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ヤコブ 1:17 についての雑感

(ヤコブ 1:17)
「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、
上から、光の父から下って来る。
父には、変化とか回転の影とかいうものはない。」

神は、変わることなく一貫して「良い贈り物」を与えてくれているのだ、というような意味のようです。
「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物」という部分は、当時あった慣用句を引用しているのではないかという説があります。(辻学氏の注解書p74)
もらい物を品定めするなという意味で、「すべての贈り物は良いものだ、だからすべての贈物は完全だ」というニュアンスの言葉ではないかとのことです。

つまり、ここは「これは試練だ」とか「これは罰だ」などと与えられた物を区別するなという意味になるかと思います。
「神は試みたりしない」(1:13 自ら進んで人を誘惑することもなさらない)という時に、批判しているのはどうも神が行ったことについてケチをつける姿勢へのようです。
苦境に陥った時に、「これは神が私を試みているのだ」というようなことを言っていることについて、「思い違いをするな」(1:16)ということのようです。

いや、でも「神から与えられた試練」だと考えている人は、それを甘んじて受け、喜んで耐え忍ぶのではないでしょうか。
なぜその試練を神から与えられたと考えないのでしょう。

ヤコブの手紙の著者は、人が試練に陥って苦しむ原因を、人間の欲望や罪にあるとみています。
問題は人間の方にあり、人間の欲望が原因であるならば、これは欲をはらねば解決できるだろうし、解決しなければならないと考えているようです。
神から試練が与えられたと考えるならば、それはただ甘んじて耐えるべきものになるのでしょう。
試練は「神から与えられたものではない」から行いによる解決が必要である…というか、良い物を与えられているのに人がそれを駄目にしてしまっているのだ、という認識が、彼の積極的な発想につながっているようです。

「神は一貫して良い物を与えているのだ」というヤコブの主張は、
試練は人間を成長させるために神が与えられているのだ、という説明と混同しやすいですが、それでは書いていることを逆に解釈してしまいます。
ヤコブの主張は、あくまで「神は試練を与えていない」ということですので、書いている通りに理解しておきましょう。

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