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「ツァイトガイスト 時代の精神」 キリスト教は太陽信仰に由来するのか

「ツァイトガイスト 時代の精神」の動画の15分40秒あたりから、太陽信仰と見なされる根拠となる聖書箇所が挙げられている。
でも、文脈を確認してみると、太陽信仰を示唆するものはほとんどないと思います。

(マタイ 28:6)
もうここにはおられない。
かねて言われたとおりに、よみがえられたのである
さあ、イエスが納められていた場所をごらんなさい。

⇒「よみがえられたのである」(マタイ 28:6)の部分は、英語訳ではhe is risen (彼は起こされた)のようです。
太陽が昇る(rise)ことの象徴表現だという説のようです。
riseと訳した元のギリシャ語のἐγείρωは、起きる、目を覚ますという意味の語です。死人が起こされたので「よみがえらされた」と訳してるわけです。
でも、おそらく太陽が昇るというのはἀωατέλλωを使うと思います(ヤコブ 1:11)。ギリシャ語だとニュアンスの違う語ではないかと思います。英語だとどちらもriseなのでしょうけど。

(2コリント 4:6)
「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、
キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、
わたしたちの心を照して下さったのである。

⇒「栄光」と言うだけで、太陽信仰だというのはどうでしょう。

(ローマ13:12)
夜はふけ、日が近づいている。
それだから、わたしたちは、やみのわざを捨てて、
光の武具を着けようではないか。

⇒光とか闇というのは、とても一般的な譬えに思えます。

(ヨハネ福音書)
3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
3:13-14 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。
14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
9:5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
19:5 イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られると、ピラトは彼らに言った、「見よ、この人だ」。

⇒「新しく生まれる」ということが、陽が沈み、また昇ってくる太陽信仰を意味する、というのも強引な解釈です。
ヨハネ福音書で問題になりそうなのは、3:13「天に上った者」と9:5「世の光」ぐらいでしょう。
ヨハネ福音書は、光と闇の二元論をとっているので、光という表現は出てきますね。
「天に上った者」(3:13-14)については、続く文章で「モーセが荒野でへびを上げたように、上げられなければならない」とあります。「太陽のように」などと書いてあれば、分かりやすいのですが、前後関係からは太陽信仰を示唆する要素はないと思います。
「いばらの冠」となっているところが、ツァイトガイストの字幕では「光の冠」と訳してました。その翻訳の根拠はともかくとして、描かれている場面はローマに逮捕されたイエスが痛めつけられ、「いばらの冠」をかぶせられ、磔刑へといたるところです。人々は奇跡を起こせないイエスを罵る。
この一連の場面には「光の冠」のような神秘的な要素は出てこないのが特徴だと思います。

(マルコ13:26)
そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。

⇒これは旧約聖書のダニエル 7:13の引用ですね。幻想的な黙示文学の表現ですが、それでもとくに太陽信仰の要素はないと思います。

キリスト教が太陽信仰に由来するというツァイトガイストの主張は、それほど根拠がないように思えます。

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