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2009年5月

ヤコブにとっての「世」とは

ヤコブの手紙の著者は、「世」を否定的にとらえています。

(ヤコブ 4:4)
不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。
おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

3:15では、「世」と「悪魔から出たもの」を同一視しています。
これは霊肉二元論をとっているようです。「世」というものは不完全な「肉」に属するという考え方です。パウロなんかも前提してます。
この「世」という言い方は、ヨハネ福音書などに多く見られます。

(ヨハネ福 1:10)
彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。

(ヨハネ福 17:14)
わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。

ヨハネ福音書が述べる「世」というのは、光と対極にある闇であり、神の言葉を理解しえず、神を憎むものと捉えられています。
ヨハネ福音書の著者は、ひどく弾圧を受けたのでしょうか。「世」と「ユダヤ人」が同一視されています。
(僕のような素人が読むと、ヨハネ福音書は「ユダヤ人」に対する鬱々とした恨み節が神学になったようなとても陰気な文書に感じます)
ヤコブの手紙の著者は、「世」と「ユダヤ人」を同一視したりしてないようですが。

ヨハネ福音書は、「世」を否定し切っているので、「わたしが世のものでないように、彼ら(キリスト教徒)も世のものではないからです」と現実世界に住んでいないようなことを言ってます。
「世」を否定する厭世的なスタンスというものは、どちらかというと貧者の救済に興味はないかと思います。
でもヤコブは 2:16で、貧しい人に対して「からだに必要なものを何ひとつ与え」ないことを批判しています。
体に対して必要なものを与えないならば、そんな信仰は役に立たないとしています。
人間が「世」に属するものであると認めているから、肉体に必要なものを分かち合うことを重視するわけです。
「世」に属していないならば、肉体に必要なものなどはどちらでもよいことです。霊的なことこそ重要であり、霊に属するものならば神によって救われるのだから、問題にするまでもないと判断しそうです。
でも、ヤコブの手紙の著者は、そう考えていない。
ここがしっくりこない。

We are the world」という歌があります。80年代のチャリティーソングです。結構感動的な曲です。
この歌詞はヨハネ福音書の表現に似ているところがあります。
似ているけど、違うことを言ってます。
そもそもタイトルが、「We are the world 私たちは世である」です。
ヨハネ福音書ならば「わたしたちは世ではない」でしょう。
僕はこの歌は、「世」に属している不完全なものだからこそ、助け合って生きていかねばならないというニュアンスに理解してます。
ヨハネ福音書のような考え方だと、困っている人を救済しようという話にうまくつながらないので、自然と歌詞が逆になってしまったのではないかと感じます。

あと2番の歌詞に「石をパンに変える As God has shown us by turning stones to bread」とあります。
たぶん、これはイエスが悪魔に誘惑を受ける場面のことを指していると思うのですが(マタイ 4章、ルカ 4章)、これはパンを石に「変えない」話です。
この歌詞なんかは、アメリカ人は変だなと思わなかったのかな。

(マルコ 6:30、8:1には少ないパンを数千人の飢えた群衆に分ける奇跡が語られてます。奇跡によってパンを与えるという意味では近い。マルコ福音書は逆に悪魔に誘惑されて「石をパンに変えることを拒否する」話が欠けています。)

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ヤコブ 1:15

εἶτα ἡ ἐπιθυμία συλλαβοῦσα τίκτει ἁμαρτίαν, ἡ δὲ ἁμαρτία ἀποτελεσθεῖσα ἀποκύει θάνατον.

(口語訳) 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。

εἶτα / εἶτα (それから) − 副詞
 / ο (冠詞 the) − 冠詞: 主格 単数 女性
ἐπιθυμία / ἐπιθυμία (欲望) − 名詞: 主格 単数 女性
συλλαβοῦσα / συλλαβάνω (はらむ、含む) − 動詞: アオリスト 能動 分詞 主格 単数 女性
τίκτει / τίκτω (生じさせる、作り出す) − 動詞: 三人称 現在 能動 直接法 単数
ἁμαρτίαν / ἁμαρτία (罪、過失) − 名詞: 対格 単数 女性
δὲ / δὲ (しかし) − 接続詞
ἁμαρτία / ἁμαρτία (罪、過失) − 名詞: 主格 単数 女性
ἀποτελεσθεῖσα / ἀποτελεσθεῖσα (熟する、~に至る、完遂する) − 動詞: アオリスト 受動 分詞 主格 単数 女性
ἀποκύει / ἀποκυέω (産む、前に進める) − 動詞: 三人称 現在 能動 直接法 単数
θάνατον / θάνατος (死) − 名詞: 対格 単数 男性

