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2010年5月

聖書講座に行ってみた3

荒井献氏の聖書講座が中野桃園教会であったので行ってみました。
第3回「フィリピにて①」

「福音と世界」の「新約釈義 使徒行伝」をテキストに講義されてます。
今回は四冊分(使徒行伝16:11-16:18)の範囲です。

・フィリピとはどういう都市か
植民市(コローニア)。租税の免除などの特権。イタリア本土と同等に扱われる。(ローマの統治については弓削達氏の本に詳しい)
ローマ軍の除隊兵とイタリア農民が移住し、ローマ的・軍事的な性格が与えられた。
住民は自分自身をローマ人であると意識していた。

・フィリピは実は第一の都市ではない
「マケドニアの地域の第一の都市」(16:12 荒井訳)のところに異読がある。
フィリピは4つの区のなかでは第一の都市であるが、マケドニアの第一の都市ではない。
新共同訳は「マケドニア州第一区の都市」と「区」を補って地理的に正しく訳している。
この表現はおそらくルカが多少誇張していると思われる。

・「祈りの場」
現在フィリピの「リュディア受洗チャペル」がある場所は発掘から川端にあったことが判っており、荒井氏は「こういう教会が建っていても通常当てにならないものですが、この場所は正確なのではないか」とのこと。
境壁法(外来の宗教の集会所は境壁の外でなければならない)にも合致する伝承。
ルカはここだけ会堂と呼んでいない。これはこの地域の呼び名であったのをルカが知っていて書いたのではないか。

・フェミニスト神学
集まりに女性が多かった理由として、女性の性的少数者(レズビアン)の集まりだったのではないかという注解書もあるが、まったくの想像に過ぎない。
またリュディアを「紫布染色職人」と見て、奴隷職人であったとみるものが多い。
これは英語の注解書に多い説であるが、ラテン語ではpauperariusは「紫布商人」とも「紫布染色職人」を意味しても、ギリシャ語では別の語で区別する。また、碑文から「紫布染色職人」にも裕福な人がいたことが分かっている(例外的な存在かも知れないが)。
「フェミニスト神学の山口里子さんはあんまり私の説を認めてくれないが、珍しくこの説は認めてくれました」と笑って話された。
ルカが描く異邦人は、宦官や百人隊長、キプロス総督などステータスの高い人々が多い。リュディアもある程度裕福であったか。
山口里子さんにしばしば「献さんは文献主義者で想像力が乏しい」と叱られてしまうとのことでした。

・ルカの男女のバランスの取り方
「ペテロの異邦人信徒のコルネリウス(男性)」の物語に対して「パウロの異邦人信徒のリュディア(女性)」を描いてバランスをとっている。

・リュディアがパウロの話を「聞いていた」という動詞は、「マリヤとマルタ」のマリアがイエスの話を「聞いていた」のと同じ動詞⇒模範的な信徒として描いている。
ルカは女性に対して受動的な役割を与える。

・長血女の癒し(ルカ 8:43-48 並行マルコ 5:25-34、マタイ 9:20-22)
「この方の服にでも触れればいやしていただける」(マルコ 5:28)と思ったという女の意思の部分をルカはカットしている⇒(受動的)
「苦しみ」(マルコ 5:29, 34)から解放されたこともカットしたり、表現を変えたりしている。

・ルカは女性が宣教したとは描いていない。
リュディアの受洗後も、家を提供したことまでしか描いておらず、彼女のリーダーシップへの関心はない。
フェミニズム神学のなかには、ローマの家父長制に組み入れられたリュディアを再植民地化していると評する学者もある。
これは確かに言えることかも知れない、と。

・「神を敬い人」
異邦人でユダヤ教の神を敬う人々がいたことがヨセフスや碑文に出てくる。女性が多かったとのこと。
川端に集まった女性たちはそのような人々であったのではないか。

女性が多い理由は分からない。
現代の教会で女性が多いのと同じなのではないでしょうか。
(ローマの諸宗教も)家父長制的でそれに比べて身を置きやすかったのでは。
キリスト教徒比較して、ユダヤ教はしばしば女性に抑圧的であると言われますが、ユダヤ教には知恵文学の伝統もあります。
知恵は女性名詞。神の属性を女性形で表現している。
ヨハネ福音書の冒頭にあるロゴスは男性名詞ですが、天から下るロゴスを知恵に置き換えてみると、キリスト教が知恵を男性化したことが見えてくる。
当時の家父長制的な宗教のなかではこれは突出していたのでしょう。

