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ヤコブにとっての「欲望」とは

ヤコブ 1:14では「欲望」について述べられている。

神は誘惑したりしない。人は自分の欲望に魅かれて誘惑に陥るのだ、という話は説明自体は結構なのですが、「欲望」というのはどのようなものを言っているのでしょう。
パウロの書簡にはときどき「体の欲望」(ローマ 6:12)とか、「肉の欲望」(コロサイ 2:23)といった表現があります。
パウロのように霊肉二元論で考えて、滅びるべき「肉」に囚われた欲望というような意味でしょうか。
(ヤコブ 4:4)では「世の友」となることを願う者は、「神の敵」になると言ってるので、二元論的なニュアンスは近いか。

でも、(ヤコブ 4:1)では、「欲望」は教会での争いの原因になっているものと見なされています。
たぶん、ここで言及されている争いというのは、その当時問題になっていた争いではないでしょうか。
よく言われるようにユダヤの伝統的な律法をまもることと、パウロ神学が、ディアスポラの教会において衝突していたということでしょう。
教会内に教義の解釈にくいちがいが生じて、熱くなってそうとう罵り合っていたということではないでしょうか。

そのような論争をヤコブの手紙の著者は、試練と呼んでいるように思えます。
教義上の解釈の混乱という「試練」は、べつに神が与えたものではなく、ただ人が欲望にそそのかされた結果だと見なしているようです。
ヤコブの考え方の基本的なコンセプトは(マルコ 4:19)あたりに近い気がします。

マルコ 4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

マルコ4章の種まきのたとえは、ヤコブ 1:10-11で似た表現で踏襲されているかも知れません。
ヤコブは教会内の争いを見る時に、「御言葉」が欲望にふさがれてしまっていると捉えたのでしょうか。
富の誘惑が心に入り込んだ者が滅びるという話をしたり(4:13~)、この世の思いにとらわれることへの警告(4:4)は、種まきのたとえを下敷きにしていたのでヤコブにとっては自然な話の展開のつもりだったのではないかと思えます。

そして、それらの論争の結果、どの解釈が正しいかは、言葉上の問題ではなく、行いを伴った問題だと捉えてような感じがします。
言葉の上で正しいかどうかを考えるのではなく、目の前にいる着るものもないような貧しい人を救おうと思わないならば(2:15)、「欲望」によって「御言葉」がふさがれているのではないかと問うているような構成になっているようです。

なので、ヤコブ 1:14はなにか禁欲的な思想を展開しているわけではないだろうと思います。

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