---

「欲望」「罪」が女性名詞なので、妊娠したり産んだりという譬えになっているそうです。

「はらむ συλλαβοῦσα」と「熟する ἀποτελεσθεῖσα」は分詞です。
分詞は、性・数・格を一致させた名詞にかかります。
述語的用法の分詞は、文脈に従って「~する時/した時」、「~を使って」(手段)、「~の理由で」(原因)、「~ならば」(条件)、「~だとしても」(譲歩)などの意味に用いられるそうです。
「欲がはらんで…」とか「罪が熟して…」という用法は、どれにあたるのかいま一つピンときませんが。

接続詞の「δὲ しかし」はたぶん後半の文章では主語が「欲望」から「罪」に変わるのでついているのでしょう。
「しかし」と訳すと変になるので、「そして」と訳して構わないようです。

「そうして欲望がはらんで罪を生じ、また罪が熟して死を生む」という感じでしょうか。

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ヤコブ 1:14

ἕκαστος δὲ πειράζεται ὑπὸ τῆς ἰδίας ἐπιθυμίας ἐξελκόμενος καὶ δελεαζόμενος·

(口語訳) 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。

ἕκαστος / ἔκαστος (各々、それぞれ) − 形容詞: 主格 単数 男性
δὲ / δὲ (しかし) − 接続詞
πειράζεται / πειράζω (試み) − 動詞: 三人称 現在 受動 直接法 単数
ὑπὸ / ὑπὸ (~の下で) − 前置詞
τῆς / ὁ (冠詞 the) − 冠詞: 所有格、属格 単数 女性
ἰδίας / ἴδιας (~自身) − 形容詞: 所有格、属格 単数 女性
ἐπιθυμίας / ἐπιθυμία (欲望、欲求) − 名詞: 所有格、属格 単数 女性
ἐξελκόμενος / ἐξέλκω (引き込む) − 動詞: 現在 受動 分詞 主格 単数 男性
καὶ / καὶ (そして) − 接続詞
δελεαζόμενος / δελεάζω (誘惑する 釣る) − 動詞: 現在 受動 分詞 主格 単数 男性

「しかし、各々が自身の欲望のもとで引かれることで、また釣られることで誘惑される」という感じでしょうか。

「引き込む ἐξελκόμενος」「誘惑する/釣る δελεαζόμενος」の語は、分詞です。
分詞は、性・数・格を一致させた名詞にかかります。なので、ここでは「各々 ἕκαστος」という語に掛かるようです。
分詞は、形容詞と同じように、限定的(付加語的)、名詞的、述語的(副詞的)に用いられるとのこと。
述語的用法の分詞は、文脈に従って「~する時/した時」、「~を使って」(手段)、「~の理由で」(原因)、「~ならば」(条件)、「~だとしても」(譲歩)などの意味に用いられるそうです。
ここでは原因を表しているようなので、「引かれることで」「釣られることで」と訳してみました。

1:14-15は各々の中にある欲望が、罪と死へと至らせることを説明してます。
神が他所に仕掛けをつくって人間を試みてやろうとしているわけではないという主張です。
1:14の「欲に引かれ、さそわれるからである」の部分が英訳では「引き離される drawn away」となってることが多いようです。
KJV 「But every man is tempted, when he is drawn away of his own lust, and enticed.」
でも「引き離される」というよりは、「引き込まれる」の方が僕のイメージには合います。
「引き離す」という表現は、本来の目的から人を引き離してしまうというような意味なのでしょうけど。
欲望というものが、悪魔みたいなイメージで外部に存在していて、人間を誘惑してるようなイメージにとらえている感じがします(ヤコブの手紙の著者は、悪魔についても述べてますが、ここの文脈では文脈に合致しないかと思います)。
「すべての人 every man」対「欲望」という図式になっている感じ。
でも、ヤコブの手紙の著者のイメージは、「それぞれの人は」と言っているので、各々の内部にある自分の欲望が問題になるわけです。自分の中にある(つまり個人的なしょうもない)欲望だから、神とは関係ない。
神が他所に仕掛けをつくって人間を試みてやろうとしているわけではない、という説明につながります。
これを「すべての人は誘惑に陥るのだ、それは欲望によって引き離されるからだ」と説明すると、その欲望を作ったのは神ではないのかという話に戻ってしまう気がします。
「それぞれの人は」という表現は、全員を含んでいますけど、「どんな人間も誘惑に陥るのだ」という面を強調するとヤコブの著者の言っているニュアンスが伝わらなくなりそうです。