...などでした。

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ヤコブ 2:7 実に彼らではないか

οὐκ αὐτοὶ βλασφημοῦσιν τὸ καλὸν ὄνομα τὸ ἐπικληθὲν ἐφ’ ὑμᾶς;

(口語訳) あなたがたに対して唱えられた尊い御名を汚すのは、実に彼らではないか。

οὐκ /οὐ (~ない) 否定詞 
αὐτοὶ /αὐτός (彼らは) 人称代名詞 主格複数男性 
βλασφημοῦσιν /βλασφημέω (冒涜する) 動詞 - 現在能動直接法 三人称複数 
τὸ / (冠詞) 対格単数中性 
καλὸν /καλός (良い) 形容詞 - 対格単数中性 
ὄνομα /ὄνομα (名前) 名詞 - 対格単数中性
τὸ / (冠詞) 対格単数中性
ἐπικληθὲν /ἐπικαλέω (呼ぶ) 動詞 - アオリスト受動分詞 対格単数中性
ἐφ’ /ἐπί (~によって) 前置詞
ὑμᾶς /ὑμεῖς (あなたがたを) 代名詞 - 対格二人称複数

訳としては
「あなた方に告げられた良き名を、彼らが冒瀆しなかったか」
という感じでしょうか。

「 ; 」は疑問文であることを示してます。
ここまでのところはヤコブの手紙では否定文のところで疑問文になっていることが多いかなと感じます。

否定詞の「οὐ ~ない」は、次に続く語が母音から始まるので「οὐκ」に変化してます。
「οὐ」は事実関係を否定する時に使われます。
願望や危惧などの主観的な内容に関わることは「μή」を用いるそうです。

「彼らは冒瀆しなかった… οὐκ αὐτοὶ βλασφημοῦσιν」のところは「彼らが αὐτοὶ 」という語が省略されずに書かれているので、ちょっと強調されているのでしょう。
口語訳だと「…御名を汚すのは、実に彼らではないか」
新共同訳だと「また彼らこそ…(略)…冒涜しているではないですか」
と強調されてますね。

「良き名前 τὸ καλὸν ὄνομα」はまぁ何ともないのですが、次のところはちょっと戸惑いました。
「τὸ καλὸν ὄνομα τὸ」と読んでしまって、冠詞が後ろについてるのかと思った。
「τὸ καλὸν τὸ ὄνομα」ならば、良い名前となりそうだけど…と思ったら冠詞は次の語についてたんですね。
つまり、「良い名前 τὸ καλὸν ὄνομα」「呼ばれた(もの) τὸ ἐπικληθὲν」が並列にならんでたんですね。動詞の分詞に冠詞をつけるという感覚はまだピンと来ないなぁ。

「ἐπικληθὲν」という語は、ἐπί + κληθὲν が組み合わさっている。
κληθὲν の元は καλέω だけど微妙な変化の仕方だなぁ。
καλέω は音からすると call と同じ語源なのかも。
(今、チョコチョコ勉強している使徒行伝の 16:10 に προσκέκληται という似た語がありますね)

「ἐφ’ ὑμᾶς」は、元の形は「ἐπί ὑμᾶς」。
「ἐπί」のように短母音で終わる語は、次の語が母音から始まる語が続くと、発音しやすいように末尾の母音が省略されています。
π ⇒ φ への変化は、続く ὑμᾶς の気息音が影響したもののようです。
「ἐπί + 対格」で「~の方に」となるので、「あなたがたの方に」というような意味。

どうも「あなた方が呼んでいる名前」と訳したくなるのですが、どうも訳しにくい。
「あなた方の方に呼ばれた名前」となる。
「呼ばれた」と受け身なのですが、あなた方「に」呼ばれたのではない。
あなた方「を」呼んだわけですが、「良き名前」が呼んだわけではない。「良き名前」は呼ばれた側です。
誰が呼んだのか分からなくて解釈にウロウロしますね。

なんでこんな持ってまわった表現をするのでしょう。
呼んだのは神で、神が示した名前(=イエス)ということなのかいな。
神の行いを受動表現したということかな。
でも神が言ったとて、イエスの名前だったらそう勿体をつけて表現しなくても良さそうな気がします。

