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2009年9月

即興

誰が言っていたか忘れたし、正確な言い回しも忘れたが、
「ジャズの即興演奏は、繰り返しや定型的な形式を否定するものではなく、むしろその上に成り立っている」
というような言葉を聞いたことがある。
即興演奏というもっとも先鋭的な部分が、単純なコード進行や冗長な繰り返し、使いまわしの手癖フレーズなどによって成立するというのは逆説的な話しだ。

「裸のランチ」という映画はバロウズの小説を元に制作されている。
と言っても原作の難解な筋書きを映像化することは断念し、その雰囲気だけを取り入れて、ストーリーの大筋はバロウズの半生記を描いている。

害虫駆除の仕事をしているウィリアム・リー(つまりこれがバロウズ)は、妻が殺虫剤を麻薬として使っていることに気づく。
彼女に誘われるままウィリアムも殺虫剤を試してみる。
その幻覚の中で…現実と幻覚の区別は曖昧でどこからどこまでが薬物による幻覚なのか区別がつけ難い描き方なのだが…ウィリアムは警察から事情聴取を受ける。
取調室で待たされていると、タイプライターぐらいのデカさの巨大なゴキブリが現れて、スパイとしてウィリアムを雇うという、そして妻を殺し、レポートを提出せよと言う。

この話は、薬物に溺れたバロウズが妻と拳銃でウィリアム・テルごっこをして、誤って殺害したことが下敷きになっている。
バロウズはそれを作品に書き、作家となった。
「裸のランチ」は、薬中の幻覚のなかで指令を受けたウィリアムがウィリアム・テルごっこをして妻を殺害し、それを「レポート」するまでを描く。
不快な出来事を追体験しなければ「レポート」できない。
苦痛をともなった体験を自身の中で再現して見せる作家魂を、クローネンバーグ監督がグロテスクでエロティックな幻覚表現をもちいて描いている。

音楽にはオーネット・コールマンのサックスがフューチャーされている。
オープニングのタイトルクレジットも、結構好きなんです。
色のついた四角が流れてきて、交差する。そこに文字が浮かんで見えるだけなのですが、格好いいんですよ。

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昔読んだ本など

休みの間に机に山積みにしていた本を整理した。
新約聖書の関係の本が随分多くなった。

コリン・ウィルソンの「世界犯罪百科」上下は、学生時代に読んだ。
犯罪捜査の科学の歴史を辿った本で、膨大な数の事件を紹介している。
3ページに1件の殺人事件を扱うぐらいのペースで、残虐な事件が次々紹介される。
翻訳が出版された91年頃は、「羊たちの沈黙」が映画になった時期で、プロファイリングなどまだそれほど知られていなかった捜査技術について書かれていたのが面白かった。

コリン・ウィルソンを立花隆がインタヴューする番組があって、そこで立花隆の本を読むようになった。
「農協」「精神と物質」「宇宙からの帰還」の3冊は今でも時折読み返す。
凄まじい執念で調べ上げた内容を丁寧に解説する。感心しながら読んだ。
「巨悪VS言論」のなかでマックス・ウェーバーの権威の3類型(伝統的権威、カリスマ的権威、合法的権威)の説明がされていて、へぇー巧く分類したものだと感心した。

このあたりで神戸の震災で本は全部焼けてしまった。今ある本は買い直したものだ。

丸山眞男の「権力と道徳」(「丸山眞男集 第四巻」)は面白い。
「権力と道徳の関係をさかのぼって行くと、遂には両者の区別が見分け難いような時代に到達する。そこでは政治権力は外部的な強制力としてよりも、むしろある精神的な高速と意識され、逆に道徳は純粋に内面的な規範ではなくてきわめて具体的な感覚的実在性をもった規範として受け取られる」とし、そのような「権力と道徳の原始的な統一に現実的にくさびを打ち込んで行った大きな契機はどこでも政治権力における法体系の形成であるといっていい」とする。
「道徳はどこまでも人為的な形成でないというところにその規範力の基礎がある」のに対して、法は目的意識的な産物である。
ローマ帝国における皇帝の神化は、ローマ法の形式的支配として現れる。イデオロギーと実在の距離は大きく広がっていたその時に、内面的心情の倫理をもったキリスト教が成長してきたことについて「偶然というにはあまりに深い世界史的な意味をもっていた」とする。
そうして、キリスト教と政治との関係など、政治思想の発展を論じてゆくのですが、とても面白い。この他にも「忠誠と反逆」などもよい。
「権力と道徳」は、マックス・ウェーバーを下敷きにしていて、これを読んだあたりでいったいどんな学者なんだろうと興味を持って読んでみることにしました。