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音楽聴いて慣れるのもいいか 2

また、音楽でも聴いてギリシャ語に慣れようということです。
現代語とコイネーの違いはまぁいいとして。

検索の仕方が悪いのかとも思ったのですが、ギリシャの音楽を探してみるとどうも曲調が古臭いものが多いようです。
数十年前の日本の歌謡曲に通じるものがあります。はじめて聴くのに懐メロのようだ。

「Το φιλί της ζωής 」Έλενα Παπαρίζου (「The kiss of life」Helena Paparizou) は結構爽快で良い曲です。
コーラスのところでちょっとロックっぽくなって格好良い。
下の画像をクリックするとYoutubeが別ウィンドウで開きます。

「The kiss of life」Helena Paparizou

ギリシャ語の歌詞と、英語への対訳のサイトもあります。
分からない単語はbabylon.comなどで調べるのが良さそうです。

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加藤周一氏のインタビュー

youtubeで加藤周一氏のインタビューの動画を見つけた。
このインタビューは昔に別の番組で見たことがある。

インタビューのなかで加藤氏は孔子の話をします。
道で家畜の牛が酷く鞭打たれているのを見て、孔子がそれを止めようとする。
しかし、彼の弟子は「その牛一頭を救ったところでしょうがないじゃないか」と諭そうとする。
たしかに孔子はどう頑張ったところですべての牛を救ってやることはできない。
「だが、この牛は私の前を通っているからだ」と孔子は言う。

加藤氏は語っています。
「それはね、第一歩ですよ、自分の前を通る牛を本当に親身にかわいそうだと思わなければ、
それはただ統計的な数字についてしゃべってもしょうがないのだということですよ。
はじめに一人の人の命が大事じゃない人にとっては、ただ抽象的に何百万の人の命のことをしゃべっても、
それはただ言葉だけであって、ほんとうに行動につながっていない。
行動につながるのには、それは情熱がなければ、その情熱の引き金はやはりその一人の人間だ」

このインタビューの趣旨は、ヤコブの手紙の著者の考えに、部分的に近いものを語っているように思えます。
行動というのは、情熱の問題だということです。
すべての牛を救うことができるか否か。いや、不可能だといったような議論は、つまりただ抽象的に統計についてしゃべっているだけであって、つまり最初の一頭を救いたいという情熱が欠けてしまっている。
その情熱が冷めてしまっていると、ただやらなければならないという義務とかルールについて語っているだけになってしまう。
ヤコブの手紙の著者が、貧しい兄弟を助けることを書いているのを、それが世界中の貧民を救うというような重苦しい義務について語っているように読んでしまうならば、孔子の弟子のエピソードと似たような解釈をしてしまっているのかも知れません。

加藤周一氏の「日本文学史序説」は凄い本だった。
芸術や文学を巧い切り口で評論していて面白いです。
加藤氏の文章は、M.ウェーバーの「古代ユダヤ教」にどこか文体が似ている気がして、そこが格好いいのです。

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ヤコブの手紙の貧困の問題2

(箴言 22:22) 弱い人を搾取するな、弱いのをよいことにして。貧しい人を城門で踏みにじってはならない。

城門に長老がいて、そこで裁判が行われた。(申命記21:19、エレミヤ26:10、アモス5:10など)
こういうことが言われるということは、つまり踏みにじられてることがしばしばあったということでしょう。
ヤコブの手紙の著者が語っている状況の、ほとんどそのままのようです。
ヤコブ 2:6 からすると、聞き手の人々もほとんど日常的にその脅威にさらされていたようです。

かれらを保護していたのは、律法だったのでしょう。
ヤコブの手紙の著者は、律法のことを、「自由の律法」(1:25、2:12)と呼んでます。
律法を息のつまるような重荷としてとらえていないのは、その側面があるからだろうと思います。

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ヤコブの手紙の貧困の問題

貧しいということ。
ヤコブの手紙のような短い文書のなかで、貧困の問題が扱われていているのに、
そこを素通りしては、貧困の問題を読まないように努力しているような気分になってしまう。

