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2009年4月

「日本語聖書検索 eBible Japan」が復活している。

日本語聖書検索 eBible Japan」が復活している。

やっぱりここは便利だ。使い心地が良いです。

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資料の読み直しなど

ヤコブの手紙は、パウロの神学を批判していると言われてるのでパウロの関連の本を読み直したりしています。

田川建三訳のパウロ書簡を読むと、たぶん伝統的なパウロのイメージとちょっと違うのではないかなと思う。
と言っても、「伝統的なパウロのイメージ」というものを知ってるわけでもないので、ただの想像ですが。
田川氏の訳は、徹底して本文に則し、その細かいニュアンスまでとらえて、ギリギリまで直訳のニュアンスを残しているようです。
それなのに、何か違うと感じるのではないかと思う。

E.P.サンダースの「パウロ」も伝統的なイメージとは異なったパウロ像を描いているようです。
6章では、ルターとパウロの違いについて論じられている部分がある(とくにp99-100)。
パウロはルターと違って罪責意識をもっておらず、「律法の義については非のうちどころのない者」(ピリピ3:6)で、「自分には何もやましいところはない」(1コリ4:4)と思っているような人物であると述べています。

 キリスト教徒の状態をひとことで言い表すルターのことばは、
 パウロのいう「責められるところのない」あるいは「欠点のない」(Ⅰテサ五23)ではなく、
 むしろsimul justus et peccator「義人にして同時に罪人」であった。
 これは、神の目には「義人」であるが、人間の日々の経験においては「罪人」であるという意味である。

サンダースはルターの問題意識からパウロを理解すると、パウロを誤解することになるという。
(サンダースはルターを否定しようなどと思ってないですよ)

で、その罪責意識をもってないパウロのイメージを、田川訳が結構とられえているので、逆に違和感があるのではないかなと思います。
期待したものとちょっと違ったからと言って田川訳を捨てたりしないように。

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資料の整理

批判的な聖書学の本。
信仰者さんに薦めても、迷惑がられるだけ。
アンチな人になら安心して薦められるけど、アンチだとこういう細かい研究は読まないか。
いや、アンチだとプロテスタント神学の本を読むことに抵抗があるかも。
マックス・ウェーバーが好きな人なんかだと、はまると思うのだがなぁ。

ということで、面白いと思うんだけど、薦める相手がいない。
そういう勉強になった本や、読んで面白かった本。

「ヤコブの手紙」辻学
「ガラテア人への手紙」「ピリピ人への手紙」「ヨハネの黙示録 上」佐竹明
「マルコ福音書」田川建三

「パウロ」E.P.サンダース
「宗教の倒錯」上村静
「イエスという男」「書物としての新約聖書」「原始キリスト教史の一断面」「宗教とは何か」「キリスト教思想への招待」「新約聖書 訳と註(1、3)」田川建三

「共観福音書伝承史」「イエス」「ヨハネの福音書」ブルトマン
「イエスの宣教」「イエスの聖餐のことば」「イエスの譬え」「新約聖書の中心的使信」エレミアス
「使徒的宣教とその発展」C.H.ドッド
「使徒行伝と歴史」「受難物語の起源」トロクメ
「時の中心 ルカ神学の研究」コンツェルマン
「古代キリスト教思想家」カンペンハウゼン

「申命記講解」関根正雄 (創世記、出エジプト記、ヨブ記、エレミヤ書、サムエル記、イザヤ書の翻訳)
「旧約聖書の様式史的研究」G.フォン.ラート
「モーセ五書伝承史」「旧約聖書の歴史文学」M.ノート
「モーセ五書の伝承史的問題」レントルフ
「古代ユダヤ教」「宗教社会学」「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」M.ウェーバー

「Q資料・トマス福音書」クロッペンボルグ他
「死海文書の謎を解く」E.M.クック

など。

あんまりちゃんと読めてないけど。

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サティ「グノシエンヌ」

「グノシエンヌ」はウィキペディアによるとギリシャ語の「知る」の動詞の語幹をもとにしてサティが作った造語だそうです。
キリスト教など調べていると、グノーシス派などで結構聞くことのある語です。

