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2009年7月

新約聖書 訳と註 第4巻 パウロ書簡その2、擬似パウロ書簡

先日、田川建三著「訳と註 第4巻 パウロ書簡その2、擬似パウロ書簡」を買った。
本文の訳文が88ページ、訳注は681ページあります。相変わらず膨大な訳注です。
パウロ書簡(ローマ、フィリポイ、フィレモン)と、擬似パウロ書簡(コロサイ、エフェソス、第2テサロニケ、第1、第2ティモテオス、ティトス)です。

ピリピ(フィリッポイ)から読んでゆきます。
神戸に住んでいた時、田川さんの本を読んで「注解書」というものに興味をもっていたのですが、なかなか一般書店で見かけることがなくて、元町駅前のキリスト教書店で佐竹明氏の「ピリピ人への手紙」の注解書を見つけた時は結構嬉しかった。
ピリピは他の書簡にくらべて短めだし、とっかかりには良さそうだと思って買いました。
読んでみると、流石に学問的というか、細かいというか、ピリピ 1:1-2の説明だけで8ページ解説が続くのですが、学者というのはこんなに研究しているのかと驚かされました。

で、田川建三氏の訳と註の方ではこの佐竹氏の訳への批判が結構出てきます。
佐竹氏はこう訳しているが、これは原文からではなく…というように、その翻訳の根拠を田川氏ならではの碩学的な切り口で見せてくれています。
普通に読んでも面白い本ですが、こうやって佐竹氏の本と突き合わせて読んだりすると、さらに美味しい。
ちびちび読み進めて行きます。

田川建三氏の講義の様子のようです
「聖書を学ぶ日々」
http://d.hatena.ne.jp/lonestar/20041002

「田川建三の私塾で学ぶ 」
http://oinos-elaion.blogspot.com/

田川訳と新改訳の比較がされているブログです。
「新約聖書は田川訳」
http://tagawa-yaku.cocolog-nifty.com/

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創造について3 (例によって懐疑的な話です)

ヤコブ 1:18の創造信仰に関連して、…これはその理解の試みです。

時々「創造科学」という疑似科学を論じているサイトを見かけたりします。
それらは創世記の記述を科学的に検証するなどといいながら、結局現実を認めず、批判を認めないだけのようです。
つまり知的な「誠実さ」を欠いているようです。
現実をちゃんと見れないのならば、聖書なんて解釈の難しい本はちゃんと読めないのではないかと心配になりますが。

僕は少々ひねくれているので、創造科学の科学になってないという知的な「不誠実さ」に対して、その「不誠実さ」をマネたくなってきます。
こちらは逆に宗教的ソーカル論文みたいなものをつくって、全く信仰してないのにその手の用語をちりばめて、お説教レトリックだけで作った疑似信仰テキストをつくりたくなる。
しかもちょっと感動的につくってやる。
そしてあとから、デタラメ書いただけでしたと公表して、「その手の作文などチョイチョイと作れるものでして、まぁ宗教の本質などと言うのはそのレトリックで説明し尽くせるようなモノなのですよ」と言い放つわけです。
宗教的な作文などそのレトリックでいくらでも再現可能だと。そのテキストにかけているのは「誠実さ」だけだ。
でもテキストに「誠実さ」が欠けていることはあとでちゃんと認めるわけですが、宗教的な人が「誠実か」どうか知りませんよ、と。

面倒くさいし、悪趣味だし、そんな不誠実なことしてもしょうがないし、(…感動的どころか、つまらん作文しかできないと癪だし)。
だから、やらないけど。
でも創造科学についての記事を読むたびに、そんなことを悶々と考えていたりします。

でも、創造信仰に反対しているつもりはないのですけどね。
創造信仰について理解しようとするときに、この創造科学などへの嫌悪感が邪魔して感情的に反発してしまうのです。
そんなもの無視して、ヤコブの手紙の著者が一体どのように考えているのかを淡々と問うていけばいいのですが。
僕は勝手に読んでるだけなので、信仰者さんには関係ない話でしょうけど。

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創造について2 (また懐疑的な話です)

ヤコブ 1:18に創造信仰があります。
このブログはなるべく書かれていることをそのまま理解して行こうと思っているので…これはその理解の試みです。
でも、僕のような非信者が他人の信仰を理解するというのは難しいことです。

アモス 9:7のように他民族をも支配する神という認識から、世界を支配する神という認識が生まれ、
人間を塵から生み出したように、神は世界を創造したと古代人は考えたのだろうか、と思う。

他民族をも支配する神というのは、つまり敵対する部族を差し向けてくるのは実は自分達の神である、ということも意味する。
そのような神であると理解するためにも色々前提がある。

