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ヤコブ 2:11 たとい姦淫はしなくても

ὁ γὰρ εἰπών, Μὴ μοιχεύσῃς, εἶπεν καὶ, Μὴ φονεύσῃς· εἰ δὲ οὐ μοιχεύεις φονεύεις δὲ, γέγονας παραβάτης νόμου.

(口語訳) たとえば、「姦淫するな」と言われたかたは、また「殺すな」とも仰せになった。そこで、たとい姦淫はしなくても、人殺しをすれば、律法の違反者になったことになる。

ὁ /ὁ (冠詞) 
γὰρ /γάρ (接続詞) 
εἰπών /εἶπον (言う) 動詞 アオリスト能動分詞 主格単数男性
Μὴ /μή (~ない) 
μοιχεύσῃς /μοιχεύω (姦淫する) 動詞 アオリスト能動接続法 二人称単数
εἶπεν /εἶπον (言う) 動詞 アオリスト能動直接法 三人称単数
καὶ /καί (そして) 接続詞
Μὴ /μή (~ない) 
φονεύσῃς /φονεύω (殺す) 動詞 アオリスト能動接続法 二人称単数
εἰ /εἰ (条件文 もし) 
δὲ /δέ (しかし) 接続詞
οὐ /οὐ (~ない) 
μοιχεύεις /μοιχεύω (姦淫する) 動詞 現在能動直接 二人称単数
φονεύεις /φονεύω (殺す) 動詞 現在能動直接 二人称単数
δὲ /δέ (しかし) 接続詞
γέγονας /γίνομαι (~になる) 動詞 完了能動直接 二人称単数
παραβάτης /παραβάτης (違反者) 名詞 主格単数男性
νόμου /νόμος (法) 名詞 所有格属格 単数男性

訳としては、
『なぜなら「あなたは姦淫しないだろう」と言った方は、「あなたは殺さないだろう」とも言ったからである。
しかしもしあなたが姦淫しなくとも殺すならば、律法の違反者になってしまった』
という感じでしょうか。

口語訳が「姦淫するな」「殺すな」と命令形に訳してますが、この動詞は接続法ですので「~しないだろう」ぐらいの意味かと思います。
たぶんヘブライ語の表現をそのままギリシャ語に置き換えているだけでしょうから、「姦淫するな」という訳でいいのだと思います。

譬え方として、「姦淫しなくても人殺しをすれば…」という表現はどうでしょう。
イメージ的には逆の順番にしそうです。
つまり「人殺しをしなくとも姦淫をすれば…」という言い方をしそうです。
「大きな罪を犯さなくても、小さな罪を犯しただけで…」という構文で語りそうではないですか。

当時の社会は姦淫も重罪だったので、そこに罪の大小はないのかも知れませんが、やはり質の違いはあるでしょう。
ヨハネ福音書8章の姦淫の女の罪を赦す話が受けるのは、姦淫の罪は石で打ち殺されるのは残酷過ぎるなと感じているから、この話が受けるわけですし。
姦淫の罪を石打で処刑することが残酷である、という認識は一般的な了解になってなかったとしても、ちょっとはみんな感じていたんじゃないかな。
現代でも何か罪を犯すと「自己責任」だのと言いつのって厳罰を求める人はいるけど、それでもなお人は厳罰化に不安を感じるものだと思う。人間の弱さを理解している人は、罪を犯した者に対しても人道的な処遇があってしかるべしと感じるものかなと思う。

ともかく、「姦淫しなくても人殺しをすれば」という言い方は、小さな罪を避けても大きな罪を犯したら…という構文に思えます。

「もし律法を完全に守っていたとしても、一点でも落ち度があれば違反者だ」と言いたいときに、
姦淫をしてなくても、人を殺していたら律法違反だ、と言うのは当たり前過ぎる話ではないでしょうか。
一点でも落ち度があったらダメだと言う時に、そんな分かりやすい最大級の犯罪を例にあげますかね。

この言い方が変であると感じるのは、つまり、2:10が「一点でも落ち度があればダメだ」と言ってるわけではないからでしょう。
どちらかというと2:10は「肝心な一点ができてないと意味ないじゃないか」と言っているのだと思います。
姦淫してないのはいいけど、人殺ししていたんではどうにもならないよ、ということ。
小さな一点でも落ち度があってはいけないと言っているのではなく、大きな一点で落ち度があるじゃないかと言う構文なのではないでしょうか。


「あなたの隣り人を愛せよ」という律法を行っているならば大したものだ。
でも、えこひいきして貧しい人を冷遇していたならば、他の律法は守ってましたなんて言い訳は通用しない。
一番肝心な一点が出来てないのは、姦淫してなくても、人殺ししていたら罪人であるのと同じことだ。
…という風に文脈がつながっているのだと思う。
小さな一点の落ち度も許されないというような、そんな厳格なことは言ってないと思う。
というか、犯した罪は祈りによって許される(ヤコブ 5:15)。

一点というのは、文脈からして「あなたの隣り人を愛せよ」であるわけだし。
あれもこれも全部絶対守れと言ってるわけではないでしょう。
…いや、しょっちゅうヤコブさんは「完全」とか言ってますか。
でも、でも、ヤコブさんが信徒たちが完全ではないと思っている点は、つまり「あなたの隣り人を愛せよ」という行いが足りてないということだし。
不完全さとして、知恵が欠けている(1:5)という話が出てきますが、それは祈れば与えてもらえるわけです。

ただ隣人への愛は、祈ってなさいと言ってるわけではない。
行いなさいと言っているわけです。

ヤコブさんはおそらく当時の教会を見て、それが欠けていると感じていたからでしょう。
おそらく相手は現実を見ないで、ただ神学的にものを考えていた人たちであったのかなと思います。
そして、このあたりからヤコブは相手の神学に批判を加えていくようです。

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