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ヤコブ 1:26 舌を制することをせず

Εἴ τις δοκεῖ θρησκὸς εἶναι μὴ χαλιναγωγῶν γλῶσσαν αὐτοῦ ἀλλὰ ἀπατῶν καρδίαν αὐτοῦ, τούτου μάταιος ἡ θρησκεία.

(口語訳) もし人が信心深い者だと自任しながら、舌を制することをせず、自分の心を欺いているならば、その人の信心はむなしいものである。

Εἴ /εἰ  (もし~なら) 条件文
τις /τὶς (だれかが) 不定代名詞 主格単数男性
δοκεῖ /δοκέω (~と考える) 動詞 現在能動直接法 三人称単数
θρησκὸς /θρησκός (信心深い) 形容詞 主格単数男性
εἶναι /εἰμί (~である) 動詞 現在直接法
μὴ /μή (~でない) 分詞 主格
χαλιναγωγῶν /χαλιναγωγέω (くつわ、制御する) 動詞 現在能動分詞 主格単数男性
γλῶσσαν /γλῶσσα (舌) 名詞 単数対格女性
αὐτοῦ /αὐτός (彼自身) 人称代名詞 所有格・属格 単数男性
ἀλλὰ / (その上、さらに) 接続詞
ἀπατῶν / (欺く) 動詞 現在能動分詞 主格単数男性
καρδίαν / (心) 名詞 対格単数女性
αὐτοῦ /αὐτός (彼自身) 人称代名詞 所有格・属格 単数男性
τούτου / (この) 指示代名詞 所有格・属格 単数男性
μάταιος / (価値のない、役に立たない、ろくでもない) 形容詞 所有格・属格 単数男性
 / (冠詞) 定冠詞 主格単数女性
θρησκεία / (宗教、信仰) 名詞 主格単数女性

「もし誰かが信心深いと考えて、舌を御することなく、その上彼自身の心を欺くならば、この人の宗教はむなしい」という感じでしょうか。
単語の性がどう掛かっているのかいま一つ理解できませんが。なのでカンニング気味です。

「宗教θρησκεία」という語は、礼拝や祈りなどの宗教的な行為を指すそうです(辻学著「ヤコブの手紙」p97)。
他の用例では「偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から」(コロサイ 2:18)の「礼拝」と訳されている語がそうです。
また「私たちの宗教の中でいちばん厳格な派である、ファリサイ派の一員として…」(使徒 26:5)の「宗教」のもとにある語も同じです。

「鏡の譬え」(ヤコブ1:22-25)で、律法を見つめてとどまり、忘れず行うことが大事だと言った後に、すぐ舌を御するようにとヤコブは言います。
「その上、さらにἀλλὰ」という語がついているので、舌を制することなく、さらに「自分の心を欺いてる」ような宗教は無益なものだと言っているようです。
「心を欺く」というのは、まぁつまり鏡の譬えに出て来たように、律法を行わないことを指しています。
心と律法の関係として、ひょっとすると念頭にあるのはエレミヤ 31:33-34でしょうか。

 エレミヤ 31:33-34
 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。
 すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。
 わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。
 それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。
 わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

ヤコブは知恵は神に求めれば与えられると言い(1:5)、心に植えつけられた御言葉を受け入れるように(1:21)と呼びかけていますが、
エレミヤにある「わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす」が念頭にあったのでしょうか。

パウロの書簡などでも、時折キリスト教徒はもう罪から解放されて、罪を犯すことがないのだと主張しているようなところがあります。
もしくは、ヘブライ人への手紙の10章なども、生贄を廃することができる理由として、罪の赦し(つまり、もう罪から解放されている)ということを前提にしているようです。
このあたりは、微妙に同じことを語っているのでしょうか。
「それらの日」に、つまり、神が民と新しい契約を結ぶ時、…おそらく終末の日のことか。その時に、人々の心の中に律法を書き記す。
そうなれば、もう人は罪に問われることはない。もう神から罪は問われない、と。
ヤコブが「完全な自由の律法」と呼んでいるのは、このようなもののことでしょうか。

しかし、そこに「自分の心を欺いて」いる人がいる、とヤコブさんは言っている。
聞くだけで行わない者。
自分は信心深いと自負しながら(…ということは結構宗教的なことを行っているということですが)、舌を制することがない人。
そんな人が行っている宗教・礼拝などむなしいものだ、と。

ここで批判されているのは、ある種の「行い」のようです。
宗教について熱心に行っていたとしても、心を欺いている(心の律法を聞くだけで行わない)者の礼拝などつまらんものだと。
礼拝や儀式は行っているけど、心を欺く部分がある。
ニュアンスとしては、律法の趣旨に反して、形式的に行っている、ということでしょうか。たぶん、下記の言葉と同じ意味なのかなと。

 (マタイ 23:23)
 偽善な律法学者、パリサイ人たちよ。あなたがたは、わざわいである。
 はっか、いのんど、クミンなどの薬味の十分の一を宮に納めておりながら、
 律法の中でもっと重要な、公平とあわれみと忠実とを見のがしている。
 それもしなければならないが、これも見のがしてはならない。

神殿税に収穫の薬味を十分の一を測って納めるのに、肝心の心の部分が欠けてるではないかと。
こういう形式主義的な部分などよりも、法の主旨をつかまないといかんじゃないかというものでしょうかね。

舌を制することなく、何を言っているのか。自分では信心深いつもりの人が「心を欺いて」語ってしまうものとは何でしょう。

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