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ヤコブ 2:1 我らの主イエス・キリストの栄光

Ἀδελφοί μου, μὴ ἐν προσωπολημψίαις ἔχετε τὴν πίστιν τοῦ κυρίου ἡμῶν Ἰησοῦ Χριστοῦ τῆς δόξης.

(口語訳) わたしの兄弟たちよ。わたしたちの栄光の主イエス・キリストへの信仰を守るのに、分け隔てをしてはならない。

Ἀδελφοί /ἀδελφός (兄弟よ) 名詞 - 呼格複数男性
μου /ἐγώ (私の) 人称代名詞 - 一人称 所有格・属格単数
μὴ /μὴ (~ない) 分詞 - 主格
ἐν /ἐν (前置詞) 
προσωπολημψίαις /προσωποληψία  名詞 - 与格複数女性
ἔχετε /ἔχω  動詞 - 現在能動命令法二人称
τὴν /ὁ  定冠詞 - 対格単数女性
πίστιν /πίστις  名詞 - 対格単数女性
τοῦ /ὁ  定冠詞 - 所有格・属格単数男性
κυρίου /κύριος  名詞 - 所有格・属格単数男性
ἡμῶν /ἡμεῖς  人称代名詞 - 一人称所有格・属格複数
Ἰησοῦ /Ἰησοῦς  名詞 - 所有格単数男性
Χριστοῦ /Χριστός  名詞 - 所有格単数男性
τῆς /ὁ  定冠詞 - 所有格・属格単数女性
δόξης /δόξα  名詞 - 所有格・属格単数女性

「私の兄弟たちよ、我らの主イエス・キリストの栄光の信仰を持って、人をえこひいきしてはならない」というような訳になりそうです。

Ἀδελφοί は、呼格。「兄弟達よ」と呼びかける時の言い方。
この語に由来する語でよく耳にするのは「フィラデルフィア」という地名で、ギリシャ語で兄弟愛を意味します。

ギリシャ語では、主格(~が)、与格(~に)、所有格・属格(~の)、対格(~を)などを単語の語尾の変化で表わす。
μου は「私の」という所有格・属格の形。語尾が ου に変化する。
τοῦ
κυρίου
Χριστοῦ
なども所有格・属格です。格変化の中で一番覚えやすいと思います。
「~を」という対格は、「πίστιν 信仰を」が出てきています。

προσωπολημψίαις は、προσωποληψία (分け隔てる) の与格複数の形。
与格というのは、日本語で「~に」で表わされる。動詞の間接目的語。

前置詞 ἐν (~において)がついているので、「ἐν προσωπολημψίαις」で「分け隔てにおいて」という意味になるのか。
προσωποληψία はレキシコンで調べると、「respect of persons」という意味が出てきます。
えこひいきするとか、差別待遇するという意味のようです。

προσωπολήπτης (分け隔てる)という単語は見た目にも長いです。
πρόσωπον (顔) + λαμβάνω (取る) が組合わさっている。

なぜ「顔をとる」という表現がえこひいきや差別待遇を意味するのか。

田川建三氏の「新約聖書 訳と註 1」p378の解説によると、
パウロにもこの「顔を取ること」という表現があり。これを、人によって差別するという意味で用いているが、これはヘブライ語の表現の直訳なのだそうです。
七十人訳でも同じ表現(顔を取る)で出て来るそうです。レヴィ記19:15、列王記 3:14、ヨブ記 42:8。また「顔を見る」という言い方で申命記 10:17にあるそうです。

πρόσωπον (顔) という語は、 πρός (「~について」という前置詞) + ὀπτάνομαι (現れる) が組合わさっているようです。

πρόσωπον (顔) は προσώπου が(ヤコブ 1:11)に出てきます。
λαμβάνω (受ける・取る) は λήμψεταί が(ヤコブ 1:7, 1:12)に出て来てます。

後半は「信仰を/主の/我らの/イエス・キリストの/栄光の」という語順なのですが、
辻学氏の注解書によると、この語順が不自然であるため色々議論されているようです。
とくに最後の「栄光の」という意味がはっきりしない。
ヤコブの手紙の著者はイエス・キリストについて言及することが非常に少ないため、元来はユダヤ教文書であったものに後に「イエス・キリスト」の名前を挿入してキリスト教化したものではないか、という仮説もあったそうです。
そのような説が出て来る原因は、この部分の表現が不自然で、「我らの栄光の主」とあったところに「イエス・キリストの」を挿入したように見えることがあるそうです。
ですが、挿入の仕方として「イエス・キリスト、我らの栄光の主」としてもよかったはずであるので、称号の間に後から挿入するというのは不自然であると辻氏は論じています(p104)。
「栄光」という語の意味について、辻氏の解釈は説得力があります。下記に引用します。

「我らの主イエス・キリスト」という表現はしばしば、神への感謝や祈祷のことばの中で、定型的に用いられる。これは礼拝の中での言葉づかいを反映したものであろう。「栄光」も同じである。この語は、新約聖書においては、とりわけ頌栄という形で用いられている。おそらく、ここで言われている「栄光」とは、キリスト教徒が礼拝の中で、神ないしキリストに帰する「栄光」なのである。つまり、「君たちが礼拝の中で、『我らの主イエス・キリストに栄光あれ』と称えている方」という意味がこの表現には込められていると考えられる。この解釈は、続く2節が、礼拝の場面を描写していることとうまく合致する。(「ヤコブの手紙」辻学著 p105)

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