 アモス 3:1 (関根訳)
 地のすべての族の中から
 わたしはただ君たちだけを選んだ。
 それ故わたしは君たちの罪を
 みな君たちの上に報いよう

実に嫌な選ばれ方である。
ヤハウェに背くと、おそるべき報いがあるぞ、というこの威嚇は、上記の他部族を敵として差し向けてくる神という認識とよく合致する。
アモスの預言は、数々の禍を予言しており、それがヤハウェによるものであることを宣言しています。
ヤハウェというのは、ありていに言えば禍の神です。
これらの禍は、貧しい者を苦しめた上流階級の人々に降りかかるとアモスは言っているようです。
5:21-27からすると、祭儀を行っていた宗教指導者に対しても容赦ない批判をしてるようです。
アモスはそういう人たちの権威を恐れなかったのでしょうか。
アモスは「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない」(7:14)とのこと。この言い方は当時預言で食ってる人たちがいて、そういう人たちとは違うと言っているニュアンスのようです。
おそらく当時の職業的な預言者というのは金持ちに呼ばれて報酬を得て、彼らに祝福と栄光の未来を予言してやったのでしょう。
それに対してアモスのような預言は、だれも喜んで欲しがらないわけですが、アモスとしても「あんな連中と一緒にしてくれるな」という意識があるようです。
それが高じてか(5:21-27)では祭儀について真っ向から否定してます。

 (アモス 5:25)
 イスラエルの家よ、あなたがたは四十年の間、荒野でわたしに犠牲と供え物をささげたか。

つまり、重要なのは祭儀ではない。
これは結構面白いことを言ってます。ユダヤ教のもっとも古い預言にこのようなものがあるのですね。
たぶん、イエスも同じような批判を行っています。当時の宗教的権威が祭儀を重んじても、正義を重んじていないことを批判していたのでしょう(祭儀の形式を重んじることへの批判としてはマタイ 23:23)。
ヤコブの手紙の著者のトーンにも、近いものを感じます。貧しい者たちを助けないで、どうこういってもしょうがないというスタンスです。
ヤコブの手紙の著者は、律法について述べてはいますが、とくに祭儀について問題にしているようすはないです。
まぁそれを言ってしまうとパウロとの争点がなくなってしまう気もしますが。

富者への批判も、アモスとヤコブの手紙の著者で共通している。イエスもそうです。
別に富者・上流階級の人々が呪われているなどと言いたいわけではないのですが、これは「恐るべき神」という存在の特徴なのだと思うのです。
古代の人々は、権力者の暴戻や富者によってこき使われるなどということがたびたびあったのでしょう。
それらの社会的な強者に対抗するには、「恐るべき神」という存在でないと対抗できないのでしょう。
出エジプト記の世界ですわ。パロに対抗する強力な禍の力は、奴隷たちの救いになる。

禍の神という性質から、敵に対する禍を与える神、戦争の神となる。
「万軍のヤハウェ」は、星霊軍や天使などを指してますが、「万軍」(ツェバーオース)は神の名と結合してないものは、イスラエルの古い召集軍を指しているとのこと(26ヵ所あるらしい)。(M.ウェーバー「古代ユダヤ教」p278)
「万軍のヤハウェ」という表現は古い時代の戦争、ヤハウェが農民召集軍を率いて戦ったと伝えられる時代を栄光化しているそうです。

古い戦争において農民が勇敢に闘った時代を栄光化する、というのはどういうことか。
当時、金をかけて武装することができる貴族が台頭し(同上p74~)、農民たちは没落し債務奴隷化てきたことを意識せざるを得なくなっていくにつれ、預言者たちの意識のなかでは、かつての信仰的な戦士としての時代が栄光化されてあらわれてきていたのだろう、とのことです。
今は没落しているが、かつて自分達は「万軍のヤハウェ」のもとで勇敢に闘ったのだ、と。

 (ヤコブ 5:4)
 見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、
 支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。
 そして、刈入れをした人たちの叫び声が、
 すでに万軍の主の耳に達している。

恐ろしい神としての性質は、ヤコブの手紙の著者のなかで結構そのままの性質で残っているように思えます。
預言者の精神とでもいうべきものでしょうか。

ともかく、この禍の神という性質があるからこそ、神が敵を差し向けてくるということにも説得力があったわけでしょう。
そして、敵を差し向けてくるということに説得力があるからこそ、他部族をもコントロールしている神として理解され、世界を支配する神として理解された。

捕囚などによって否応なしに異質な「世界」を突きつけられる経験を経て、自分達がなぜ苦しんでいるのか問う。
そのとき彼らが立ち返ったのはヤハウェだったということか。
これらが創造信仰の前提部分のようなものかなと思ってます。

