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原始教会考察

パウロの書簡によれば、復活のイエスが最初に現れたのはペテロです。
…でも、一番弟子のわりにペテロへイエスが現れる伝承は印象が薄い。
ペテロに現れ、その体験から宣教したことが原始教会のはじまりになる重要な証言のはずなのに。

ペテロの最初期の証言についての考察。

 (1コリント 15:3-8)
 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。
 すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、
 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
 次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。
 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、
 そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。

上記のように、パウロによれば、復活のイエスが最初に現れたのはペテロです。
しかし、福音書ではこの伝承の印象が薄い。

【マルコ福音書】
マルコ福音書は、イエスの墓が空になっていることだけを示して、ペテロにどのように現れたのか書かれていない。
(重要な写本ではマルコ福音書は16:8で終わっており、それ以降の部分は後年の付加)

【マタイ福音書】
マタイ福音書は、マルコ福音書(16:7)に示唆されているように十一人の弟子はガリラヤの山で復活のイエスに会ったとしている(マタイ 28:16以下)。
でも、「イエスに会い、ひれ伏した」(マタイ 28:17)と描写はほぼ一言で片づけてしまっている。ペテロが先かどうかはこの書き方からは分からない。

【ルカ福音書】
ルカ福音書は、弟子の二人がエマオに向かって歩いている時にイエスと遭遇する。「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」(ルカ 24:33-24)と、戻ってみるとシモン(ペテロ)にすでに現れていたと事後報告される。
ルカは、マルコ福音書に示唆されているようなガリラヤでの顕現は描かない。
「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」(マルコ 16:7)の部分は、
「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい」(ルカ 24:6)のように改変されている。
この改変の仕方からしてルカは、ガリラヤでの顕現は描く気はないのでしょう。

【ヨハネ福音書】
ヨハネ福音書には、ペテロへの顕現が描かれています(マグダラのマリアに先を越されてますが)。
しかし、21章は全体の構成からすると、後年の付加と考えられます。
20章の最後で福音書はしめくくられています。

ヨハネ福音書 20:19-29についてブルトマンは、
「復活者のさらなる顕現は期待されていないだけでなく、期待すべきでないというふうに語られる。20,22-23で弟子たちへ委託がなされた後、その弟子たちが証言に出てゆく代りに、もはや何ら正当な意味をもたないはずの新たな顕現を再び体験するためにガリラヤ湖で漁業に従事していることは、驚きを通り越している」(ヨハネ福音書 p554)
とのこと。

なるほど、ブルトマンは流石に鋭い。
で、ペテロの伝承ですが、これまたちょっと曲者です。

 (ヨハネ福  21:1-13)
 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。
 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。
 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。
 彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。
 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」
 そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。
 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。
 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。
 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。
 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。
 弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。
 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。

この話は、以下のペテロがイエスに弟子入りする話に似ています。

 (ルカ 5:1 -11)
 イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると、神の言葉を聞こうとして、群衆がその周りに押し寄せて来た。
 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。
 そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。
 そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた。
 話し終わったとき、シモンに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と言われた。
 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。
 そして、漁師たちがそのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった。
 そこで、もう一そうの舟にいる仲間に合図して、来て手を貸してくれるように頼んだ。
 彼らは来て、二そうの舟を魚でいっぱいにしたので、舟は沈みそうになった。
 これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。
 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。
 シモンの仲間、ゼベダイの子のヤコブもヨハネも同様だった。
 すると、イエスはシモンに言われた。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」
 そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。

こうやって話を見比べると、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」というペテロのセリフはむしろ復活のイエスに遭遇した場面に適している感じがします。
イエスが死者から復活した存在であるから、ペテロは触れないように「離れてください」と言っているのでしょう。
つまりヨハネ福音書 20:17「わたしにすがりつくのはよしなさい」と同じような意味なのでしょう。
「恐れることはない」というセリフも神的な存在に対峙した時に人間が受ける呪縛を解くセリフのようです。
ペテロが「わたしは罪深い者なのです」というのは唐突です。
このセリフがイエスの復活の場面のセリフだとすると、イエスを裏切って逃亡したペテロの気持ちを表現しているものとして整合する。
また「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」というイエスの言葉の「今から」は、イエスの死後を指しているでしょう。

ペテロが復活のイエスに遭遇した経験は、なぜか弟子入りのエピソードと混同されて残っているのかも知れません。

ついでに言うと、イエスが嵐を止める場面と、湖の上を歩く場面は、読んだ印象ではこのペテロの伝承が枝分かれしたものではないでしょうか。
嵐になって一晩中湖で苦しんでいるというシチュエーションが酷似しています。
そこに突如イエスが現れて驚くという伝承なのですが、この話が伝えられるなかでちょっと尾ひれがついて、
イエスが嵐を止めてくれたのだろうとか、大漁になったとか、湖上で現れたのならば水の上を歩いたのだろうなどと、話が膨らんだのかも。

 (マルコ 6:47-52)
 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。
 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。
 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まり、弟子たちは心の中で非常に驚いた。

 (マルコ 4:35-41)
 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。
 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

ペテロに復活のイエスが現れた証言は、このようなところに形を変えて生きているのかも知れないなぁと。

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