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ヤコブ 2:22 行いによって信仰が全うされる

βλέπεις ὅτι ἡ πίστις συνήργει τοῖς ἔργοις αὐτοῦ καὶ ἐκ τῶν ἔργων ἡ πίστις ἐτελειώθη,

(口語訳) 「あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ」

βλέπεις /βλέπω (見る) 動詞 現在能動直接 二人称単数
ὅτι /ὅτι (目的節あるいは理由節を導く) 接続詞
ἡ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 主格単数女性
συνήργει /συνεργέω (共に働く) 動詞 未完了能動直接 三人称単数
τοῖς /ὁ (冠詞) 冠詞 与格複数中性
ἔργοις /ἔργον (働き) 名詞 与格複数中性
αὐτοῦ /αὐτός (彼の) 人称代名詞 属格単数男性
καὶ /καί (そして、また) 接続詞
ἐκ /ἐκ (+属格で「~から外へ」「~の内の」「~の理由で」) 
τῶν /ὁ (冠詞) 冠詞 所有格属格複数中性
ἔργων /ἔργον (働き) 名詞 所有格属格複数中性
ἡ / (冠詞) 冠詞 主格単数女性
πίστις /πίστις (信仰) 主格単数女性
ἐτελειώθη /τελειόω (全うする) 動詞 アオリスト複数直接 三人称単数

ギリシャ語の動詞は語尾が変化して一人称・二人称・三人称などを表現します。
βλέπω 「(私は)見る」
βλέπεις 「(あなたは)見る」
βλέπει 「(彼/彼女は)見る」

「ὅτι」は接続詞で、それ以下に目的節や理由節が続く。
「βλέπεις ὅτι ~」で「あなたは~を見た」となります。

「ἡ πίστις 信仰」は女性名詞なので冠詞は「 ἡ 」になる。
ギリシャ語の名詞は、男性名詞、女性名詞、中性名詞の「性」を持っています。
日本語にはないのでピンと来ないですが、「ウエイター」と「ウエイトレス」のような「性」の区別が、あらゆる単語にあるそうです。物は中性ですね。でも、必ずしも単語の性別と、生物学的な性は一致してないそうです。
名詞の性にともなって冠詞(英語でいえば「the」)も変化します。「ὁ 男性」「ἡ 女性」「τὸ 中性」とそれぞれの性の単語に対応します。

「συνήργει 共に働く」という動詞は語尾が「-ει」になってます。三人称です。
「συνεργός 同労者」という語が元にあって「σύν 伴う + ἔργον 働き」が組み合わさっているそうです。
「ἡ πίστις συνήργει ~」で、「信仰は~と共に働く」となります。

「ἔργοις 行い」という語は与格です。
与格だと冠詞は「τὸ」から「τοῖς 」に変化します。
与格は動詞の間接目的語を表します。大抵は「~に」と訳せます。
ギリシャ語の与格は日本語の感覚だと対格(「~を」で表す)で表現することも、与格で受けることがあるそうです。
ここだと与格なので「行いに」と訳したくなりますが、「συνήργει 共に働く」を受けて「行いと共に働く」と訳すそうです。

なので、ἡ πίστις συνήργει τοῖς ἔργοις αὐτοῦ は、
「信仰は彼の行いと共に働く」となります。

「καὶ 」は、「そして」とか「また」というような接続詞。
「ἐκ τῶν ἔργων 」のところは、また「ἔργων 行い」という語が出てきますが今度は所有格・属格(「~の」で表す)です。
「ἐκ + 所有格・属格」で「~から外へ」「~の内の」「~の理由で」などを表現します。
ここでは「行いによって」ぐらいの意味のようです。

「ἐτελειώθη」という単語は、
ἐ-τελειώ-θη に分解できるようです。「τελειόω 完遂する」という語が元にあります。
「ἐ-」の加音と「-θη」という語尾からアオリスト・受動・三人称の形と分かります。

καὶ ἐκ τῶν ἔργων ἡ πίστις ἐτελειώθη のところは、
「また、行いによって信仰は全うされます」と訳せると思います。

全体の訳文としては、
「あなたが見たように、信仰は彼の行いと共に働き、また行いによって信仰は全うされます」
という感じかと思います。

内容的にはパウロ神学と真っ向から衝突する内容かなと思います。
パウロは律法の業績によって救われるということを否定し、信仰によって義とされるとします。
しかし、ヤコブは信仰は行いによって完全になるとします。

さて、どう考えましょう。
僕はヤコブとパウロが矛盾したことを言っていても何も困らないので、そのままの意味に解します。
ヤコブは飢えている人を見捨ててしまうような人が義とされるとは思っていない。
パウロが「人は行いによって義とされない」と言ったところで、ヤコブは「憐れみを行わない者には憐れみのない裁きが与えられるのだ」と考えています。
「良きサマリア人」のように、自分のことのように相手を愛する。ヤコブにとって信仰とはそういうものです。

ヤコブがこのように考えたのは「現実」を見ていたからだと思います。
おそらく、ヤコブも当初は「信仰」すれば、神から義とされ、罪を犯さなくなると信じていたでしょう。
でも、「現実」にはそうなってなかった。
教会で貧しい人が冷遇されていた。
ヤコブはそのときどう考えたか。貧しい人を差別するような人も、やはりキリストを信仰していた。そこは否定しない。「神は一人だと信じているのか、それは結構だ」「隣人を自分のように愛しているのか、それは結構だ」。
しかし、行いを伴っていないなら、信仰はそれだけでは死んでいるのだ。

でも「現実」を見なければ、もう救われているのだと安心してあぐらをかいていられるわけです。

僕の理解の仕方は、信仰の意義を矮小化しているようにも見えるかも。
でも、ヤコブさんが問題にしているのは「現実」には罪から解放されてないということでしょう。
この「現実」感覚があるから、ヤコブさんは問題を解決しようとしているのだと思います。

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