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ツァイトガイストに関連して

ツァイトガイスト関係でアクセスがあったので、ちょっとその辺の記事を追加します。

ツァイトガイストが謳っている説は、イエスが占星術的な神話に由来した虚構であるというものです。
たしかにイエスの実在を証明するような一次資料はありません。イエスの実在は立証できない。

ツァイトガイストが、12月25日生まれの諸神話をあげていっても、批判としていまいちなのは、それが何百年も後に加わった伝承だからです。
もし批判的に検証しようと思うのならば、後年の二次的な伝承は取っ払って考えるべきでしょう。

イエスとは何者かを説明するときに、原始教会で伝えられていたらしい表現があります。
新約聖書でもっとも古いのはパウロの書簡ですが、パウロの「ローマ人への手紙」1:3-4の言葉から抜粋。

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」

イスラエルではメシアはダビデの子孫から生まれると考えられていました。
パウロは、イエスはそのダビデの子孫だと言ってるわけです。
ここの「神の子」の意味も養子論的で、死者からの「復活によって」神の子と定められたということは、復活前は何者だと思っているつもりか知りませんが、おそらくパウロは現在の教会よりも「復活」重視な解釈をしているのではないかと思います。

マタイ福音書には、イエスの系図が載っています。ダビデの子孫であることを示す系図です。
でも、この系図は、ルカに伝えられている系図と矛盾します。
さらに、マタイ・ルカの伝承では、イエスはダビデの子孫であるヨセフの子ではなく、マリアの処女懐胎によって生まれたとしています。これは、ダビデの子孫という話と矛盾します。
その場面でマタイではイザヤの有名な預言が引用されます。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」
でも、インマヌエルと名付けないで、イエスと名付けてしまいます。

「ダビデの子孫」と「処女懐胎」と「その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤの預言は、同時にイエスにあてはめるとそれぞれ矛盾します。
たぶん、「神の子」の意味も、パウロが言っている意味と違っているかなと。

「ダビデの子孫」とか「インマヌエル」とか「神の子」といったものは称号であって、当時メシアとはそういう存在だと思われていたものを反映しているのでしょう。
そういう意味では、異質な説明がされているのは、最古の福音書であるマルコです。

マルコ 6:3
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。

大工だということはメシアの称号でも何でもないわけです。
まぁ素直に考えて、これが実体に近いところでしょう。

ツァイトガイストのようにイエスが実在しないという説は、僕は賛成しませんが。
ツァイトガイストが批判的に検証するとして、史的イエスの方向に進んでいくならば、やれることは結構あると思う。

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