Erik Satie - Gnossiennes No 1

「鬼火」という映画に使われていて、静かな中に緊張感のある雰囲気がマッチしていて良かった。
ルイ・マル監督の作品のなかでも突出して鋭い演出の作品だと思います。かなり陰気な映画ですが。
この作品は、小津安二郎監督の「東京物語」に似ていると感じます。
ストーリーとかはまるで違うのですが、独特の緻密な演出が似ている気がするのですけど。
張芸謀(チャン・イーモウ)監督の「紅夢」も、洗練された演出で、これらの3作品は僕の中ではどこか共通した演出論を感じます。楽しい映画ではないのだけど、どれも優れた映画です。芸術よりの映画が好きな人にはお薦めします。

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ヤコブの手紙 1:1-12の構成

ギリシャ語の勉強の仕方もよく分からないので、慣れるために少々意味が分からなくても繰り返し読むようにしてました。
最初にヤコブ 1:1-12まで単語の意味を調べて、繰り返し読んで、大体暗唱できるようになったあたりでこのブログを書きはじめています。

ヤコブの手紙は、韻を踏んでいるようで、結構覚えやすいです。
文末に出て来た単語(あるいは似た発音の語)が、次の文章の最初の方に出て来くるので、暗誦するのに便利な感じです。
演説慣れした人が原稿を書いているような感じがします。覚えやすいように工夫されたセリフのような感じ。
下記の赤い部分が、韻を踏んでいたり、同じ単語が続けて出てくるので覚えやすいと感じる部分です。
(また旧約聖書の引用か、口承伝承の言い回しを用いていると思われるので、当時の人にとっては記憶しやすい要素が多くあると思います)

Ἰάκωβος θεοῦ καὶ κυρίου Ἰησοῦ Χριστοῦ δοῦλος ταῖς δώδεκα φυλαῖς ταῖς ἐν τῇ διασπορᾷ χαίρειν.
Πᾶσαν χαρὰν ἡγήσασθε, ἀδελφοί μου, ὅταν πειρασμοῖς περιπέσητε ποικίλοις,
γινώσκοντες ὅτι τὸ δοκίμιον ὑμῶν τῆς πίστεως κατεργάζεται ὑπομονήν.
ἡ δὲ ὑπομονὴ ἔργον τέλειον ἐχέτω, ἵνα ἦτε τέλειοι καὶ ὁλόκληροι ἐν μηδενὶ λειπόμενοι.
εἰ δέ τις ὑμῶν λείπεται σοφίας, αἰτείτω παρὰ τοῦ διδόντος θεοῦ πᾶσιν ἁπλῶς καὶ μὴ ὀνειδίζοντος καὶ δοθήσεται αὐτῷ.
αἰτείτω δὲ ἐν πίστει μηδὲν διακρινόμενος· ὁ γὰρ διακρινόμενος ἔοικεν κλύδωνι θαλάσσης ἀνεμιζομένῳ καὶ ῥιπιζομένῳ.
μὴ γὰρ οἰέσθω ὁ ἄνθρωπος ἐκεῖνος ὅτι λήμψεταί τι παρὰ τοῦ κυρίου,
ἀνὴρ δίψυχος ἀκατάστατος ἐν πάσαις ταῖς ὁδοῖς αὐτοῦ.
Καυχάσθω δὲ ὁ ἀδελφὸς ὁ ταπεινὸς ἐν τῷ ὕψει αὐτοῦ,
ὁ δὲ πλούσιος ἐν τῇ ταπεινώσει αὐτοῦ, ὅτι ὡς ἄνθος χόρτου παρελεύσεται.
ἀνέτειλεν γὰρ ὁ ἥλιος σὺν τῷ καύσωνι καὶ ἐξήρανεν τὸν χόρτον καὶ τὸ ἄνθος αὐτοῦ ἐξέπεσεν καὶ ἡ εὐπρέπεια τοῦ προσώπου αὐτοῦ ἀπώλετο· οὕτως καὶ ὁ πλούσιος ἐν ταῖς πορείαις αὐτοῦ μαρανθήσεται.