とはいえ、その当時の貧困の問題など知っているわけでもないですが。

ヤコブの手紙で前提にされているのは、貧しい人々が裁判でまともに権利を守れなかったことです。
土地を所有するような自由農民に裁判への参与の権利があったとしても
(ウェーバーは事実上そのような権利はなかったとしてます「古代ユダヤ教」p84)、
ヤコブの手紙で問題にされているのは小作人か日雇い労働者のようなので、たぶん彼らはろくに裁判で主張を認められず、都市貴族に搾取され、法を歪曲され、債務奴隷化されていたようです。
土地を失って、日雇い労働者になると、雇い主に対して依存関係が生じます。そこで生じる力関係によって弱い立場のものが煮え湯を飲まされることになる。
賃金の不払いや、不当に安い金で働かされるということもあったということでしょうか。
裁判所へ引っ張って行かれる(2:6)というのは、直感的には借金が返済できず裁判所にしょっ引かれてとり立てられたのかいな。
利子はとってはいけないことになってたかと思いますが、読んだ印象ではそこを曲げてとり立てられた話をしているように思えます。

ヤコブの手紙の著者は、終末を遠い未来の話と思っていたわけではないようで、すぐにでも神の国が訪れると考えていたようですが、
そうやって普段目にしている富んだ者たちが一緒に神の国に入るというのは納得できない話だったようです。

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ヤコブにとっての「欲望」とは

ヤコブ 1:14では「欲望」について述べられている。

神は誘惑したりしない。人は自分の欲望に魅かれて誘惑に陥るのだ、という話は説明自体は結構なのですが、「欲望」というのはどのようなものを言っているのでしょう。
パウロの書簡にはときどき「体の欲望」(ローマ 6:12)とか、「肉の欲望」(コロサイ 2:23)といった表現があります。
パウロのように霊肉二元論で考えて、滅びるべき「肉」に囚われた欲望というような意味でしょうか。
(ヤコブ 4:4)では「世の友」となることを願う者は、「神の敵」になると言ってるので、二元論的なニュアンスは近いか。

でも、(ヤコブ 4:1)では、「欲望」は教会での争いの原因になっているものと見なされています。
たぶん、ここで言及されている争いというのは、その当時問題になっていた争いではないでしょうか。
よく言われるようにユダヤの伝統的な律法をまもることと、パウロ神学が、ディアスポラの教会において衝突していたということでしょう。
教会内に教義の解釈にくいちがいが生じて、熱くなってそうとう罵り合っていたということではないでしょうか。

そのような論争をヤコブの手紙の著者は、試練と呼んでいるように思えます。
教義上の解釈の混乱という「試練」は、べつに神が与えたものではなく、ただ人が欲望にそそのかされた結果だと見なしているようです。
ヤコブの考え方の基本的なコンセプトは(マルコ 4:19)あたりに近い気がします。

マルコ 4:19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。

マルコ4章の種まきのたとえは、ヤコブ 1:10-11で似た表現で踏襲されているかも知れません。
ヤコブは教会内の争いを見る時に、「御言葉」が欲望にふさがれてしまっていると捉えたのでしょうか。
富の誘惑が心に入り込んだ者が滅びるという話をしたり(4:13~)、この世の思いにとらわれることへの警告(4:4)は、種まきのたとえを下敷きにしていたのでヤコブにとっては自然な話の展開のつもりだったのではないかと思えます。

そして、それらの論争の結果、どの解釈が正しいかは、言葉上の問題ではなく、行いを伴った問題だと捉えてような感じがします。
言葉の上で正しいかどうかを考えるのではなく、目の前にいる着るものもないような貧しい人を救おうと思わないならば(2:15)、「欲望」によって「御言葉」がふさがれているのではないかと問うているような構成になっているようです。

なので、ヤコブ 1:14はなにか禁欲的な思想を展開しているわけではないだろうと思います。

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ツァイトガイストに関連して

ツァイトガイスト関係でアクセスがあったので、ちょっとその辺の記事を追加します。

ツァイトガイストが謳っている説は、イエスが占星術的な神話に由来した虚構であるというものです。
たしかにイエスの実在を証明するような一次資料はありません。イエスの実在は立証できない。

ツァイトガイストが、12月25日生まれの諸神話をあげていっても、批判としていまいちなのは、それが何百年も後に加わった伝承だからです。
もし批判的に検証しようと思うのならば、後年の二次的な伝承は取っ払って考えるべきでしょう。

イエスとは何者かを説明するときに、原始教会で伝えられていたらしい表現があります。
新約聖書でもっとも古いのはパウロの書簡ですが、パウロの「ローマ人への手紙」1:3-4の言葉から抜粋。

