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ヤコブの譬え

1:22 そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけない。
1:23 おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
1:24 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
1:25 これに反して、完全な自由の律法を一心に見つめてたゆまない人は、聞いて忘れてしまう人ではなくて、実際に行う人である。こういう人は、その行いによって祝福される。

ヤコブの手紙の1:22-25のたとえは、どうも分かりにくいです。
そう感じるのは僕だけでしょうか。

「鏡」は、「自分の生まれつきの顔」を映しているのでしょうか。
それとも、鏡は虚像であって、鏡のなかに「自分の生まれつきの顔」を見るのは「おのれを欺いて」いると言っているのでしょうか。

鏡が「自分の生まれつきの顔」を映し出しているとすれば、
鏡を使って自分の顔を見ても「立ち去る」と忘れてしまうという点が問題だという譬えということになります。
ですが、1:25「たゆまない人」という語は、「παραμεινας」で、「留まる人」とか「残る人」というような意味なので、
「鏡から立ち去る人」=「行わない人」
「律法を見つめて留まる人」=「行う人」
という構図になるのですが、この譬え方はどうも釈然としない。
じっと鏡を見つめている人は「行わない」のは分かりますが、鏡から立ち去って行動しているのに「行わない人」というのがどうも譬えとして違和感があります。
また律法を見つめて「留まる人」が「行う人」であるという譬え方も違和感があって、どうもすっきりしない感じです。
あと訳されていないですが1:24に「γαρ 」(「すなわち」「つまり」「というのも」「何故なら」「からである」などと訳される)という接続詞が入っているので、1:23の「鏡に映して見る人」に似ている理由を説明しているようです。
そうすると「自分の姿がどんなであったか忘れてしまう」から「鏡に顔を映して見る人」に似ていると言っていることになりますが、どうも意味がつながりません。

鏡は虚像であって、「自分の生まれつきの顔」ではない。虚像を本当の顔だと思うのは「おのれを欺いて」いるのだ、と考える場合はどうでしょう。
鏡のなかの虚像を「生まれつきの顔」であると自分を欺いて見ている人は、鏡から離れると自分がどんな姿か分からなくなってしまう。何をすべきか分からなくなる。
(「だから、鏡の前にいつまでも留まっていて、何も行わないのだ」というニュアンスが1:24の「γαρ 」に隠れているような気がします)
それに対して「完全な自由の律法」を見つめる者は、自分の本当の姿を見ているので忘れることがなく、行う人であることができるのだ、というような意味に解せるでしょうか。

「鏡」と「律法」を対比して、鏡は虚像にすぎず、律法は心に植えつけられたその人の真実の部分なのですよ、というような意味で語られていることになりますか。

うーむ。ヤコブの手紙の著者は、「鏡は虚像である」と考えているような気がします。
鏡のなかに「自分の生まれつきの顔」を見るのは、おのれを欺いているという意味と理解すべきか。

つまり、忘れっぽいという体質がいけないという話でなくて、そうして「おのれを欺いていること」がいけないといってるのかな。
譬えがややこしくなっている原因は、「鏡から離れて行動することができない」ということと対称的に表現しようとして「律法から離れて行動できる」と言ってしまうと意味が違ってくるので「律法を見つめて留まる人が行う人である」と説明している点にあるような気がします。
…でも、まぁ僕の読解力は日本語についても微妙なものです。

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