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雑感 いのちの冠

次のヤコブ 1:12の「いのちの冠」とは一体何なのでしょう。
新約の書簡を読んでると、ときどき「冠」をもらう話が出てきます(1コリント 9:25、ピリピ 4:1、1テサ 2:19、1テサ 2:19など)
「いのちの冠」という表現は黙示録 2:10にあります。
でも、正直黙示録は何を言っているのかさっぱり分からないですが。

 黙示録 2:10
 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、いのちの冠を与えよう」

読んだ印象では、殉教すると死後に「いのちの冠」が与えられるのだ、という意味のようです。
「死に至るまで」という表現で思い出すのは、フィリピ 2:6-8です。

 フィリピ 2:6-8
 「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた」

ヘレニズム教会に伝わっていたと思われるキリスト論的な詩を、パウロが模範として手本として引用するくだりです。
内容的には黙示録2:10も、殉教に関するものですので、共通したニュアンスがあるようです。
あぁ、でも黙示録とフィリピの表現に関係があったとしても、それらのような弾圧を受けている印象は、ヤコブの手紙からは感じないですが。
つまり、「いのちの冠」というものは、殉教しなければもらえないものと理解されていたわけではないだろう、と思います。

たぶん、終末において神から栄光を受けて、神の国に入れられ、そこで永遠に生きられるということを「いのちの冠」と表現しているのだろうと思います。
ただ、パウロの表現では信徒が「冠」と呼ばれているのが気になる。

 ピリピ 4:1
 「わたしの喜びであり冠である愛する者たちよ」

 1テサ 2:19
 「わたしたちの主イエスの来臨にあたって、
 わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、
 あなたがたを外にして、だれがあるだろうか」

このあたりはどういう意味なのだろう。
冠をもらうつもりなのか、冠になるつもりなのか。
たぶん「冠」という語は、神からもらう栄光の象徴的な表現だったのでしょう。
「冠」に一番とか、最初とかいうニュアンスがあって、それが自分達が神にささげられて清められた「初穂」であるというような認識と結びついた表現になったのか。あなた達は最初に清められる、とか、一番に栄光を受けるのですよ、という意味で言ってるのでしょう。
つまり、パウロは終末において、信徒たちの存在を自分の功績として神に認めてもらうつもりでいるようです。
パウロの表現では、信徒が捧げものという感じ。
で、自分は冠をもらうみたい。
そのへんはパウロの使徒としての自負の表れでしょうかね。

ヤコブの表現は微妙に違っていて、ヤコブを含めてみんなが初穂になるし、たぶん頑張り通した人はみんな冠がもらえると思っているみたい。

 ヤコブ 1:18
 「父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、
 真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである」

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