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創造について(懐疑的な話です)

ヤコブ 1:18は創造信仰を背景にもっている。
宗教を信仰していない僕には神による世界創造を信じるという感覚はなかなか理解できない。
創世記を読んでも、信仰者とはまるで違った解釈をしてしまう。

「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世 3:19)というのは古代人の観察が生きている気がします。
死んだ人は塵に返ってしまう。ならば、人は塵から生まれたのだろう。では、一体誰が人を塵から作ったのか。
そう問うていって生まれた伝承のように思えます。
つまり、古代人なりの科学的な推測が述べられているのだろうと。

「これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう/まさに、男(イシュ)から取られたものだから」(創世 2:23)などを読むと、言語からイメージを膨らませて女性が男性からとられたものから生まれたと解釈しているようです。

「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(創世 3:12)
「蛇がだましたので、食べてしまいました」(創世 3:13)
この二つの言い訳も面白い。アダムは女のせいにして(つまりそれを与えたのはあなたじゃないか、とヤハウェの責任にしてます)、女の方は蛇のせいにします。

後の方では弟アベルを殺したカインが「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」(創世 4:9)と言ったりします。
創世記は結構ヤハウェに堂々と口答えしますね。創造信仰ってこういうのでいいのでしょうか。
ヤハウェは恐るべき神だと描かれもしますが、このあたりヤハウェはむしろ寛容に接してます。

エバをだましたという蛇ですが、微妙に嘘は言ってないですよね。
ヤハウェは「食べると必ず死んでしまう」(創世 2:17)と言いますが、(すぐには)死にはしない。蛇はその点で大して嘘は言ってない。
この物語は、人間と蛇の間に敵対関係が生じる原因譚になってます。
蛇は、農耕上の害獣だったのでしょうか。嫌われていたのでしょう。

裸を恥だと思うことについてもこの伝承から説明されているようです。
マックス・ウェーバーなどは、農耕にともなう豊穣を祈願するための性的オルギアが関連しているのではないかと論じていたと思います。ヤハウィストはそういったオルギアと競合していて、それを嫌ったのだろうということです。

創世記の冒頭は、無から何か生み出したというよりは、混沌へ神が呼びかけることで秩序が生まれてくるというイメージですね。エヌマ・エリシュに近い。

7日で神が世界を創り上げる。安息日の起源を説明しており、またそこを耕すために人を作ってます(創世 2:15)。
これらは農耕の神話ですね。遊牧民の神話というよりも。
安息日の強調は、たぶん捕囚の影響でしょうか。
つまり人が塵から生まれたというような素朴なイメージから生まれたのとは違って、歴史の影響を受けたものに見えます。

 (アモス 9:7)
 イスラエルの人々よ。わたしにとってお前たちは
 クシュの人々と変わりがないではないかと
 主は言われる。わたしはイスラエルをエジプトの地から
 ペリシテ人をカフトルから
 アラム人をキルから、導き上ったではないか。

ヤハウェはイスラエルの人々だけの神ではなく、他民族までも支配している。
アモスの予言はかなり古い。創世記より古い。世界の創造した神としての性質はこのあたりに由来するのでしょう。
アモスが「彼らが正しい者を金で 貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ 悩む者の道を曲げている」(2:6-7)と預言しているとき、恐るべき神の怒りを語るとき、その矛先は富者・支配者に向いている。
神の恐ろしさというのは、貧しい者の救いだった。
アモスは、現実を見ている感じがするんですよね。人々が苦しんでいる現実を。

そして、現代人が創造信仰を語るときには、すでに恐ろしい神というものが救いであるという感覚は遠く、また人々が苦しんでいるという現実というものから離れて「信仰」という行為が考えられているように感じます。
また古代人が、古代人なりに科学的に考えたであろうこととして理解するのではなく、これは信仰して鵜呑みにするべき世界観として捉えられている感じがします。
ですが果たして古代人は科学に対して頑迷な態度をとるべくして創世記を書いたつもりなのか、ちょっと疑問。

元来はもっとはるかに素朴に、世界の不思議さを説明したような信仰なのではないかと思えるのですが。
創世記を読むと、なにやら色々加わっているような印象を受けてしまってどうも素直に読めませんね。