1:12は上記に出て来た単語がいくつかまとまって出てきます。(下線で示している語です)

Μακάριος ἀνὴρ ὃς ὑπομένει πειρασμόν, ὅτι δόκιμος γενόμενος λήμψεται τὸν στέφανον τῆς ζωῆς ὃν ἐπηγγείλατο τοῖς ἀγαπῶσιν αὐτόν.

1:12はキーワードが綺麗にまとめられています。
韻を踏んで話を展開しているわりに、こんな風にまとめられるというのは話の展開が巧いのではないでしょうか。
僕の勝手な妄想ですが、逆に1:12の文を先に考えて、そのテーマに向かって展開するように韻を踏みながら書いて行ったのかなと思います。
そうして頭の中に「試練πειρασμός」「耐えるὑπομονή」といったキーワードがあって、試練に耐えてほしいという文意に沿うように「挨拶をおくるχαίρειν」で韻を踏むので「喜びχαρὰνと思いなさい」と書かれたのかも知れません。

つづく1:12-18も同じように書かれたならば、おそらく1:18を先にテーマとして考えていて、その重要なキーワードを韻を踏みながら展開しているのではないかと思います。
1:18に含まれるキーワードで、繰り返し出てきているのは「生む」です。
この部分はおそらく、自分達が苦難の中にあっても、それは神から罰を受けているのではないということ。自分達が「(神の)御旨のままに、生み出」された者であることを確認しようとしているのではないでしょうか。
これを確認したのは、ひょっとすると教会内で生じた論争から感情的になって相手に対して「神の御旨に反している」と言い合っていたからかも知れません。

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ヤコブの手紙 1:12

Μακάριος ἀνὴρ ὃς ὑπομένει πειρασμόν, ὅτι δόκιμος γενόμενος λήμψεται τὸν στέφανον τῆς ζωῆς ὃν ἐπηγγείλατο τοῖς ἀγαπῶσιν αὐτόν.

(口語訳) 試練を堪え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。

Μακάριος / Μακάριος (祝福された、幸運な) − 形容詞: 主格 単数 男性
ἀνὴρ / ἀνὴρ 名詞: 主格 単数 男性
ὃς / ὃς 関係代名詞: 主格 単数 男性
ὑπομένει / ὑπομένω (留まる) − 動詞: 三人称 現在 能動 直接法 単数
πειρασμόν / πειρασμός (試練、誘惑) − 名詞: 対格 単数 男性
ὅτι / ὅτι (英語のthatに近い) − 接続詞
δόκιμος / δόκιμος (受け入れられる) − 形容詞: 主格 単数 男性
γενόμενος / γίνομαι (~になる) − 動詞: アオリスト 中動相 分詞 主格 単数 男性
λήμψεται / λαμβάνω (取る、得る) − 動詞: 三人称 未来 中動相 直接法 単数
τὸν / ὁ (彼を) − 冠詞: 対格 単数 男性
στέφανον / στέφανος (冠) − 名詞: 対格 単数 男性
τῆς / ὁ (彼女らの) − 冠詞: 所有格、属格 単数 女性
ζωῆς / ζωή (命) − 名詞: 所有格、属格 単数 女性
ὃν / ὃν (who) − 関係代名詞: 対格 単数 男性
ἐπηγγείλατο / ἐπηγγέλαμαι (約束する) − 動詞: 三人称 アオリスト 中動相 直接法 単数
τοῖς / ὁ (彼らの) − 冠詞: 与格 複数 男性
ἀγαπῶσιν / ἀγαπάω (愛する) − 動詞: 現在 能動 分詞 与格 複数 男性
αὐτόν / αὐτός 人称 / 所有代名詞: 対格 単数 男性

---

「試練に耐える者は幸い、受け入れられるようになった者は彼を愛する者に約束された命の冠を得るだろうから」となるのか。

「受け入れられるようになった者は δόκιμος γενόμενος」と訳してみたけど、形容詞とアオリストの動詞が並んでいて、難しい。
試練を耐えられた者は、ということか、もしくは(試練を耐えて)神に受け入れられるようになった者は、というような意味でしょうか。
翻訳・注解をカンニングしながら何とかこんな感じかなと。
「彼を愛する者」の「彼」というのは神を指してる。口語訳のように神と補って書かないと誰の事だか日本語ではちょっと分からないですね。