マックス・ウェーバーの「古代ユダヤ教」は面白い。
律法成立後に預言者が激減してゆくことの説明など、いろいろ興味深い説がある。
「宗教社会学」なども面白い。アニミズムなど素朴なものからキリスト教のような神学の発展したものまで概観している。

ウェーバーを読んで聖書に興味を持った頃に、「聖書は知られているか」(現代思想 98/4)という特集があった。
聖書学というものがあるのをはじめて知った。
聖書を研究してなぜ学問になるのか。所詮は宗教。宗教家が自分の思想を振り回すのを学問と称しているだけだろうと思った。
読んでみると、どうも批判的に学問をやっているようで、面白い。
田川建三、八木誠一、秦剛平、佐藤研、荒井献、大貫隆、土岐健治、木幡藤子などが寄稿している。今見るといいメンバーがそろっている。

「ダ・ヴィンチ・コード」(2006)を観て、さすがにこれはデタラメだろうと思って聖書を買って読んでます。
聖書を買って読んでみたものの、イマイチ理解できず。
何冊か聖書の解説本を読んだけど、これは金の無駄遣いだった。そこで、「聖書は知られているか」の学者さんの本を読んでみようと思った。
そうして田川建三氏の「書物としての新約聖書」を読んだ。

この本が面白かったので、今聖書関係の本を読み漁るようになってます。

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「A Ray Of Hope」 Desmond Child

「A Ray Of Hope」 Desmond Child

おぉ、大好きな曲を見つけた。
デズモンド・チャイルドは、KISSやBON JOVI、エアロスミスに楽曲を提供しヒットを飛ばしたソングライター。
この曲は「ディシプリン」というアルバムの中に収められたバラードです。

冒頭に山上の垂訓を引用している。
Blessed are the merciful, for they shall obtain mercy.
Blessed are the meek, for they shall possess the earth.

コーラス部分の歌詞はこんな感じ。

And I'll try everyday to be a better man
And Send a wave of love to everyone I can
And I believe that there's a ray of hope
A light that shining down from heaven

三番あたりの歌詞が好きだったりします。

「市街を歩いて目につくストリートの人々の生活は必ずしもいいものではない。
でも、知っているんだ。それもすべて神の計画の一部をなしているのさ。
罪人と聖者、我々みんなが手をとりあって歩いてゆくんだ。
だから僕らは努力しなければいけないんだ。より良い人間になるように毎日…」

ネットで歌詞を検索したけど、見つからない。
こんなに良い曲なのに、人気がないのか。

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サマリア

Samaria

『戒律に生きる~サマリア人3000年の祈り~』

youtubeで番組を見た。
サマリアの人々の伝統的な暮らしと、その伝統が危うくなっている現状が報じられている。
サマリア人は1000人ほどしかいないそうだ。
それで伝統を維持するのは大変だな。

アブラハムの「イサクの燔祭」がゲルジム山に位置づけられている。
長い歴史のなかで、たびたび弾圧を受けて来たサマリアの人々は、律法を守るなかでその弾圧に耐えて来たのだなぁと感じる。
旧約聖書の諸々の規定が、弾圧のなかで人々を結束させるものであることが分かる。
言葉と文字を守り、安息日ごとに聖書を読む。
(聖書にある食物の規定などは、おそらく異民族と一緒に食事をしないためのものかなと思う。食習慣などの生活習慣のギャップが引き起こす…嫌悪感などの…感情によって、民族的な結束を強めているのでしょう。たぶん、安息日も他の民族と違う習慣であるだけに、遵守されるべきことが求められるのかなと)

