娼婦ですね。エリコ攻略をねらうヨシュアが二人の斥候を送り出します。二人が泊ったのが娼婦ラハブの家です。
二人が省察に侵入したところは目撃されており、王はラハブに使いを出し、今日偵察に来た者たちを引き渡すように告げますが、ラハブは「二人は日暮れ前に出て行った」と嘘の証言によって二人を逃がします。

さて、ラハブは二人の偵察をもてなしたのでしょうか。
たしかに二人を泊めています。これがもてなしたということでしょうか。
これが「かくまった」というならば理解しやすい。「迎えた」とか、その程度の意味なのかも知れませんが。
もてなしというほどのことをしているかというと微妙なところです。ラハブは二人を屋上に積んであった亜麻布の束のなかに隠れさせ、後で屋上から城壁の外へ吊り下ろした綱から逃がします。

第一クレメンス 12:1以下に「信仰と持て成しの心ゆえ、遊女ラハブは救われた」とあります。
クレメンスはどうもヤコブの手紙と同じ解釈をしているみたいです。
訳文しか見たことがないので、元の語が何かは知らないけど、「持て成す」という意味はちょっと特徴的だなと思います。
第一クレメンスは、コリントの教会の信徒が長老を罷免しようとして揉めているのに介入する文書です。
「持て成し」については第一クレメンスでは初めの方にも少し出てきます。

(1クレメンス1:2 『使徒教父文書』 小河陽訳)
なぜなら、君たちのもとに滞在した者で、非の打ちどころなくまた堅実な君たちの信仰を確認しなかった者がかつて居ただろうか。
あるいは、節度あり親切心に富んだその敬虔さに感嘆しなかったことがあったろうか。
君たちの素晴らしい客の持て成しぶりを触れて歩かぬ者があったろうか。完全かつ確実なその知識を祝福しなかったものが居ただろうか。

教会から指導者が派遣されていたのでしょうか。宣教者が巡回して教会を巡っていたのかなと思います。
そのなかでコリントの教会は「持て成し」てくれるので素晴らしいと評判だといいたいのでしょう。
でも、これは教会のなかがゴタつく前の話で、今は外部から宣教者が介入しようとしても「持て成し」が受けられなくなっており、評判をさげているよと忠告する文脈にあります。
(1クレメンス47:7)で、もめごとの噂は教会内の「考えを異にする者たち」にも届いたとのこと。これには注釈がついていて教会内の異邦人のことだろうとあります。
この争いは、異邦人教会の考え方に与することになるから、はやく治めなさいということのようです。
エルサレム教会に献げ物を贈っていることについてクレームが出たということのようです(44:4)。こういう決まり事について揉めると、自由主義的な異邦人教会はいっそう決まりを守らなくなるので、さっさと事態を収拾しなさいということなのかな。

当時、巡回する宣教者たちは、各教会から「持て成し」を受けて活動していた。でも、教会がもめると指導者の言うことを聞かなくなるのだから、「持て成し」もなくなる。
そこで「信仰」と「持て成し」というものがワンセットで求められるようになったのでしょうか。
チョイチョイ教会は弾圧されて、まさにラハブのようにかくまってもらわないといけなくなることもある。
「持て成し」はありがたいものだったはず。
そういう背景でもあるのなか。

別の書簡では、たとえばヘブル書だとどうでしょう。

(ヘブル人への手紙 11:31)
信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。

これは普通の解釈ですね。「迎える」がδεξαμένηですが、敵を「迎えた」ときに穏やかだったので、バレなかったという話になってます。
これと比べるとヤコブの手紙と、1クレメンスの解釈は、ちょっと強調点が違う気がします。

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