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ディストピア

理想郷(ユートピア)の真逆の世界をディストピアと呼んだりします。
小説なんかで、自由のない管理社会の恐怖を描いたりされる。

「ガタカ」「マイノリティ・リポート」「アイランド」「時計仕掛けのオレンジ」「リベリオン」あたりがディストピア物かなと思います。
クリーンで、快適で、高度に管理された理想の社会のように見えているけど、その実は人間性の芽を摘み取ってしまう恐るべき弊害を持っていた…というパターンの物語が多いです。
登場人物は「人間性」を自覚し、自由のために管理社会に楯突く存在になる。
上記の映画のなかでは「時計仕掛けのオレンジ」がやや異色です。これは主人公のキャラクターが圧倒的に凶暴で邪悪であるため、管理社会から解放されても素直に自由を喜べないシニカルなテイストになっていて、そこが毛色の違いになっています。

「ヴィレッジ」「トゥルーマン・ショー」「ドリフトウッド 硝子の檻」もティストピア物に入るかなと。
登場人物がディストピアへ帰還を選択するかがテーマになる。
ディストピアと知りつつ、理性を殺して平和な虚構のなかに生きるという選択を意識させる。
「ヴィレッジ」は、僕は嫌悪感を感じる方です。でも、「トゥルーマン・ショー」の平和な生活はちょっといいかなと感じるし、「ドリフトウッド」はアンヌ・ブロシェが可愛くて、もうそのままでいいのではないかと思ってしまう。

現実に理想郷をつくろうなどと思っても、なかなか難しい。
聖書のなかに、原始教会がお金を出し合って共同生活をするという描写があります。(使徒行伝 4:32以下)あたりです。
でも、資産を出し合っても、あっという間に食べつくしてしまいそうです。
土地や畑が近くにあって、その作物で食べていけるようになっているならともかく、たんにお金を持ち寄ってもちょっと慈善事業を行うのが精いっぱいかなと。

で、また、そういう風に孤立したコミュニティが出来たとして、そこで健全に教団を運営するというのは至難の業かなと。
早い話がカルトまっしぐらなわけです。
エッセネ派とか、どうやって生活していたんだろう。
修道者風の集団だったんだろうか。

マタイ福音書は何となく修道者的です。
欲望をもって女を見るなら、目をえぐりだせという発想とか。結婚しないように生まれたものは、それを受け入れよとか。
ラディカルなんだけど、イエスのように放浪しようとは思ってない印象。
おそらく放浪して教会を渡り歩いていた預言者について、彼らの教えを警戒していたりしますし。
完全なものとなれ、というときに修道僧のような生活を考えているのではないかなと感じることが多々あります。
でも、実際にはイエスは修道院に閉じこもっているタイプの人間ではなかったので、イエスの言葉から修道者的な組織を基礎づけるというところまでは至っていないという感じをマタイから受けます。

まとまりのない話になってしまった。

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