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創造について2 (また懐疑的な話です)

ヤコブ 1:18に創造信仰があります。
このブログはなるべく書かれていることをそのまま理解して行こうと思っているので…これはその理解の試みです。
でも、僕のような非信者が他人の信仰を理解するというのは難しいことです。

アモス 9:7のように他民族をも支配する神という認識から、世界を支配する神という認識が生まれ、
人間を塵から生み出したように、神は世界を創造したと古代人は考えたのだろうか、と思う。

他民族をも支配する神というのは、つまり敵対する部族を差し向けてくるのは実は自分達の神である、ということも意味する。
そのような神であると理解するためにも色々前提がある。

 アモス 3:1 (関根訳)
 地のすべての族の中から
 わたしはただ君たちだけを選んだ。
 それ故わたしは君たちの罪を
 みな君たちの上に報いよう

実に嫌な選ばれ方である。
ヤハウェに背くと、おそるべき報いがあるぞ、というこの威嚇は、上記の他部族を敵として差し向けてくる神という認識とよく合致する。
アモスの預言は、数々の禍を予言しており、それがヤハウェによるものであることを宣言しています。
ヤハウェというのは、ありていに言えば禍の神です。
これらの禍は、貧しい者を苦しめた上流階級の人々に降りかかるとアモスは言っているようです。
5:21-27からすると、祭儀を行っていた宗教指導者に対しても容赦ない批判をしてるようです。
アモスはそういう人たちの権威を恐れなかったのでしょうか。
アモスは「わたしは預言者でもなく、また預言者の子でもない」(7:14)とのこと。この言い方は当時預言で食ってる人たちがいて、そういう人たちとは違うと言っているニュアンスのようです。
おそらく当時の職業的な預言者というのは金持ちに呼ばれて報酬を得て、彼らに祝福と栄光の未来を予言してやったのでしょう。
それに対してアモスのような預言は、だれも喜んで欲しがらないわけですが、アモスとしても「あんな連中と一緒にしてくれるな」という意識があるようです。
それが高じてか(5:21-27)では祭儀について真っ向から否定してます。

 (アモス 5:25)
 イスラエルの家よ、あなたがたは四十年の間、荒野でわたしに犠牲と供え物をささげたか。

つまり、重要なのは祭儀ではない。
これは結構面白いことを言ってます。ユダヤ教のもっとも古い預言にこのようなものがあるのですね。
たぶん、イエスも同じような批判を行っています。当時の宗教的権威が祭儀を重んじても、正義を重んじていないことを批判していたのでしょう(祭儀の形式を重んじることへの批判としてはマタイ 23:23)。
ヤコブの手紙の著者のトーンにも、近いものを感じます。貧しい者たちを助けないで、どうこういってもしょうがないというスタンスです。
ヤコブの手紙の著者は、律法について述べてはいますが、とくに祭儀について問題にしているようすはないです。
まぁそれを言ってしまうとパウロとの争点がなくなってしまう気もしますが。

富者への批判も、アモスとヤコブの手紙の著者で共通している。イエスもそうです。
別に富者・上流階級の人々が呪われているなどと言いたいわけではないのですが、これは「恐るべき神」という存在の特徴なのだと思うのです。
古代の人々は、権力者の暴戻や富者によってこき使われるなどということがたびたびあったのでしょう。
それらの社会的な強者に対抗するには、「恐るべき神」という存在でないと対抗できないのでしょう。
出エジプト記の世界ですわ。パロに対抗する強力な禍の力は、奴隷たちの救いになる。

禍の神という性質から、敵に対する禍を与える神、戦争の神となる。
「万軍のヤハウェ」は、星霊軍や天使などを指してますが、「万軍」(ツェバーオース)は神の名と結合してないものは、イスラエルの古い召集軍を指しているとのこと(26ヵ所あるらしい)。(M.ウェーバー「古代ユダヤ教」p278)
「万軍のヤハウェ」という表現は古い時代の戦争、ヤハウェが農民召集軍を率いて戦ったと伝えられる時代を栄光化しているそうです。

古い戦争において農民が勇敢に闘った時代を栄光化する、というのはどういうことか。
当時、金をかけて武装することができる貴族が台頭し(同上p74~)、農民たちは没落し債務奴隷化てきたことを意識せざるを得なくなっていくにつれ、預言者たちの意識のなかでは、かつての信仰的な戦士としての時代が栄光化されてあらわれてきていたのだろう、とのことです。
今は没落しているが、かつて自分達は「万軍のヤハウェ」のもとで勇敢に闘ったのだ、と。

 (ヤコブ 5:4)
 見よ、あなたがたが労働者たちに畑の刈入れをさせながら、
 支払わずにいる賃銀が、叫んでいる。
 そして、刈入れをした人たちの叫び声が、
 すでに万軍の主の耳に達している。

恐ろしい神としての性質は、ヤコブの手紙の著者のなかで結構そのままの性質で残っているように思えます。
預言者の精神とでもいうべきものでしょうか。

ともかく、この禍の神という性質があるからこそ、神が敵を差し向けてくるということにも説得力があったわけでしょう。
そして、敵を差し向けてくるということに説得力があるからこそ、他部族をもコントロールしている神として理解され、世界を支配する神として理解された。

捕囚などによって否応なしに異質な「世界」を突きつけられる経験を経て、自分達がなぜ苦しんでいるのか問う。
そのとき彼らが立ち返ったのはヤハウェだったということか。
これらが創造信仰の前提部分のようなものかなと思ってます。

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