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2010年10月

ヤコブ 2:22 行いによって信仰が全うされる

βλέπεις ὅτι ἡ πίστις συνήργει τοῖς ἔργοις αὐτοῦ καὶ ἐκ τῶν ἔργων ἡ πίστις ἐτελειώθη,

(口語訳) 「あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」

βλέπεις /βλέπω (見る) 動詞 現在能動直接 二人称単数
ὅτι /ὅτι (目的節あるいは理由節を導く) 接続詞
ἡ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 主格単数女性
συνήργει /συνεργέω (共に働く) 動詞 未完了能動直接 三人称単数
τοῖς /ὁ (冠詞) 冠詞 与格複数中性
ἔργοις /ἔργον (働き) 名詞 与格複数中性
αὐτοῦ /αὐτός (彼の) 人称代名詞 属格単数男性
καὶ /καί (そして、また) 接続詞
ἐκ /ἐκ (+属格で「~から外へ」「~の内の」「~の理由で」) 
τῶν /ὁ (冠詞) 冠詞 所有格属格複数中性
ἔργων /ἔργον (働き) 名詞 所有格属格複数中性
ἡ / (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 主格単数女性
ἐτελειώθη /τελειόω (全うする) 動詞 アオリスト複数直接 三人称単数

ギリシャ語の動詞は語尾が変化して一人称・二人称・三人称などを表現します。
βλέπω 「(私は)見る」
βλέπεις 「(あなたは)見る」
βλέπει 「(彼/彼女は)見る」

「ὅτι」は接続詞で、それ以下に目的節や理由節が続く。
「βλέπεις ὅτι ~」で「あなたは~を見た」となります。

「ἡ πίστις 信仰」は女性名詞なので冠詞は「 ἡ 」になる。
ギリシャ語の名詞は、男性名詞、女性名詞、中性名詞の「性」を持っています。
日本語にはないのでピンと来ないですが、「ウエイター」と「ウエイトレス」のような「性」の区別が、あらゆる単語にあるそうです。物は中性ですね。でも、必ずしも単語の性別と、生物学的な性は一致してないそうです。
名詞の性にともなって冠詞(英語でいえば「the」)も変化します。「ὁ 男性」「ἡ 女性」「τὸ 中性」とそれぞれの性の単語に対応します。

「συνήργει 共に働く」という動詞は語尾が「-ει」になってます。三人称です。
「συνεργός 同労者」という語が元にあって「σύν 伴う + ἔργον 働き」が組み合わさっているそうです。
「ἡ πίστις συνήργει ~」で、「信仰は~と共に働く」となります。

「ἔργοις 行い」という語は与格です。
与格だと冠詞は「τὸ」から「τοῖς 」に変化します。
与格は動詞の間接目的語を表します。大抵は「~に」と訳せます。
ギリシャ語の与格は日本語の感覚だと対格(「~を」で表す)で表現することも、与格で受けることがあるそうです。
ここだと与格なので「行いに」と訳したくなりますが、「συνήργει 共に働く」を受けて「行いと共に働く」と訳すそうです。

なので、ἡ πίστις συνήργει τοῖς ἔργοις αὐτοῦ は、
「信仰は彼の行いと共に働く」となります。

「καὶ 」は、「そして」とか「また」というような接続詞。
「ἐκ τῶν ἔργων 」のところは、また「ἔργων 行い」という語が出てきますが今度は所有格・属格(「~の」で表す)です。
「ἐκ + 所有格・属格」で「~から外へ」「~の内の」「~の理由で」などを表現します。
ここでは「行いによって」ぐらいの意味のようです。

「ἐτελειώθη」という単語は、
ἐ-τελειώ-θη に分解できるようです。「τελειόω 完遂する」という語が元にあります。
「ἐ-」の加音と「-θη」という語尾からアオリスト・受動・三人称の形と分かります。

καὶ ἐκ τῶν ἔργων ἡ πίστις ἐτελειώθη のところは、
「また、行いによって信仰は全うされます」と訳せると思います。

全体の訳文としては、
「あなたが見たように、信仰は彼の行いと共に働き、また行いによって信仰は全うされます」
という感じかと思います。

内容的にはパウロ神学と真っ向から衝突する内容かなと思います。
パウロは律法の業績によって救われるということを否定し、信仰によって義とされるとします。
しかし、ヤコブは信仰は行いによって完全になるとします。