「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」

イスラエルではメシアはダビデの子孫から生まれると考えられていました。
パウロは、イエスはそのダビデの子孫だと言ってるわけです。
ここの「神の子」の意味も養子論的で、死者からの「復活によって」神の子と定められたということは、復活前は何者だと思っているつもりか知りませんが、おそらくパウロは現在の教会よりも「復活」重視な解釈をしているのではないかと思います。

マタイ福音書には、イエスの系図が載っています。ダビデの子孫であることを示す系図です。
でも、この系図は、ルカに伝えられている系図と矛盾します。
さらに、マタイ・ルカの伝承では、イエスはダビデの子孫であるヨセフの子ではなく、マリアの処女懐胎によって生まれたとしています。これは、ダビデの子孫という話と矛盾します。
その場面でマタイではイザヤの有名な預言が引用されます。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる」
でも、インマヌエルと名付けないで、イエスと名付けてしまいます。

「ダビデの子孫」と「処女懐胎」と「その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤの預言は、同時にイエスにあてはめるとそれぞれ矛盾します。
たぶん、「神の子」の意味も、パウロが言っている意味と違っているかなと。

「ダビデの子孫」とか「インマヌエル」とか「神の子」といったものは称号であって、当時メシアとはそういう存在だと思われていたものを反映しているのでしょう。
そういう意味では、異質な説明がされているのは、最古の福音書であるマルコです。

マルコ 6:3
この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。

大工だということはメシアの称号でも何でもないわけです。
まぁ素直に考えて、これが実体に近いところでしょう。

ツァイトガイストのようにイエスが実在しないという説は、僕は賛成しませんが。
ツァイトガイストが批判的に検証するとして、史的イエスの方向に進んでいくならば、やれることは結構あると思う。

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音楽聴いて慣れるのもいいか

ギリシャ語のポップスなんか聞けば耳が慣れてくるのだろうか。
「Mia Fora (Μια φορά)」という曲はコーラス部分が結構耳に残ります。
歌詞と対訳のサイトも見つけた。「LYRICS TRANSLATE

"Mia fora (with Moutsatsou Katerina)" by Korgialas Dimitris

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手抜きですが

ギリシャ語を勉強すると言っても、相変わらず、まったくの手抜きです。
辞書すら使ってない。ひどいものです。

ちょっと調べる分にはbiblos.comのLexiconのページを見るだけで十分な気がします。
たとえば、マルコ1:1の場合は http://biblelexicon.org/mark/1-1.htm

単語の意味を調べなおすならば、ネストレのウェブ版から開くのが早い気がします。
たとえば「Mark」の1章1節を選択して「Go!」をクリックすれば、ネストレの本文が表示されます。
本文の単語の上にマウスをもって行くと、右下の欄に辞書(リデル・スコット)へのリンクが表示されますので、クリックするだけです。
レキシコンのページが開いたら、イタリック(斜体)で書いてるあたりが単語の定義なので、それをアルクで調べたりします。
(あるいは自力で入力して調べる。「古典ギリシア語入門の定番」あたりの解説など参考に)

単語の意味が分かっても、逆にこの単語の「複数」とか「対格」はどういう形なのだろうと思っても、分かんないときもあります。

その場合は「Interlinear Scripture Analyzer」というフリーソフトが比較的楽に使える気がします。
行間逐語訳というやつです。行間に訳注がついてるソフトです。

ダウンロードなどはこちらでできます。
http://www.scripture4all.org/

Interlinear Scripture Analyzer を起動して章節を選ぶとギリシャ語本文が表示されます。
ギリシャ語の単語を右クリック⇒StrongNoteに設定しておけば、
本文の単語をクリックすると「StrongNote」ウィンドウが開く、そこの「CV」をクリックすると、「concordant view」に変化形がズラッと表示されます。

ISA コンコルダンツ・ヴュー

「Parsing」欄に「n_Gen Sg m」とか書いてあるので、noun - genitive singular masculine (名詞 - 所有格・属格 単数 男性)という意味だろうと分かれば問題なく使えるのでしょうけど、ちと分かりにくいな。
これについては上記のbiblos.comのLexiconのページの方が分かりやすい。

Interlinear Scripture Analyzer というソフトは、写本に問題があるときに色が変わっていたり、マークがついているので分かりやすいです。
たとえば上の画像のようにマルコ 1:1の「神の子」(ギリシャ語ですが)のところなど色がついていてすぐ気付くと思います。
上記のネストレのサイトでも表示はされているのですが、このサイトを見ただけで意味が分かる人はそんなにいないのではないかと思います。
こういう時には僕は、NeXt Bibleの解説を読みます。

