« 上村静 『イエスにとっての《神の支配》 その「終末論的」解釈の再検討』を読んで | トップページ | 手抜きですが »

イサクの燔祭への雑感

いわゆるイサクの燔祭の場面ですが、ヤコブの手紙ではちょっと違う解釈がなされています。
(ヤコブ 1:13)「神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない」
でも、創世記の記載は明瞭に「神はアブラハムを試みて彼に言われた」(創世 22:1)としています。
(ヤコブの手紙の中の「誘惑」と「試み」は同じギリシャ語です。創世記はヘブル語ですが)

ヘブライ人への手紙 11:17-21もまた違う解釈をしています。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」(ヘブライ 11:17)
これはこれで「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」というアブラハムのセリフと矛盾するような気がします(創世 22:8)。

アブラハムの犠牲の物語は一体何なのでしょう。
神がアブラハムの信仰を試して、それを讃える物語のようですが、どうも僕は釈然としないのですけど。
子を捧げるのが素晴らしい信仰であったならば、子供を犠牲に捧げる儀式は当然素晴らしいものと理解されていたということでしょう。

(エレミヤ 7:31)
またベンヒンノムの谷にあるトペテの高き所を築いて、むすこ娘を火に焼いた。わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった。

モレク神への生贄について、異教の神であることを批判している部分ですが、
「そのようなことを考えたこともなかった」というのは子供を犠牲にする儀式が異質なものであったことを表してるように思えます。
エレミヤがアブラハムの伝承を知らなかったりするのでしょうか。
ともかく、人身犠牲、とくに幼児の犠牲はイエスラエル周辺民族でも行われていたようです。
エルサレムの東の山にソロモン王がモレク神のための聖なる高台を築いたとあります(1列王記 11:7)。

アブラハムの犠牲が行われた「モリヤ」という場所は、エルサレムを指していると解釈されているようですが(2歴代誌 3:1)、はっきりしないようです。
七十人訳では「高き地」、シリア訳では「アモリ人の地」となっているそうです(関根正雄訳注 p212。アモリ人はE資料の特徴p206ですが、この場合はどうでしょう)。
サマリア人はゲルジム山であるとしているそうです(「創世記 1」C.ヴェスターマン p367)。ゲルジム山というのはたぶんヨハネ福音書 4:19で言及されている山です。

(創世 22:14 関根正雄訳)
アブラハムはその場所の名前を「ヤハウェ備え給う(イルエ)」と名づけた。今日でも人は、「この山では、ヤハウェ備え給う」と言い伝えている。

ここの地名はマソラ本文では後半の「この山では、ヤハウェ備え給う」は「ヤハウェ、現れ給う」になっているそうです。
ここの口語訳・新共同訳はいまいちですので上記の引用は関根訳です。
現在の訳は、シリア訳、ラテン訳に由来するようです。
「ヤハウェ、現れ給う」は、「モリヤ」という地名と関連があるらしいそうです(例によって関根訳注より)。
地名はこの伝承のまとめの部分に関わるものですが、地名が違うといまひとつ物語がまとまらない感じがします。元の伝承は何か違った形だったのでしょうか。

創世記 22:11から突然「主の御使い」が登場してアブラハムを止めますが、さっきまで直接神が指示していたのに、なぜ止める時だけ「御使い」が来るのでしょう。
御使いというのは、創世記のなかにそんなにはたくさん出てこないのです。
16章のイシュマエルの誕生に関連した伝承(エル・ラハイ・ロイの井戸)と、このアブラハムの犠牲の場面、ソドム滅亡の話(この話は士師記19以降のベニヤミン制裁とよく似ている)。
28章のベテルの伝承の夢と、31章の夢のなかに登場します(夢に出てくるのはE資料の特徴でしょうか)。あと32章の冒頭のマハナイムの伝承(E資料)。
正直、この「御使い」が出てくるところは、若干新しく付加された伝承のような印象をうけます。

こんなことを考えても妄想でしかないですが、創世記22:11以下の「主の御使い」はいなくて、アブラハムはそのまま子供を屠ってしまうような伝承があったのでしょうか。
近くにいた雄羊を犠牲に捧げて済むならば最初から羊を連れていけば済む話になってしまうので、飢饉か何かで犠牲の羊がなかった時に、自分の子を捧げようとする話だったのだろうか。
後に「御使い」と、神の命令の部分が付加されたのならば、初期のユダヤ教で神が試みないとされていたことは説明しやすくなりますが。
あとエレミヤ 7:31も。
あと気になる不整合としては、「愛する独り子イサク」(22:2)ですね。イシュマエルを忘れている。
独り子というか、長子を犠牲とする考え方は古い伝承に由来するでしょうから(出エジプト 34:20後半など)、どちらかというとイサクが後年の付加。
M.ノートはアブラハム自体、この伝承に結びついたのは後年とみてます(モーセ五書伝承史p175)。
M.ノートのアブラハムの伝承についての仮説はとても優れているので、一読の価値ありです。

アブラハムの犠牲の場面は、相当昔からいろいろな解釈がなされていて、本文自体がすでにそれらの影響を受けているような印象があります。
イマジネーションをかきたてるような物語だということでしょうか。

|

« 上村静 『イエスにとっての《神の支配》 その「終末論的」解釈の再検討』を読んで | トップページ | 手抜きですが »

新約聖書 ヤコブの手紙 ギリシャ語」カテゴリの記事

ヤコブの手紙 1:11~20」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: イサクの燔祭への雑感:

« 上村静 『イエスにとっての《神の支配》 その「終末論的」解釈の再検討』を読んで | トップページ | 手抜きですが »