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ヤコブ 1:22

Γίνεσθε δὲ ποιηταὶ λόγου καὶ μὴ μόνον ἀκροαταὶ παραλογιζόμενοι ἑαυτούς.

(口語訳) そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。

Γίνεσθε /γίνομαι (なりなさい) 動詞 - 現在 中動/受動異体 命令法 二人称
δὲ /δὲ (しかし) 接続詞
ποιηταὶ /ποιητής (行う者) 名詞 - 主格 複数 男性
λόγου /λόγος (言葉) 名詞 - 所有格・属格 単数 男性
καὶ /καὶ (そして、また) 接続詞
μὴ /μὴ (~ない) 不変化詞
μόνον /μόνος (ただ) 副詞
ἀκροαταὶ /ἀκροατής (聞く者) 名詞 - 主格 複数 男性
παραλογιζόμενοι /παραλογίζομαι (欺く) 動詞 - 現在中動/受動異体 分詞 - 主格 複数 男性
ἑαυτούς /ἑαυτοῦ (彼自身) 再帰代名詞 - 三人称 対格 複数 男性

音声は語順がちょっと違いますね(ἀκροαταὶ μόνονとなってます)。

「また、彼自身を欺く単なる聞き手ではなく、言葉を行う者となりなさい」という感じでしょうか。

ここから鏡の譬え(ヤコブ 1:22-25)が出てきますが、分かりにくい譬えです。

(ヤコブ 1:22-25)
22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

たぶん、鏡を眺めてばかりで何もしない人をイメージしているのではないかと思います。
鏡に「生まれつきの顔」を映して見ているつもりの者は、「おのれを欺いて、ただ聞くだけの者」に似ている。
そのような人は鏡から離れると、自分の姿を忘れてしまうからである(「からである γὰρ」が24節にはある)
鏡ではなく、律法を見つめてとどまる者は、忘れることなく行う者である。

たぶん、鏡のなかの虚像を自分の本当の姿だと思い込んでいると(おのれを欺いて)、本質から外れたものを求めているだけなので行動に結びつく活力を得ることができず、聞くだけに陥るという意味かと。
鏡のなかの「自分の生まれつきの顔」というのが虚像に過ぎないと考えると、そのように解釈できそうです。
1:21「心に植えつけられている御言」と呼んでいるのですから、神の言葉はすでに自分自身と一体になったものであり、何か押しつけられた重荷であるとは捉えられてはいない。

文脈はそのまま貧しい者を差別してはならないというものに向かいます。
ヤコブの手紙の著者にとって、神の言葉を行うことは、貧しい者を差別したりしないことと直結しているようです。
「完全に」律法を実行するというと、実行不能な話としてとらえられそうですが、そのような文脈で語っているようすはないです。
「自由の律法」(1:25、2:12)と呼んでいますので、枷として理解はされていない。
ヤコブの時代に、貧者を守るものが律法しかなかったならば、それは守られねばならないものと切実に感じられたのかも知れません。

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