さて、どう考えましょう。
僕はヤコブとパウロが矛盾したことを言っていても何も困らないので、そのままの意味に解します。
ヤコブは飢えている人を見捨ててしまうような人が義とされるとは思っていない。
パウロが「人は行いによって義とされない」と言ったところで、ヤコブは「憐れみを行わない者には憐れみのない裁きが与えられるのだ」と考えています。
「良きサマリア人」のように、自分のことのように相手を愛する。ヤコブにとって信仰とはそういうものです。

ヤコブがこのように考えたのは「現実」を見ていたからだと思います。
おそらく、ヤコブも当初は「信仰」すれば、神から義とされ、罪を犯さなくなると信じていたでしょう。
でも、「現実」にはそうなってなかった。
教会で貧しい人が冷遇されていた。
ヤコブはそのときどう考えたか。貧しい人を差別するような人も、やはりキリストを信仰していた。そこは否定しない。「神は一人だと信じているのか、それは結構だ」「隣人を自分のように愛しているのか、それは結構だ」。
しかし、行いを伴っていないなら、信仰はそれだけでは死んでいるのだ。

でも「現実」を見なければ、もう救われているのだと安心してあぐらをかいていられるわけです。

僕の理解の仕方は、信仰の意義を矮小化しているようにも見えるかも。
でも、ヤコブさんが問題にしているのは「現実」には罪から解放されてないということでしょう。
この「現実」感覚があるから、ヤコブさんは問題を解決しようとしているのだと思います。

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不正にまみれた富

ヤコブの手紙では富んだ者はほぼ悪人扱いです。
ヤコブの目には、賃金が支払われず、人々がこき使われている姿があるわけです(ヤコブ 5:4)。
ヤコブが問題にしている富んだ者というのは、そのように賃金をしぶりながら、私腹を肥やすような人のことです。

「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(ヤコブ 4:17)
ヤコブは、富んだ者たちは「為すべきことを知っている」と思っているわけでしょう。
さぁ、その罪は万軍のヤハウェの耳に届いているぞ、と。

「万軍のヤハウェ」という表現は古い時代の戦争、ヤハウェが農民召集軍を率いて戦ったと伝えられる時代を栄光化しているそうです。
金をかけて武装することができる貴族が台頭し、農民たちは没落し債務奴隷化てきたことを意識せざるを得なくなっていくにつれ、預言者たちの意識のなかでは、かつての信仰的な戦士としての時代が栄光化されてあらわれてきていたのだろう、とのことです。
今は没落しているが、かつて自分達は「万軍のヤハウェ」のもとで勇敢に闘ったのだ、というわけです。

ヤハウェの戦士としての「栄光」というものは、債務奴隷化してゆく状況下では、人としての「尊厳」というか、自分もいっぱしの人間なんだという権利の主張に近いものなのではないかと。

最近はあんまり聞かなくなりましたが、いわゆる「負け組」は怠け者だから負けているんだ、というような論調ね。
で、怠けているわけではないことが明らかになってくると「ワーキングプア」なんて呼んでますが、要するに給料が安いわけです。きつい仕事でも。
会社は儲かっているんですけどね。
古代に生きているヤコブさんと現代人が何か違うことをやっているわけではないようです。

ヤコブさんは終末がすぐ来るから全部解決だと言っているのでしょうか。
それとも金持ちに対するルサンチマンを抱えて鬱々としているのでしょうか。

印象では富んだ者の運命はどこかで滅んでしまうのだろうという程度の関心しかないかなと。
ヤコブさんの関心は、教会内でおそらく比較的豊かだった人々が、貧しい人を馬鹿にしていることに向けられています。

とくに律法を守るということは、場合によっては経済的に不利なのではないかなと。
異教の習慣と妥協しないと商売がなかなか上手くいかないなんてことがあるわけです。
そういう時にわりとパウロ主義的な信徒は、柔軟に対処できたのではないかなと。
それに対して律法を遵守しようと思うと、いろいろ出費もあるのかなと。ヤコブにとっての貧しい人たちというのはそうやって律法を守りながら貧しくなっていった人たちなのかなと想像します。律法を守らずに商売をやりくりするパウロ主義者がそのような貧しい人たちを馬鹿にするのをヤコブは苦々しい思いで見ていたのでしょうか。