NeXt Bibleを開いて頂くと、マルコ1:1 の「the Son of God」のところに小さく3という数字がついてるのが見えると思います。これにマウスを合わせると下のカラムに解説が表示されます(「3 tc」は3番のテクニカルノートという意味)。
重要な写本において「神の子」にあたる語が欠けているため、その語が本文にあったかの信ぴょう性が論争されていることが解説されています。

聖書は、写本によって伝えられていますが、その写本には書き間違いや加筆があり、写本ごとに伝えられている本文が異なります。
どういう根拠でオリジナルの本文と推定されるのか、解説は欲しいところです。
写本に問題のあるところは、ネストレは全部のパターンを参照できるようになっている。
こういうサイトがいろいろあるというのは、聖書学って凄いなと思う。

サイト・ソフトの使い方など間違っているようですたら、ご教示頂けるとありがたいです。

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イサクの燔祭への雑感

いわゆるイサクの燔祭の場面ですが、ヤコブの手紙ではちょっと違う解釈がなされています。
(ヤコブ 1:13)「神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない」
でも、創世記の記載は明瞭に「神はアブラハムを試みて彼に言われた」(創世 22:1)としています。
(ヤコブの手紙の中の「誘惑」と「試み」は同じギリシャ語です。創世記はヘブル語ですが)

ヘブライ人への手紙 11:17-21もまた違う解釈をしています。
「アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」(ヘブライ 11:17)
これはこれで「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」というアブラハムのセリフと矛盾するような気がします(創世 22:8)。

アブラハムの犠牲の物語は一体何なのでしょう。
神がアブラハムの信仰を試して、それを讃える物語のようですが、どうも僕は釈然としないのですけど。
子を捧げるのが素晴らしい信仰であったならば、子供を犠牲に捧げる儀式は当然素晴らしいものと理解されていたということでしょう。

(エレミヤ 7:31)
またベンヒンノムの谷にあるトペテの高き所を築いて、むすこ娘を火に焼いた。わたしはそれを命じたことはなく、またそのようなことを考えたこともなかった。

モレク神への生贄について、異教の神であることを批判している部分ですが、
「そのようなことを考えたこともなかった」というのは子供を犠牲にする儀式が異質なものであったことを表してるように思えます。
エレミヤがアブラハムの伝承を知らなかったりするのでしょうか。
ともかく、人身犠牲、とくに幼児の犠牲はイエスラエル周辺民族でも行われていたようです。
エルサレムの東の山にソロモン王がモレク神のための聖なる高台を築いたとあります(1列王記 11:7)。

アブラハムの犠牲が行われた「モリヤ」という場所は、エルサレムを指していると解釈されているようですが(2歴代誌 3:1)、はっきりしないようです。
七十人訳では「高き地」、シリア訳では「アモリ人の地」となっているそうです(関根正雄訳注 p212。アモリ人はE資料の特徴p206ですが、この場合はどうでしょう)。
サマリア人はゲルジム山であるとしているそうです(「創世記 1」C.ヴェスターマン p367)。ゲルジム山というのはたぶんヨハネ福音書 4:19で言及されている山です。

(創世 22:14 関根正雄訳)
アブラハムはその場所の名前を「ヤハウェ備え給う(イルエ)」と名づけた。今日でも人は、「この山では、ヤハウェ備え給う」と言い伝えている。

ここの地名はマソラ本文では後半の「この山では、ヤハウェ備え給う」は「ヤハウェ、現れ給う」になっているそうです。
ここの口語訳・新共同訳はいまいちですので上記の引用は関根訳です。
現在の訳は、シリア訳、ラテン訳に由来するようです。
「ヤハウェ、現れ給う」は、「モリヤ」という地名と関連があるらしいそうです(例によって関根訳注より)。
地名はこの伝承のまとめの部分に関わるものですが、地名が違うといまひとつ物語がまとまらない感じがします。元の伝承は何か違った形だったのでしょうか。

創世記 22:11から突然「主の御使い」が登場してアブラハムを止めますが、さっきまで直接神が指示していたのに、なぜ止める時だけ「御使い」が来るのでしょう。
御使いというのは、創世記のなかにそんなにはたくさん出てこないのです。
16章のイシュマエルの誕生に関連した伝承(エル・ラハイ・ロイの井戸)と、このアブラハムの犠牲の場面、ソドム滅亡の話(この話は士師記19以降のベニヤミン制裁とよく似ている)。
28章のベテルの伝承の夢と、31章の夢のなかに登場します(夢に出てくるのはE資料の特徴でしょうか)。あと32章の冒頭のマハナイムの伝承(E資料)。
正直、この「御使い」が出てくるところは、若干新しく付加された伝承のような印象をうけます。