生理中の女性が穢れているとして、その女性が使う家具や食器、トイレ・風呂まで別にしてしまうというのは、ほとんど虐待に見えてしまう。
母親が、初潮をむかえた娘に食事を手渡す時に、娘に触れないように…娘が触れた食器にも触れないようにするために、娘の手の上に皿をポイと落として渡すのが印象に残る。

血というものが、穢れたものであるという意味かと思ったが、どうも番組を最後まで見ると印象が変わってきた。

番組の後半は、サマリアの過越しの祭りを報じている。
少年が犠牲の羊の血を額に塗っていた。
血というものが、穢れたものであるとされているならば、そんな真似はすまい。
血に、不可触な存在としての意味があるようです。
過越しの犠牲の血に、オカルティックな力があると考えるから、それに派生して経血がタブーになったように見えますね。

僕の感覚では、まぁ弾圧されているときには、宗教というものは自由のためにあり、民族の誇りと希望を守るためにあるというのは、何となく理解できますね。
これが平和の時代になると、宗教は自由に対立する存在になる。偏狭な民族主義と、うんざりさせるようなアナクロ思想に見えてきます。

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「天地創造」博物館

聖書の記述を再現した博物館があるそうだ。

…でも、なぜか恐竜が展示されてる。アダムとエバの子孫が恐竜と暮らしたと考えられているからだ、とレポーターが解説してますが、これは驚き。
展示自体はフリントストーンみたいで面白そうな感じだけど…。

宗教ってのは大変だな。
科学にもとづいていないことはともかく、聖書にももとづいていないんじゃないの。

でも、まぁ宗教というものは、そういうものです。

SKID ROW の「QUICKSAND JESUS」の歌詞なんか思い浮かべたりしますけど。

 神の恵みが迷路のように絡み合い
 「真理」という名の病が
 抱かれては崩れていく
 それでも俺達は信じたいと願い続け
 新しい宗教に惑わされては
 魂の真実の姿を見失っている

 A maze of tangled grace
 The symptoms of 'for real' are crumbling from embrace
 But still we chase...the shadows of belief
 And new religion clouds our vision of the roots of our souls

真実を見失って、空しい瑣末な現実を突きつけられて、苦悩する姿に共感させられるけど。
行き着く先がフリントストーンの世界だったら嫌だな。

---
先日、ジョン・ヒューストン監督の「天地創造」を観たが、アダムとエバのエデンの園の場面あたりに不満がどうも残ってしまった。
どこか中途半端に科学が入り込んでしまっている気がするんですね。
大地を創った場面で、地面が溶岩が流れる火山のような状態で、どこか原始の地球をイメージしている気がしてしまう。
海ができた時に、波打ち際にもうもうと水蒸気が上がっているのを見ると、大地が熱していて冷めていないのかなと。
でも、聖書にはそんなことは書かれていない。
これは中途半端に科学を持ち込んで解釈してしまっているように思えます。
聖書に書かれている通り、まるっきり非科学的に描けばいいと思うのですが。

創世記 1:2の「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」というのは、表現しにくいけどCGなんぞで作ってみてほしいものです。

天地があると言っても、空が作られる前なのだから、巨大な洞窟みたいなイメージになるか。
混沌とあるのでイメージは、地はあちこち固まっておらず、いたるところがドロドロと沼のようになっていてブクブクと何かが噴き出し蠢いている感じ。
闇が深淵の面にある、とあるので、真黒な水があって、落ちて来た巨大な岩も飲み込んでしまう底知れない深さがある。
どんより淀んだ空間を、白い煙のような霊が漂って流れて行く。
…僕のイメージは不気味な感じです。
アニメの「ドロロンえん魔くん」のオープニングが僕の持ってるイメージに近いです。実は。
地獄みたいな感じです。