ルカ16章の「不正な管理人」のたとえでは、「不正にまみれた富で友達を作りなさい」という話があります。
この譬えは難解なのだそうです。
僕はこの「不正な管理人」というのはイエスを指していると思います。
イエスは病人に対して「あなたの罪は赦される」と癒していると、「神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったい誰が、罪を赦すことができるだろうか」と批判されています(マルコ 2:7)。
イエスは勝手に人々の罪(負債)を赦すという不正を行ったと批判されていたわけです。
だから、イエスは相手の批判を受けて譬え話で福音を弁護するわけです。
「不正な管理人」は勝手に借金を割り引いてしまいます。
そうやって人々の負債(罪)を軽くしたことについて主人は褒めるわけです。
話の骨子はこれだけでしょう。
イエスや多くの聴衆は借金に苦しみを知っていて、現実にそういう「不正な管理人」がいてくれたらいいのにな、という希望がたとえの細部を肉付けしているのだと思います。そういう「不正な管理人」がいたら、クビになっても私らが面倒みてやりますよ、と聴衆が喜んで応えたのが伝承のなかで入り混じって伝えられたように見えます。

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ディストピア

理想郷(ユートピア)の真逆の世界をディストピアと呼んだりします。
小説なんかで、自由のない管理社会の恐怖を描いたりされる。

「ガタカ」「マイノリティ・リポート」「アイランド」「時計仕掛けのオレンジ」「リベリオン」あたりがディストピア物かなと思います。
クリーンで、快適で、高度に管理された理想の社会のように見えているけど、その実は人間性の芽を摘み取ってしまう恐るべき弊害を持っていた…というパターンの物語が多いです。
登場人物は「人間性」を自覚し、自由のために管理社会に楯突く存在になる。
上記の映画のなかでは「時計仕掛けのオレンジ」がやや異色です。これは主人公のキャラクターが圧倒的に凶暴で邪悪であるため、管理社会から解放されても素直に自由を喜べないシニカルなテイストになっていて、そこが毛色の違いになっています。

「ヴィレッジ」「トゥルーマン・ショー」「ドリフトウッド 硝子の檻」もティストピア物に入るかなと。
登場人物がディストピアへ帰還を選択するかがテーマになる。
ディストピアと知りつつ、理性を殺して平和な虚構のなかに生きるという選択を意識させる。
「ヴィレッジ」は、僕は嫌悪感を感じる方です。でも、「トゥルーマン・ショー」の平和な生活はちょっといいかなと感じるし、「ドリフトウッド」はアンヌ・ブロシェが可愛くて、もうそのままでいいのではないかと思ってしまう。

現実に理想郷をつくろうなどと思っても、なかなか難しい。
聖書のなかに、原始教会がお金を出し合って共同生活をするという描写があります。(使徒行伝 4:32以下)あたりです。
でも、資産を出し合っても、あっという間に食べつくしてしまいそうです。
土地や畑が近くにあって、その作物で食べていけるようになっているならともかく、たんにお金を持ち寄ってもちょっと慈善事業を行うのが精いっぱいかなと。

で、また、そういう風に孤立したコミュニティが出来たとして、そこで健全に教団を運営するというのは至難の業かなと。
早い話がカルトまっしぐらなわけです。
エッセネ派とか、どうやって生活していたんだろう。
修道者風の集団だったんだろうか。

マタイ福音書は何となく修道者的です。
欲望をもって女を見るなら、目をえぐりだせという発想とか。結婚しないように生まれたものは、それを受け入れよとか。
ラディカルなんだけど、イエスのように放浪しようとは思ってない印象。
おそらく放浪して教会を渡り歩いていた預言者について、彼らの教えを警戒していたりしますし。
完全なものとなれ、というときに修道僧のような生活を考えているのではないかなと感じることが多々あります。
でも、実際にはイエスは修道院に閉じこもっているタイプの人間ではなかったので、イエスの言葉から修道者的な組織を基礎づけるというところまでは至っていないという感じをマタイから受けます。

まとまりのない話になってしまった。

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