こんなことを考えても妄想でしかないですが、創世記22:11以下の「主の御使い」はいなくて、アブラハムはそのまま子供を屠ってしまうような伝承があったのでしょうか。
近くにいた雄羊を犠牲に捧げて済むならば最初から羊を連れていけば済む話になってしまうので、飢饉か何かで犠牲の羊がなかった時に、自分の子を捧げようとする話だったのだろうか。
後に「御使い」と、神の命令の部分が付加されたのならば、初期のユダヤ教で神が試みないとされていたことは説明しやすくなりますが。
あとエレミヤ 7:31も。
あと気になる不整合としては、「愛する独り子イサク」(22:2)ですね。イシュマエルを忘れている。
独り子というか、長子を犠牲とする考え方は古い伝承に由来するでしょうから(出エジプト 34:20後半など)、どちらかというとイサクが後年の付加。
M.ノートはアブラハム自体、この伝承に結びついたのは後年とみてます(モーセ五書伝承史p175)。
M.ノートのアブラハムの伝承についての仮説はとても優れているので、一読の価値ありです。

アブラハムの犠牲の場面は、相当昔からいろいろな解釈がなされていて、本文自体がすでにそれらの影響を受けているような印象があります。
イマジネーションをかきたてるような物語だということでしょうか。

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上村静 『イエスにとっての《神の支配》 その「終末論的」解釈の再検討』を読んで

上村静著「宗教の倒錯―ユダヤ教・イエス・キリスト教」を読んで、ほかに上村氏の本はないのかいなと探してみるとすでに持ってました。
「日本の聖書学 2」に論文『イエスにとっての《神の支配》 その「終末論的」解釈の再検討』 が納められてました。
イエスの宣教のなかにある終末論についての研究です。
あんまり見かける本でもないかと思いますので、内容をちょっと紹介。

上村氏は「史的イエス」というものが史学によって再構成された蓋然的なイエス像であることを確認し、「いかに整合性があってもそれは研究者の仮説に過ぎず、それを史実として提出することはできない」と述べます。
その上で、史的イエス像は信仰にとっていかなる意味を持つか、史的イエスからいかなるキリスト論が成立するかという問いに触れています。
(ブルトマンは史的イエスは信仰にとって意味がないとした。でも、彼の弟子たちは史的イエスとの実存的出会いがキリスト教信仰を基礎づけるものとしているそうです)

イエスの告知の中心が「神の支配」(神の国とも訳される)であったと多くの研究者が考えている。
イエスの言葉のなかに神の支配の未来性と現在性が並存しているため、イエスにとって神の支配は<いまだなお>未来のことなのか、<もうすでに>現在のことになっているのかということに議論は集中してきた。
J.ヴァイスは、「イエスの見解によれば神の国は超現世的な大きさのものであり、それはこの世とは全く対立して」おり、「神の国(あるいは支配)は、ドアの前まで近づいてしまっている。それゆえバシレイアはまだない、しかし非常に近いのだ」と考えた。
A.シュバイツァーは時代に限定された世界観として認識した。
ブルトマンは、ヴァイス・シュバイツァーと同じく、神の支配は全く将来のこととしたうえで、「神の支配は全く将来でありながら現在を全面的に規定する力なのである。それは人間に決断を強制することによって現在を規定する。…人がいつも決断を迫られていて、このことこそ本質的に人の人たる特徴であるなら、実際いつもが最後の時なのだ」とする。
C.H.ドッドは、「近い将来に来る何かとしてではなく、現在の経験の事柄として」神の支配をとらえているとした。
J.エレミアスは「実現しつつある終末論」を提唱し、イエスの神の支配の言葉に未来性と現在性が共存することが確認された。

では、イエスは何によってその終末が実現しつつあると考えたのか。
天変地異も起こっておらず、「人の子のような者」もまだ表れていない時点で、その兆しをどこに見たのか。
多くの研究者は、イエス自身の活動が神の支配の徴だと考えられたのだという。
イエスはそのような「メシア意識」をもっていたのだろうか。
奇跡行為者としてのイエスの活動と、終末の到来との関係を述べている言葉はあまりに少なく、イエスの自意識を説明するには十分なものではない。そのなかでどのようにイエスにとっての神の支配をとらえてゆくべきか。