そういう世界が最初にあって、「光あれ」で一転して混沌としたものが一掃される。
僕のイメージではドロドロ蠢いていた沼地のようなものが光を受けて固まってしまう感じ。
水は濁りを失って、澄んでゆく。
光線(日光ではない)はゆっくり弱まってゆき、やがて夕べになり、闇がくるが、混沌は戻ってこない。
そして朝が来る。

「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」
これは洞窟のようなドロドロ世界が二つに裂かれて、上の方が空になり、下の方が海になってゆくということでしょうか。
なんで土である洞窟が水になるんだ、と疑問をもたれるでしょうけど。
「地の混沌」というのは、シュメール神話のアプスー(淡水、深淵を意味するそうです。古代ギリシャではabyssos。a がwithout、byssosはbottomの意でbottomless、奈落という意味とネットで見つけました。混沌とした原始の海を指す)のことのようです。二つに裂かれて天と地になるというとティアマト(名前は塩水を意味するそうです)の伝承を元にしているようです。このあたりをゴッチャニして出来上がっている話のようですので、混沌の地と、深淵という世界を構成していた洞窟が裂けて空と海になる、というイメージで大して外れてないと思ってます。
空が青空になって、また光線が弱まってゆき、夕べがあり、また朝が来る。

「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」
これで沼地のようなものが固まって乾いた地面になる。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」
これは映画の「天地創造」のイメージが優れているように思えます。
朝もやのなかに木々が見えてくる。創造の瞬間を描くことはしない。緑の豊かな楽園が広がっているのが見える。
(Youtubeで見かけたアニメでは、植物の登場の順番をシダ植物から被子植物へと進化の順に描いてしまっていた。そういうのは科学を半端に持ち込んでしまっていると思う。そうではなくて、パッと植物が生えてくるイメージにすべきだと思う)
そして夕べがあり、朝がくる。

「天の大空に光る物があって、昼と夜を分け、季節のしるし、日や年のしるしとなれ。天の大空に光る物があって、地を照らせ」
青空に突如太陽が現れる。
絵を描くように。青空があって、そこに太陽を描き足すように現れる。

このあたりは、聖書に書いている通り、バカバカしく思えてもそのまま描けばいいのです。
そうすれば、中途半端に科学を持ち込めるなどと勘違いすることもなくなる。
創造科学なんぞにとどめを刺すものがあるとすれば、聖書の通りに描くことで十分なのであって、半端に科学的に整合させようなどという発想は捨てた方がいい。
信仰者は書いている通りに描けば、文句は言わないはずだし、一般の人がそれはありえない話だと思えばそれで済むことです。

あと、この神の声なんですが、ここはP資料なので、祭司が偉そうに唱えている感じに演出してほしい。
そして、J資料である2章は語り方が変わる。
昔話の語りのような、素朴な口調で演じてほしい。
「その日ヤハウェ神は土くれから人を造り、彼の鼻に生命の息を吹き込まれた。そこで人は生きた者となった」(2:7 関根訳)

そして、早速アダムは耕し始める(2:15)。
正直に言って2:15で「守る」というのは、一体誰から何を守るつもりなのかよく分からないや。
獣から畑を守るという意味か。
エデンの園は、獣と人間が平和に暮らす世界というイメージがあるけど。狼と一緒に小羊が眠る世界。…たぶん、獣から守るのではない。
荒れ果てた状態にならないように耕作を管理するような意味か。
どちらにしても、はじめからアダムは耕作をする。
耕作をしていると、楽園から追放されて「耕作しなければならなくなる」という話の重みがいまいち伝わらなくなるが、それは仕方ない。
この物語を語っている人は、日々耕作することは当たり前だったので、耕作をしない人をイメージすることができなかったのかも知れない。
茨とあざみに悩まされることや、パンを得るために苦しむことの理由が問題になっているだけです。
神から楽園の管理人としての任を解かれたということも、不幸としてあるのかも知れません。
その細かなニュアンスを捉えるためにも、アダムの耕作は描いて欲しいところです。

聖書の記述通りに映像化しても、映画として面白くないとどちらにしても観る価値はないので、そのあたりのバランスをとった作品がいいのでしょうけど。

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