洗礼の時にキリストの名が唱えられたことを指しているという解釈もあるそうです(辻学氏「ヤコブの手紙」p116)。
2:1の流れからするとイエスを指してるけど。
でも、直後に律法の話になりますね。隣人を愛せよという命令は、イエスの発言に限定できるような話ではないし(レビ記 19:18)。

うーむ。自分たちに示された名前といえばヤハウェの方だったのではないかいな。
ヤコブさんはずっとヤハウェとイエスをワンセットで呼んでいて、彼の意識のなかでも厳密には区別してないのかも…などと思った。

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使徒行伝16:16-18 パウロはたまりかねて振り向き

(使徒行伝16:16-18)について予習。

「祈りの場 προσευχὴν」は前回も出た語ですが、いまひとつピンと来ないです。
「祈祷」と訳しておいてもいいような。
「祈祷」があると思って川辺に行って、そこに女性たちが集まっていてパウロたちは話をした。
「祈祷」に行くと、占い師の女奴隷に会ったと…訳せばそれでいいような気もします。
「祈りの場」というと何か施設があるみたいですが、川辺にそのまま座って話しているような感じですし。

新共同訳、口語訳で16:16は「祈りの場所に行く途中」と訳されていますが、どうして「途中」と訳せるのか分からないな。
祈りの場に到着してから女奴隷に会ったとは書いてないので、まぁ途中なのかなと思うけど。
「~へ行くと」とか「~へ出かけると」ぐらいの意味かなとは思いますが。
祈りの場に向かうと女奴隷に出くわしたという文脈だから、途中と訳しているのだろうか。

途中ということは、この女占い師は、祈りには参加してなかったということか。
それが道ばたでパウロに会ったからと言って、なぜ「いと高き神の僕」だと思うのでしょう。
占いの力でパウロがやっていることを見抜いたのだと言いたいのだろうか。
それならば、ちゃんと占いのパワーがあったけど、それを台無しにしてしまったという話なのでしょうかね。
占い師とはいえ道で会っただけで何か分かるわけもなかろう。
パウロがここで知りあった女に占いを辞めさせてトラブルになったのだけど、金儲けが目当ての連中は文句を言っても、その女占い師はパウロを「いと高き神の僕」と認めているんだよ、というだけ話だったのかも。占いで女が「いと高き神の僕だ」と言い当てた方が面白いのでこんな話になった感じがします。パウロは預言を重んじますが、こういう占ないは馬鹿にしそうな気がします。

イメージ的にはシモン(使徒 8:18-20)のエピソードと重なるのですけど、関係ないのかな。
訳してみると下記のような感じになりました。


16
Ἐγένετο δὲ πορευομένων ἡμῶν εἰς τὴν προσευχὴν
παιδίσκην τινὰ ἔχουσαν πνεῦμα πύθωνα ὑπαντῆσαι ἡμῖν,
ἥτις ἐργασίαν πολλὴν παρεῖχεν τοῖς κυρίοις αὐτῆς μαντευομένη.
また、このようなことがあった。祈りの場へ我々は行くと、
預言の霊をもつ女奴隷に会った。
彼女は占なって多くの利益を彼女の主人にもらたしていた。


17
αὕτη κατακολουθοῦσα [τῷ] Παύλῳ καὶ ἡμῖν ἔκραζεν λέγουσα·
οὗτοι οἱ ἄνθρωποι δοῦλοι τοῦ θεοῦ τοῦ ὑψίστου εἰσίν, οἵτινες καταγγέλλουσιν ὑμῖν ὁδὸν σωτηρίας.
彼女はパウロと我々についてきて叫んでまわった。
これらの人たちはいと高き神の僕であり、救いの道を宣べ伝えていると。


18
τοῦτο δὲ ἐποίει ἐπὶ πολλὰς ἡμέρας
διαπονηθεὶς δὲ Παῦλος καὶ ἐπιστρέψας τῷ πνεύματι
εἶπεν παραγγέλλω σοι ἐν ὀνόματι Ἰησοῦ Χριστοῦ ἐξελθεῖν ἀπ’ αὐτῆς·
καὶ ἐξῆλθεν αὐτῇ τῇ ὤρᾳ.
幾日も彼女はこうしてまわっていた。
パウロは苛立って、振り返って霊に言った。
イエス・キリストの名において彼女から出るように私は命ずる。
するとその時、出て行った。

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