「~は幸いだ」という形は山上の垂訓などに出てきますが、ちょっと形が違うようです(μακάριοι οἱ .....という形)。
ヤコブのように「Μακάριος ἀνὴρ ὃς .....」という形は、70人訳の詩篇1:1、箴言8:32などに見られるそうです。(p68 辻学「ヤコブの手紙」)

命の冠」というのは、原始教会の終末論的な福音の表現だろうと思います。

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ヤコブ 1:4 だがその忍耐には、完全なる行いを伴わせよ。

ヤコブ 1:4
だがその忍耐には、完全なる行いを伴わせよ。君たちが、完全で、非難されるところのない、[すなわち]何ら欠けのない者となるためである。

辻学訳です。
「完全なる行い」と訳されてはじめて、こんな重要な概念がこんなところに出ていたことに、やっと気づいた。
なるほどぉ。

エルゴンを「行い」と訳べきなんだな。
さらに「完全な」というニュアンスをちゃんと訳さないといけないようです。

僕も一応色々考えたけど、訳というのは難しいなぁ。

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辻学氏の「ヤコブの手紙」の注解書を買った

日曜に辻学氏の「ヤコブの手紙」の注解書を買った。
まだ、ぜんぜん途中までしか読んでませんが、あぁなるほどと思うところが多々あります。
やはり注解書は読んでおくものです。
でも、このテの本はやたらと高い。なんとかならないものなのでしょうか。

---

この本では、ヤコブのいう「完全」と「二心」とは、反対のことを指す術語であるとしている。
「完全」とは、旧約・ユダヤ教的な神への全き服従を指しており、
「二心」とは、神への信頼を欠いた状態であり、ヤコブは「完全 対 二心」という構図で主題をとらえているとのことです。
神に一心に従う態度こそが「倫理的な落ち度のなさ」だとヤコブは主張しているのだそうです。
また、1:9の「低い兄弟」が指している者は、「神の前で自分を低くしている、謙虚な」という意味を込めるために「貧しい」ではなく「低い」という語を使っている、とのこと。つまり、必ずしも貧しい人を指しているわけではないと。

うーむ。いま一つこのあたりには納得できないなぁ。
「二心」という語は別に「完全」の反対という意味ではないと思えます。
まず、ヤコブにとって「完全」という語の反対は、「欠けている」だと思う。
「欠けるところなく完全である」と反対の意味をもつものがあるとすれば、それは「知恵の欠ける者」でしょう。
おそらく、「知恵の欠ける者」というのは、典型的には教育を十分受けられなかった貧しい人なのではないでしょうか。
富んだ者は、どちらかといえば教育を受けていて、そこそこ知恵に長けていたということが前提にあるように思えます。
こういう時に、ヤコブという人は貧しい人の視点に立ってものを考えるタイプなのでしょう。
富んだ者がその知識を振り回して、「知恵の欠けた者」を馬鹿にしたり、軽んじたりすることにヤコブは憤っているのではないでしょうか。
ヤコブは知恵については、神に願えば与えられるのだ、としています。
「二心」というのは、願うときにちゃんと神を信頼して願いなさいという文脈でちょっと出てくるだけです。
ヤコブにとっては、知っておくべきことと言えば、すでに心に刻み込まれている言葉なのであり、何か別に知恵を得なければならないとも思っていないような気もします。
それでも、信徒の中には、「富んだ者はその知識を先に得ているのだから、いくらか有利なのだろう」と思う者もあるかも知れない。
ヤコブはそのような考えを一蹴します。富んだ者は草花のように滅びるのだ、と。

低い者が高く上げられ、高い者が低くされる。
ヤコブはこれを説明するとき、「低い」兄弟が高くされるという表現は、「貧しい」と言い換える必要は感じなかったようです。
しかし、「高い者が」という部分は、「富める者が」と言い換えます。
おそらく理由は二つ。
これによって、「低い兄弟」が貧しい者を指すことが明らかになるのが一つ。
もう一つは、「富める者」を「高い者」と呼ぶ気がしないからでしょう。

