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ヤコブの手紙 2章の雑感

2章はヤコブの手紙のなかでも重要な章ですね。ヤコブさんの主張が詰まっています。

ヤコブさんの教会は何かゴタついている。たぶん原因はパウロ神学に影響された裕福な信徒が、教師のように偉そうに言って貧しい信徒を馬鹿にしていることにあるのだと思います。
パウロ神学に影響されて、ユダヤの神は異邦人の神でもある。神は唯一だ。しかし、律法の行いによって義とされないのだと説教していたのでしょう。
ひょっとすると「ユダヤ系キリスト教徒」が律法を遵守しようとしていると、「律法に頼るならばその者はキリストから離れている」などと批判していたかも。

それに対するヤコブの反論は鋭い。
「神は唯一だと信じている、それは結構なことだ」と、まず皮肉なトーンで相手の主張を捌いていく。
「もしあなた方が『隣人を自分のように愛せよ』という律法を実行しているなら、結構なことだ」だが、律法全部まもっても、一つ落ち度があるなら…隣人を愛してなければ、それは立派な違反者なんだよ。あんたらは貧しい仲間を差別しただろう。
「信仰も…行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである」
「行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう」
「行いのない信仰も死んだものなのである」
とねじ伏せてゆきます。

ヤコブのいう「行い」は、律法に全体を指しているですが、何よりも「人を差別しない」という点に掛かっています。
使徒教令によって、異邦人信徒は律法を守る必要はないとされていたのだろうと思います。
でも、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」はイエスが重んじた教えなので、異邦人信徒も守るように指導されていたのかな。
「良きサマリア人」の話では、通常は「隣人」に数えられなかったサマリア人を偏見なく「隣人」であると言ってますね。
イエスの教えでは、「人を分け隔てしない」という意味を持った「隣人愛」です。
だから、「隣人愛」を守ろうとするならば、人を分け隔てしてはならないという主張につながります。

しかも、この「行い」は何をすればよいというような決まりがあるわけでもない。
自発的に愛を行う必要がある。
貧しい者を馬鹿にしたり、偏見をもっているようでは、愛など行えるわけがない。
だから、ヤコブさんは立ち返って「人を分け隔てするな」と叱っている、ということなんでしょう。

このあとヤコブさんの怒り方は激しくなって行きますが、相手を排除しようとはしてないと思います。
ヤコブの怒りは、預言者チックなのですが、預言者がそうであるようにヤコブさんも決して人々を見捨てたりしない。…あぁ、「富んだ者」は滅びるとしてますが。

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