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ヤコブ 2:21 行いによって義とされたのではなかったか

Ἀβραὰμ ὁ πατὴρ ἡμῶν οὐκ ἐξ ἔργων ἐδικαιώθη ἀνενέγκας Ἰσαὰκ τὸν υἱὸν αὐτοῦ ἐπὶ τὸ θυσιαστήριον;

(口語訳) わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。

Ἀβραὰμ /Ἀβραάμ (アブラハム) 名詞 固有名詞
ὁ /ὁ (冠詞) 冠詞 主格単数男性
πατὴρ /πατήρ (父) 名詞 主格単数男性
ἡμῶν /ἡμῶν (我々の) 人称代名詞 一人称所有格属格複数
οὐκ /οὐ (~ない) 
ἐξ /ἐκ (~によって) 前置詞
ἔργων /ἔργον (行い) 名詞 所有格属格 複数中性
ἐδικαιώθη /δικαιόω (義とする) 動詞 アオリスト受動直接法 三人称
ἀνενέγκας /ἀναφέρω (ささげる) 動詞 アオリスト能動分詞 主格単数男性
Ἰσαὰκ /Ἰσαάκ (イサク) 名詞 固有名詞
τὸν /ὁ (冠詞) 冠詞 対格単数男性
υἱὸν /υἱός (息子) 名詞 対格単数男性
αὐτοῦ /αὐτός (彼の) 人称代名詞 所有格属格 単数男性
ἐπὶ /ἐπί (~の上に) 前置詞
τὸ /ὁ (冠詞) 冠詞 対格単数中性
θυσιαστήριον /θυσιαστήριον (祭壇) 名詞 対格単数中性


訳としては、
「我らの父アブラハムは、彼の息子イサクを祭壇の上にささげた時に、行いによって義とされなかったか」
という感じでしょうか。

ささげるという動詞の「ἀνενέγκας」がアオリストの分詞です。
分詞が掛かる語は、性数格をそろえるようです。
「ささげる」という語は主格単数男性です。「アブラハムがささげた時」とかかるようです。

新共同訳では「献げるという行いによって」となってます。
分詞は「~によって」と訳すこともできるようですが、「献げる」が「行い」に掛かってしまっている気がします。
「行い」という語は属格複数中性ですので、「行い」には掛かってないようです。

さて、ヤコブが言ってる内容の根拠になるのは下記の部分でしょうか。
「イサクの燔祭」の場面で、息子イサクを祭壇に載せたアブラハムは刃物を取り、息子を屠ろうとします。

 (創世 22:12)
 御使いは言った。
 「その子に手を下すな。何もしてはならない。
 あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。
 あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

 (創世 22:16-18)
 御使いは言った。
 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。
 あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、
 あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。
 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」


この部分を読むと、なるほどアブラハムは息子を屠ろうとした時に、その信仰が認められ(神を畏れる者であることが、今、分かった)、「声に聞き従った」ことによって祝福を得ています。
ヤコブさんの解釈で気になるのは、「神はアブラハムを試された」(創世 22:1)と書いているのに、「神は誘惑しない」(ヤコブ 1:13)と断言している点だったりします。「試す」と「誘惑する」はたぶん同じ意味でしょう。
ヤコブさん的には神は常に良いものだということのようで、まぁそれは結構なのですが。

パウロさんはこのあたり真逆の意味に解しています。

 (ローマ 4:9-10)
 さて、この幸福は、割礼の者だけが受けるのか。
 それとも、無割礼の者にも及ぶのか。
 わたしたちは言う、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」のである。
 それでは、どういう場合にそう認められたのか。
 割礼を受けてからか、それとも受ける前か。割礼を受けてからではなく、無割礼の時であった。


割礼は創世記17章にはじめて出てくるので、まぁ15章の段階では無割礼ですね。
アブラハムが無割礼の段階で義とされたとしても、結局17章で「契約のしるし」として割礼が義務付けられますが。
こちらの引用の元になった部分は下記のところ。

 (創世 15:6)
 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

ちょっと読んだ感じでは、「彼『の』義と認めた」という言い方が気になります。
「彼『を』義と認めた」ならば、神はアブラハムを義とされたということでしょう。
でも、「彼の義と認めた」というと、彼の信仰は美徳とカウントしますよと言ってるだけな印象です。
パウロは同じことを言ってるんですが、何だかちょっとそこが曖昧な言い方になっているように感じます。この言い方は70人訳をそのまま引用したのとも違うようす。
このニュアンスの違いはギリシャ語にもあるのかな。

(創世 15:6 70人訳 Septuagint with Diacritics)
καὶ ἐπίστευσεν αβραμ τῷ θεῷ καὶ ἐλογίσθη αὐτῷ εἰς δικαιοσύνην

(ローマ 4:9)
Ὀ μακαρισμὸς οὖν οὗτος ἐπὶ τὴν περιτομὴν ἢ καὶ ἐπὶ τὴν ἀκροβυστίαν;
λέγομεν γὰρ ἐλογίσθη τῷ Ἀβραὰμ ἡ πίστις εἰς δικαιοσύνην.


アブラハムの子孫であると誇ったところで、神は石からでも子孫を起こすことができると洗礼者ヨハネが言ってますね。このあたりが原始教会のスタンスにも影響しているのでしょうか。
パウロの主旨としては、アブラハムの子孫だからといって胡坐かいていては駄目だよということの流れで、信仰に重きを置き、信仰によって神の約束を受け継ぐことができると考えているようす。律法の行いを神に対して誇ることはできない、と。信仰によって義とされるのだと。
ヤコブの方は信仰だけで救われるわけではない、というもの。とくに憐れみを行なわない信仰ではその人は救われんよ、という調子です。
そして、その憐れみを行なうということは律法に含まれているのだということを根拠にしてますね。

ヤコブさんにとってのキリスト教とは、律法から解放されるようなものではないようす。
律法を守ってゆく気満々ですね。実際、どの程度守っていたのかは分からないですが。
少なくとも憐れみを行なうこと、それも教会のなかでは憐れみは行なわれるべきだと思っていたことは間違いない。
それすらできないのに、救われるだのと言っても仕方ないという現実的な感覚をヤコブさんの論調から感じます。

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