グズグズ書いてますが、結局創造信仰とはどういうものなのか、踏み込んで考えれてはいないのです。

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シナイ写本

シナイ写本 ヤコブの手紙の冒頭あたり

シナイ写本
http://www.codexsinaiticus.org/en/

大英図書館が中心となってドイツ、ロシア、エジプトの大学や図書館が協力してネットで公開しているらしい。
シナイ写本というのは、四世紀に作られた写本で、シナイ山のカタリナ修道院でコンスタンティン・フォン・ティッシェンドルフによって発見されたもの。発見されたときは写本の価値を知らない修道士によって紙屑と一緒にかまどへくべられる寸前だったようです。
この写本の旧約聖書の一部は散逸しているが、新約聖書は全部残っているとのこと。
ギリシャ語新約聖書の大文字写本で完全な状態のものは、このシナイ写本だけしか残っていないそうです。

シナイ写本の本文の型は、アレクサンドリア・グループに属するが、後年に校訂を加えられてしまっている部分もあるとのことです。

そんなものがネットで手軽に読めるのか。凄いな。
キリスト教の貴重な遺産をありがたく読ませて頂きましょう。
拡大画像で見れるだけでなくて、ライティングを変えたり、右のカラムのギリシャ語テキストをクリックすると写本の当該個所が示されたり、翻訳がすぐ読めるようになっていたり(英訳はASVだろうか)と、便利です。

さっそくヤコブの手紙を見てみると、保存状態の良さに感動しました。
「神」「イエス」「キリスト」という名前は「ノミナ・サクラ」と呼ばれる略した書き方になってます。最初の文字と最後の文字だけに略して書いて目印に上腺がついてます。
見分けづらい文字があるなぁと感じます。Θ(テータ)とΟ(オミクロン)が結構見分けにくい。こうして写本を見るとアルファとデルタとラムダも似た文字だなと感じます。
あと、何だこの点はと思ってよく見るとεだったというのがいくつもありますね。
何でしょうこれは。
B.M.メツガーの「新約聖書の本文研究」に、写本を作る時に本文を読み上げる人がいて、それを聞きとって書いてゆく形で作業されていたとありました。そのなかで発音の仕方が変化してゆくとスペル間違いが生じたと書かれていましたが、このεはそのスペル間違いを後から補足したものなのだろうか。

B.M.メツガーの「新約聖書の本文研究」はかなり面白い本です。
写本の製本について、重要な写本の紹介や、テクストゥス・レセプトゥスと呼ばれるあまり質のよくない本文が公認され流布してしまったこと、またその本文が質が良くないことを立証してゆき正文批判の研究が発展していく流れが解説されています。

写本の複製と異読。写本の系統をしらべて、どの本文がオリジナルなのか再構成する。
この研究は、まるっきり進化論的な世界です。
遺伝子をコピーし、エラーが生じて、それがそのまま複製されたり、ときに進化してしまって、新しい要素が加わってしまう。
その進化をたどる作業に似ている。

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訳と註

田川建三「新約聖書 訳と註」第四巻 パウロ書簡の発行予定日は7月17日ないし18日、定価(予価)は6000円(税別)とのこと。

次はローマ人への手紙だ。
楽しみだ。

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シナイ写本
http://www.codexsinaiticus.org/en/
綺麗に残っているものだなぁ。

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本やサイトなど

聖書関係の研究書はやたら高い。
売れないから高いのか、ぼったくられているのか、学問的な本はそんなものなのか知らないが。
でも、英語ができればフリーで読める論文がある。

M.ディベリウスの「パウロ」(英訳)がDLできる。
http://thedcl.org/christia/author-d.html

こちらのサイトだとディベリウスの「イエス」(英訳)や、C.H.ドッドの「使徒的宣教とその展開」が読めるのか。
http://www.religion-online.org/
(BOOK LISTというリンクを開くとテキストの一覧が出ます)

こちらはヴェルハウゼンの「序説」(英訳)をDLできる。
http://www.gutenberg.org/etext/4732

海外のサイトはいいなぁ。
せめて英語ができれば活用できるのだろうけど、
俺の英語力だとただ誤解するだけだし。
まぁそれを言い出したらギリシャ語の方こそ…ってことになるけど。

聖書のギリシャ語について丁寧に訳を解説してくれているサイトやブログがあればなぁと思う。もちろん日本語の解説で。
研究者なら英語なんて当たり前なんだろうけど、こっちは日本語でも難しいとあんまりちゃんと読めてなかったりする。

あと下記はネットを見て回っていて面白いなと思ったサイトなど。

・「キリスト教 下世話なQ&Aコーナー」
http://homepage2.nifty.com/room30th/q&a.html

「らばQ」というサイトの宗教関連の記事も面白い。

・『「神はいない?」偉人たちの無神論的な50の格言 』
http://labaq.com/archives/50944400.html
(信仰者さんが楽しめるかどうか知りませんが)

・70年代はミニスカート…今からは想像もつかないイラン女性の姿
http://labaq.com/archives/51192903.html

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