ヤコブの意識としては「貧しい者が高くされる」ということに違和感があるから、「低い兄弟」と言い換えたのではなく、これは単に高い・低いという対称表現を残しているだけではないでしょうか。
逆に「高い者」と呼ぶことに違和感があったので、「富める者」と言い換えているのではないでしょうか。
このあたりは、辻学氏の説明とは真逆に感じます。

なので「富める者」が「二心」の具体的な姿として挙げられてりいる(p64)という説明は、いま一つ納得できないです。
「二心」の者は、疑いを持っている人であり、そのような人は滅びるはずだと思い込んでいるので、そんな読み方になるのではないかと。
ヤコブは滅びるとまでは言っていない。

ヤコブは、自分の信仰が検証されることを喜びと思えと言っているわけでしょう。
これはたぶん、自分が信じているものは本当に真実なのか、ということが試されるということでしょう。
とくにここでは、他人の解釈に影響されて、惑わされるような状況があったのではないかと思われる部分です(1:8の2ペテロとの用語の類似から)。
疑ってみても、ちゃんと真実であることが明らかになるのだと思っているということではないでしょうか。
疑うことを原理的に否定するような人のもの言いではないと思う。そういう人だったら考えの違う相手は異端として排除しようとすると思う。

ヤコブは現代人と違って、批判的に検証されても真実であることが明らかになるだろうと、楽観的に考えていているようで、そういうヤコブのスタンスが分かりにくいのではないかという気がします。

…などとグダグダ書いて、ギリシャ語の勉強をさぼる。

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雑感 いのちの冠

次のヤコブ 1:12の「いのちの冠」とは一体何なのでしょう。
新約の書簡を読んでると、ときどき「冠」をもらう話が出てきます(1コリント 9:25、ピリピ 4:1、1テサ 2:19、1テサ 2:19など)
「いのちの冠」という表現は黙示録 2:10にあります。
でも、正直黙示録は何を言っているのかさっぱり分からないですが。

 黙示録 2:10
 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」

読んだ印象では、殉教すると死後に「いのちの冠」が与えられるのだ、という意味のようです。
「死に至るまで」という表現で思い出すのは、フィリピ 2:6-8です。

 フィリピ 2:6-8
 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」

ヘレニズム教会に伝わっていたと思われるキリスト論的な詩を、パウロが模範として手本として引用するくだりです。
内容的には黙示録2:10も、殉教に関するものですので、共通したニュアンスがあるようです。
あぁ、でも黙示録とフィリピの表現に関係があったとしても、それらのような弾圧を受けている印象は、ヤコブの手紙からは感じないですが。
つまり、「いのちの冠」というものは、殉教しなければもらえないものと理解されていたわけではないだろう、と思います。

たぶん、終末において神から栄光を受けて、神の国に入れられ、そこで永遠に生きられるということを「いのちの冠」と表現しているのだろうと思います。
ただ、パウロの表現では信徒が「冠」と呼ばれているのが気になる。

 ピリピ 4:1
 「わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ」

 1テサ 2:19
 「わたしたちの主イエスの来臨にあたって、
 わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、
 あなたがたを外にして、だれがあるだろうか」

このあたりはどういう意味なのだろう。
冠をもらうつもりなのか、冠になるつもりなのか。
たぶん「冠」という語は、神からもらう栄光の象徴的な表現だったのでしょう。
「冠」に一番とか、最初とかいうニュアンスがあって、それが自分達が神にささげられて清められた「初穂」であるというような認識と結びついた表現になったのか。あなた達は最初に清められる、とか、一番に栄光を受けるのですよ、という意味で言ってるのでしょう。
つまり、パウロは終末において、信徒たちの存在を自分の功績として神に認めてもらうつもりでいるようです。
パウロの表現では、信徒が捧げものという感じ。
で、自分は冠をもらうみたい。
そのへんはパウロの使徒としての自負の表れでしょうかね。

ヤコブの表現は微妙に違っていて、ヤコブを含めてみんなが初穂になるし、たぶん頑張り通した人はみんな冠がもらえると思っているみたい。

 ヤコブ 1:18
 「父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、
 真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである」

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