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「天地創造」博物館

聖書の記述を再現した博物館があるそうだ。

…でも、なぜか恐竜が展示されてる。アダムとエバの子孫が恐竜と暮らしたと考えられているからだ、とレポーターが解説してますが、これは驚き。
展示自体はフリントストーンみたいで面白そうな感じだけど…。

宗教ってのは大変だな。
科学にもとづいていないことはともかく、聖書にももとづいていないんじゃないの。

でも、まぁ宗教というものは、そういうものです。

SKID ROW の「QUICKSAND JESUS」の歌詞なんか思い浮かべたりしますけど。

 神の恵みが迷路のように絡み合い
 「真理」という名の病が
 抱かれては崩れていく
 それでも俺達は信じたいと願い続け
 新しい宗教に惑わされては
 魂の真実の姿を見失っている

 A maze of tangled grace
 The symptoms of 'for real' are crumbling from embrace
 But still we chase...the shadows of belief
 And new religion clouds our vision of the roots of our souls

真実を見失って、空しい瑣末な現実を突きつけられて、苦悩する姿に共感させられるけど。
行き着く先がフリントストーンの世界だったら嫌だな。

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先日、ジョン・ヒューストン監督の「天地創造」を観たが、アダムとエバのエデンの園の場面あたりに不満がどうも残ってしまった。
どこか中途半端に科学が入り込んでしまっている気がするんですね。
大地を創った場面で、地面が溶岩が流れる火山のような状態で、どこか原始の地球をイメージしている気がしてしまう。
海ができた時に、波打ち際にもうもうと水蒸気が上がっているのを見ると、大地が熱していて冷めていないのかなと。
でも、聖書にはそんなことは書かれていない。
これは中途半端に科学を持ち込んで解釈してしまっているように思えます。
聖書に書かれている通り、まるっきり非科学的に描けばいいと思うのですが。

創世記 1:2の「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」というのは、表現しにくいけどCGなんぞで作ってみてほしいものです。

天地があると言っても、空が作られる前なのだから、巨大な洞窟みたいなイメージになるか。
混沌とあるのでイメージは、地はあちこち固まっておらず、いたるところがドロドロと沼のようになっていてブクブクと何かが噴き出し蠢いている感じ。
闇が深淵の面にある、とあるので、真黒な水があって、落ちて来た巨大な岩も飲み込んでしまう底知れない深さがある。
どんより淀んだ空間を、白い煙のような霊が漂って流れて行く。
…僕のイメージは不気味な感じです。
アニメの「ドロロンえん魔くん」のオープニングが僕の持ってるイメージに近いです。実は。
地獄みたいな感じです。

そういう世界が最初にあって、「光あれ」で一転して混沌としたものが一掃される。
僕のイメージではドロドロ蠢いていた沼地のようなものが光を受けて固まってしまう感じ。
水は濁りを失って、澄んでゆく。
光線(日光ではない)はゆっくり弱まってゆき、やがて夕べになり、闇がくるが、混沌は戻ってこない。
そして朝が来る。

「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」
これは洞窟のようなドロドロ世界が二つに裂かれて、上の方が空になり、下の方が海になってゆくということでしょうか。
なんで土である洞窟が水になるんだ、と疑問をもたれるでしょうけど。
「地の混沌」というのは、シュメール神話のアプスー(淡水、深淵を意味するそうです。古代ギリシャではabyssos。a がwithout、byssosはbottomの意でbottomless、奈落という意味とネットで見つけました。混沌とした原始の海を指す)のことのようです。二つに裂かれて天と地になるというとティアマト(名前は塩水を意味するそうです)の伝承を元にしているようです。このあたりをゴッチャニして出来上がっている話のようですので、混沌の地と、深淵という世界を構成していた洞窟が裂けて空と海になる、というイメージで大して外れてないと思ってます。
空が青空になって、また光線が弱まってゆき、夕べがあり、また朝が来る。

「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」
これで沼地のようなものが固まって乾いた地面になる。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」
これは映画の「天地創造」のイメージが優れているように思えます。
朝もやのなかに木々が見えてくる。創造の瞬間を描くことはしない。緑の豊かな楽園が広がっているのが見える。
(Youtubeで見かけたアニメでは、植物の登場の順番をシダ植物から被子植物へと進化の順に描いてしまっていた。そういうのは科学を半端に持ち込んでしまっていると思う。そうではなくて、パッと植物が生えてくるイメージにすべきだと思う)
そして夕べがあり、朝がくる。

「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ」
青空に突如太陽が現れる。
絵を描くように。青空があって、そこに太陽を描き足すように現れる。

このあたりは、聖書に書いている通り、バカバカしく思えてもそのまま描けばいいのです。
そうすれば、中途半端に科学を持ち込めるなどと勘違いすることもなくなる。
創造科学なんぞにとどめを刺すものがあるとすれば、聖書の通りに描くことで十分なのであって、半端に科学的に整合させようなどという発想は捨てた方がいい。
信仰者は書いている通りに描けば、文句は言わないはずだし、一般の人がそれはありえない話だと思えばそれで済むことです。

あと、この神の声なんですが、ここはP資料なので、祭司が偉そうに唱えている感じに演出してほしい。
そして、J資料である2章は語り方が変わる。
昔話の語りのような、素朴な口調で演じてほしい。
「その日ヤハウェ神は土くれから人を造り、彼の鼻に生命の息を吹き込まれた。そこで人は生きた者となった」(2:7 関根訳)

そして、早速アダムは耕し始める(2:15)。
正直に言って2:15で「守る」というのは、一体誰から何を守るつもりなのかよく分からないや。
獣から畑を守るという意味か。
エデンの園は、獣と人間が平和に暮らす世界というイメージがあるけど。狼と一緒に小羊が眠る世界。…たぶん、獣から守るのではない。
荒れ果てた状態にならないように耕作を管理するような意味か。
どちらにしても、はじめからアダムは耕作をする。
耕作をしていると、楽園から追放されて「耕作しなければならなくなる」という話の重みがいまいち伝わらなくなるが、それは仕方ない。
この物語を語っている人は、日々耕作することは当たり前だったので、耕作をしない人をイメージすることができなかったのかも知れない。
茨とあざみに悩まされることや、パンを得るために苦しむことの理由が問題になっているだけです。
神から楽園の管理人としての任を解かれたということも、不幸としてあるのかも知れません。
その細かなニュアンスを捉えるためにも、アダムの耕作は描いて欲しいところです。

聖書の記述通りに映像化しても、映画として面白くないとどちらにしても観る価値はないので、そのあたりのバランスをとった作品がいいのでしょうけど。

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