ここまで7ページほどですが、あと27ページほどにわたって、イエスの神の支配というものはどういうものであるかを福音書の言葉から検証してます。
ここからが面白いのですが、細かな検証については一部だけ引用しても話が通じないので、断念します。

イエスの宣教がどのようなものであったのかという研究は、手堅い手法で新しい側面に切り込んでゆくセンスが重要なのではないかと思います。
新しく切り込めていないならば、それは単に解説書とかお説教のようなものを聞いて鵜呑みにしているだけだからでしょう。
手堅い手法で研究できてなければ、突飛な結論にはなるでしょうけど、そういう珍奇なものはどちらかというと珍しいものではない(と僕は思ってます)。

「日本の聖書学 2」という本は、他にも面白い論文が載ってますが、出版物としては酷い出来です。
変な改行があちこちにある。だれもチェックせずに出版したのだろうか。

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ヤコブ 1:13

μηδεὶς πειραζόμενος λεγέτω ὅτι ἀπὸ θεοῦ πειράζομαι· ὁ γὰρ θεὸς ἀπείραστός ἐστιν κακῶν, πειράζει δὲ αὐτὸς οὐδένα.

(口語訳) だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。

μηδεὶς / μηδεὶς (誰も~ない) − 形容詞: 主格 単数 男性
πειραζόμενος / πειράζω (誘惑される) − 動詞: 現在 受動 分詞 主格 単数 男性
λεγέτω / λέγω (言う) − 動詞: 三人称 現在 能動 命令法 単数
ὅτι / ὅτι (英語のthatに近い) − 接続詞
ἀπὸ / ἀπὸ (of) − 前置詞
θεοῦ / θεὸς (神) − 名詞: 所有格、属格 単数 男性
πειράζομαι / πειράζω (誘惑される) − 動詞: 一人称 現在 受動 直接法 単数
 / ὁ (英語のthe) − 冠詞: 主格 単数 男性
γὰρ / γὰρ (~だから) − 接続詞
θεὸς / θεὸς (神) − 名詞: 所有格、属格 単数 男性
ἀπείραστός / ἀπείραστος (誘惑されえない) − 形容詞: 主格 単数 男性
ἐστιν / εἰμί (行く) − 動詞: 三人称 現在 能動 直接法 単数
κακῶν / κακός (evil) − 形容詞: 所有格、属格 複数 中性
πειράζει / πειράζω (誘惑する) − 動詞: 三人称 現在 能動 直接法 単数
δὲ / δὲ (しかし) − 接続詞
αὐτὸς / αὐτὸς (彼自身) − 人称 / 所有代名詞: 主格 単数 男性
οὐδένα / οὐδείς (誰も) − 形容詞: 対格 単数 男性

「誘惑される時にだれも神から誘惑されると言ってはならない。神は悪に誘惑されて行かないし、また彼自身だれも誘惑しない」という感じでしょうか。

ἐστιν の訳し方が気になりますが、まぁそれよりも内容ですね。

---

ヤコブの手紙の冒頭から語られている試練というものを、神から与えられた試練なのだと解釈していた人は、このあたりで混乱するのではないかと思います。
外部からの弾圧のようなものを想定して読んでいると、神とは関係ないと言われると何だか物足りないのではないかと思います。

ヤコブさんはヨブ記を読んでいないのでしょうか。
あれはあくまで神が行ったのではなく、サタンがやっただけだと考えてるのだろうか。
全能の神には責任能力がないのかという話です。

僕はヨブ9章が聖書のなかで一番好きな部分なのですが、この神義論の凄まじさは、不幸に陥ったときにサタンなど持ち出さずこれを神に帰しているところにあると思います。
この世にある苦しみについて、それを不当であると感じる点について、ヨブは神と対決する姿勢をもっている。
神が全能であるならば、神と対決するしかない。これが潔い。

ヤコブの手紙の著者は、どのように考えているのでしょう。

注解書によると、初期ユダヤ文献には「神からの試み」を否定する考え方も見出されるそうです。
いわゆるイサクの燔祭についても、ヨベル17:16では悪霊の頭領マステマが神に、アブラハムを試みるように勧めたことになっているそうです。
また、ウィキペティアの「イサクの燔祭」には、ユダヤ教での解釈について下記のような記載がありました。

>ハザルによれば、『エレミヤ書』の7章31節に記されているモレク神の人身御供を非難する神の言葉との兼ね合いを考えれば、
>アブラハムに対する命令は神によるものではなく、また神の意思が反映されたものでもないとしている。

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