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ヤコブ 2:24 人が義とされるのは、行いによる

ὁρᾶτε ὅτι ἐξ ἔργων δικαιοῦται ἄνθρωπος καὶ οὐκ ἐκ πίστεως μόνον.

(口語訳) これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。

ὁρᾶτε /ὁράω (見る) 動詞 現在能動命令 二人称複数
ὅτι /ὅτι (英語のthatに近い) 接続詞
ἐξ /ἐκ (+属格で「~のゆえに」など) 前置詞
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 所有格属格 複数中性
δικαιοῦται /δικαιόω (義とする) 動詞 現在受動直接 三人称単数
ἄνθρωπος /ἄνθρωπος (人間) 名詞 主格単数男性
καὶ /καί (そして、また) 接続詞
οὐκ /οὐ (~ない) 
ἐκ /ἐκ (+属格で「~のゆえに」など) 前置詞
πίστεως /πίστις (信仰) 名詞 所有格属格 単数女性
μόνον /μόνος (~だけ) 副詞

訳としては、
「ご覧なさい、行いによって人間は義とされ、信仰だけによってではありません」
という感じでしょうか。

「ὁρᾶτε 見なさい」を口語訳は「これでわかるように」と訳してます。
うーむ。たぶん、英語の「look」のようにチョコッと文頭に言う感覚で、「ほら、ご覧なさい」という程度の表現なのかな。「ほら、分かるでしょ」という感じで解しているのでしょう。

ヤコブは人間は「信仰だけによって」は義とされないとしています。
いくら信仰していると言っても、貧しい兄弟姉妹が飢えて、凍えているのを見捨てておいて、義とされることはない。
律法の隣人愛を行わなければ、義とされない。
これと対照的なのはパウロです。

 (ローマ 3:28)
 わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。

こちらは神に対して「律法の行い」を業績として誇ることはできず、信仰によって義とされることを論じてます。
ヤコブとパウロは言ってることは真逆です。

僕の感覚ではこの点で違っていたからと言ってどうということでもないです。
「義とされたい」と思っていると、どうすればいいのだ、と困るのでしょうけど。

貧しい兄弟姉妹を救ってやったから私は義とされるのだ、といえばそれはパウロが否定する律法の業績を誇ることにあたるでしょう。
そういう業績について功利主義的に、自己の利益をもとめてやった行いならば、価値はないのだ。偽善なのだと宗教家は言いたいのでしょう。
僕のような非信者としては、まぁ、それでもその業績自体は、何もやらないよりは格段にましだと思います。
何もせず、やる気もない人が、偽善だの、業績を誇っているだのとケチをつけるような話ではない。

ヤコブとしては、貧しい兄弟姉妹を救ってやりたいという自発的な意識が重要なんであって、自己の利益を求めない純粋な愛から行うことが大切なのですよ、ということでしょう。
そういう動機の純粋さがあって、それが律法の行いとして実現されるわけです。
これが逆の順序になると意味が違ってくる。
律法に書いているから、義とされるから、行うというのは、形式だけの善行です。
でも、これまた何もしないよりは随分ましであることは、確認しておきたいところです。

飢えて凍えている人がいれば、愛情から無償で相手に尽くす。
そういう人間性を重んじるというのは、良い話だと思います。
宗教だと、そういう人間性の成長と「義とされる」ということを組み合わせるから話がややこしい。
神によって義とされるという話なのだから、人間が何をするかと問うてもしょうがないように思えます。
何かの儀式だとか、特殊な教義への信仰など、宗教家は義とされる方法・条件をあげるのでしょうけど、何かをクリアすれば義とされるという発想が根本的な問題に思えます。律法を守ると義とされるとか、信仰のみによるとか、いや、信仰だけでなくて隣人を愛する行いによって義とされるとか。
それらは「義とされたい」と思って、安直に近道を選ぼうとしているように見えます。
神が義とするかどうか判断するのならば、そんなものを人間が考えたって無駄だとさっさと諦めて、自分自身をより良くしようと思えば済む話に思えます。

ヤコブが論じている隣人愛というものは、どういうものなのか。なぜ愛を行うことができないのか。
愛がもつ自発的な行為というものは、相手への情熱がほとんど義務感のようなものとなって突き動かされている状態なのでしょう。
ただ、その愛情が冷めると、義務感が重荷のように意識されるようになる。
情熱をもっている間は、相手に尽くすことは当然のことであり、何の苦でもない。
でも、情熱が冷めると、「やって当然な善行」は重荷となり、義務だから嫌々ながらやる行為となる。
そのうち、面倒だからやらないという人が出てくる。すると、ルールが定められ、罰則がもうけられたりする。
すると、罰が嫌だからやるとか、ルールで決められているからやる、という調子になる。
そうなると、宗教家にとって「行い」の価値は下がるわけでしょう。
嫌々ながらやっているだけの「行い」に何か価値があるのかと。純粋な善意から行われなければ、すべて偽善に過ぎないのだ、という話になるわけです。

聖書のなかには、律法を遵守するパリサイ派に対して偽善者だと批判する言葉がたくさんあります。
批判のポイントは二つあるかと思います。
ひとつは、律法の行いの業績を誇るのは人間の傲慢さだというパウロの路線。
もうひとつは、律法を形式的に守っても、面倒がって(自発的な)憐れみを行わないなら実質的には違反しているのと同じことだ、というヤコブの路線。

これらから分かることは、何をやったからと言って一々義とされるかどうか問題にしても仕方ないということ。
業績を誇ることができないし、ただ形式的に律法を守っていたからと言って、義とされるわけではない。
ヤコブに言わせれば、自発的に愛を行っている状態で、当たり前のように隣人を助けているべきなのでしょう。

これは「義とされる」かどうかを問題にする態度とはちょっと違う。
というか、かなり違う。

まぁ、非信者は、ヤコブとパウロのこういう矛盾点は方法論と見てないのでそれほど気にならないということです。
ただ、与えられた環境を言い訳にせず、状況に妥協せず、あるべき姿を実現しようと人間性を成長させてゆこうする面で、ヤコブはしっかり物事を見ているなぁと感心します。

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