« ヤコブ 2:7 実に彼らではないか | トップページ | ヤコブ 2:8 律法を守るならば、それは良いことである »

聖書講座に行ってみた3

荒井献氏の聖書講座が中野桃園教会であったので行ってみました。
第3回「フィリピにて①」

「福音と世界」の「新約釈義 使徒行伝」をテキストに講義されてます。
今回は四冊分(使徒行伝16:11-16:18)の範囲です。

・フィリピとはどういう都市か
植民市(コローニア)。租税の免除などの特権。イタリア本土と同等に扱われる。(ローマの統治については弓削達氏の本に詳しい)
ローマ軍の除隊兵とイタリア農民が移住し、ローマ的・軍事的な性格が与えられた。
住民は自分自身をローマ人であると意識していた。

・フィリピは実は第一の都市ではない
「マケドニアの地域の第一の都市」(16:12 荒井訳)のところに異読がある。
フィリピは4つの区のなかでは第一の都市であるが、マケドニアの第一の都市ではない。
新共同訳は「マケドニア州第一区の都市」と「区」を補って地理的に正しく訳している。
この表現はおそらくルカが多少誇張していると思われる。

・「祈りの場」
現在フィリピの「リュディア受洗チャペル」がある場所は発掘から川端にあったことが判っており、荒井氏は「こういう教会が建っていても通常当てにならないものですが、この場所は正確なのではないか」とのこと。
境壁法(外来の宗教の集会所は境壁の外でなければならない)にも合致する伝承。
ルカはここだけ会堂と呼んでいない。これはこの地域の呼び名であったのをルカが知っていて書いたのではないか。

・フェミニスト神学
集まりに女性が多かった理由として、女性の性的少数者(レズビアン)の集まりだったのではないかという注解書もあるが、まったくの想像に過ぎない。
またリュディアを「紫布染色職人」と見て、奴隷職人であったとみるものが多い。
これは英語の注解書に多い説であるが、ラテン語ではpauperariusは「紫布商人」とも「紫布染色職人」を意味しても、ギリシャ語では別の語で区別する。また、碑文から「紫布染色職人」にも裕福な人がいたことが分かっている(例外的な存在かも知れないが)。
「フェミニスト神学の山口里子さんはあんまり私の説を認めてくれないが、珍しくこの説は認めてくれました」と笑って話された。
ルカが描く異邦人は、宦官や百人隊長、キプロス総督などステータスの高い人々が多い。リュディアもある程度裕福であったか。
山口里子さんにしばしば「献さんは文献主義者で想像力が乏しい」と叱られてしまうとのことでした。

・ルカの男女のバランスの取り方
「ペテロの異邦人信徒のコルネリウス(男性)」の物語に対して「パウロの異邦人信徒のリュディア(女性)」を描いてバランスをとっている。

・リュディアがパウロの話を「聞いていた」という動詞は、「マリヤとマルタ」のマリアがイエスの話を「聞いていた」のと同じ動詞⇒模範的な信徒として描いている。
ルカは女性に対して受動的な役割を与える。

・長血女の癒し(ルカ 8:43-48 並行マルコ 5:25-34、マタイ 9:20-22)
「この方の服にでも触れればいやしていただける」(マルコ 5:28)と思ったという女の意思の部分をルカはカットしている⇒(受動的)
「苦しみ」(マルコ 5:29, 34)から解放されたこともカットしたり、表現を変えたりしている。

・ルカは女性が宣教したとは描いていない。
リュディアの受洗後も、家を提供したことまでしか描いておらず、彼女のリーダーシップへの関心はない。
フェミニズム神学のなかには、ローマの家父長制に組み入れられたリュディアを再植民地化していると評する学者もある。
これは確かに言えることかも知れない、と。

・「神を敬い人」
異邦人でユダヤ教の神を敬う人々がいたことがヨセフスや碑文に出てくる。女性が多かったとのこと。
川端に集まった女性たちはそのような人々であったのではないか。

女性が多い理由は分からない。
現代の教会で女性が多いのと同じなのではないでしょうか。
(ローマの諸宗教も)家父長制的でそれに比べて身を置きやすかったのでは。
キリスト教徒比較して、ユダヤ教はしばしば女性に抑圧的であると言われますが、ユダヤ教には知恵文学の伝統もあります。
知恵は女性名詞。神の属性を女性形で表現している。
ヨハネ福音書の冒頭にあるロゴスは男性名詞ですが、天から下るロゴスを知恵に置き換えてみると、キリスト教が知恵を男性化したことが見えてくる。
当時の家父長制的な宗教のなかではこれは突出していたのでしょう。

...などでした。

|

« ヤコブ 2:7 実に彼らではないか | トップページ | ヤコブ 2:8 律法を守るならば、それは良いことである »

聖書講座」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 聖書講座に行ってみた3:

« ヤコブ 2:7 実に彼らではないか | トップページ | ヤコブ 2:8 律法を守るならば、それは良いことである »