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ヤコブ 1:11の雑感

原始教会では、信徒になれば死なないと教えられていたらしい痕跡が残っています。

 「ヨハネによる福音書」8:52-53
 ユダヤ人たちが言った、「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今わかった。
 アブラハムは死に、預言者たちも死んでいる。
 それだのに、あなたは、わたしの言葉を守る者はいつまでも死を味わうことがないであろう、言われる。
 あなたは、わたしたちの父アブラハムより偉いのだろうか。
 彼も死に、預言者たちも死んだではないか。
 あなたは、いったい、自分をだれと思っているのか」。

「死を味わうことがない」と謳っていることについて批判を受けているようです。
これは終末論と関係があるのではないかと思います。
つまり、終末が迫っていて、死ぬ前に神の国がやってくると考えられていた。
この世の終末が到来し、「言葉」を守っているものは神の国に入れられてそこで生き続けられる、ということでしょう。
永遠の命というのも、おそらく指している内容は同じものなのだろうと思います。

 「マルコによる福音書」9:1
 また、彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。神の国が力を持って来るのを見るまでは、
 決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

しかし、原始教会が考えていたように終末はすぐには来なかった。
信徒のなかに亡くなる者も出てくる。
教会は信徒が亡くなる原因をその人の罪に求めたようです。

 「コリント人への第一の手紙」11:29-30
 主のからだをわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分にさばきを招くからである。
 あなたがたの中に、弱い者や病人が大ぜいおり、また眠った者も少なくないのは、そのためである。

使徒行伝5:1-5:11も、教会に属する夫婦が亡くなってしまったことについて、
そこに何か罪があったからであろうと、考えられていたことから生じた伝承ではないかと推測する学者もいます。
パウロは、先に亡くなった信徒は終末において復活し救われると期待しているようです。

 「テサロニケ人への第一の手紙」4:13-15
 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。
 望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、
 同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
 わたしたちは主イエスの言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、
 眠った人々より先になることは、決してないであろう。

おそらく、使徒が生きている間に神の国が到来すると考えられていたかと思いますが(マルコ9:1)、
使徒も殉教したりするとそれも期待できないようになります。

 「ヨハネによる福音書」21:23
 こういうわけで、この弟子は死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった。
 しかし、イエスは彼が死ぬことがないと言われたのではなく、
 ただ「たとい、わたしの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、
 あなたにはなんの係わりがあるか」と言われただけである。

終末がいつなのか、神の国はいつ到来するのかという問題に原始教会は悩まされていたように思えます。
「テサロニケ人への第二の手紙」2章では、「不法の秘密の力」によってその到来が阻止されているとして終末の遅延を説明しています。
「まず背教のことが起こり、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない」(2テサ 2:3)と終末の発端のようすを説明します。
(これはマルコ13章の「荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つ」というのと同じことを指しているようです)

 「マルコによる福音書」13:32-33
 その日、その時は、だれも知らない。天にいる御使たちも、また子も知らない。ただ父だけが知っておられる。
 気をつけて、目をさましていなさい。その時がいつであるか、あなたがたにはわからないからである。

最初に書かれた福音書マルコには
「よく聞いておくがよい。神の国が力を持って来るのを見るまでは、決して死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」
と断言されていますが、この言葉を伝承するときルカ福音書9:27では「力を持って来る」という部分が削られます。
「よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」(ルカ 9:27)
神の国の到来を伝える伝承が、神の国を「見る」だけに変わっています。

神の国の到来を強く期待しながら、それがいつの日か分からないし、いつになっても構わないのだと考えるようになるようです。
これは原始教会が終末の遅延に苦しみながら得た結論ではないかと感じます。

ヤコブの手紙で、「富んでいる者も、人生の半ばで消えうせるのです」(1:11 新共同訳)と言っているのは、
神の国が到来する前に、富んでいる者は死んでしまうのだと言っているのだろうと思います。
そして、死を招かないように罪を避けるべきだと考えているのではないかと思います(ヤコブ1:15)。

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ヤコブの手紙 1:11~20」カテゴリの記事

コメント

神の国の到来は、イエス・キリストが山上で変貌した時に決定付けられたと考える立場も有ります。
そうすれば、イエスの言葉を聞いた弟子の中の三人が神の国の到来を目撃したことになります。
そして、十二弟子達が皆殉教しても、イエス・キリストの言葉に間違いは無かったということになります。

イエス・キリストは別の箇所で、神の国はあなた方の間に有ると言いましたから、もうその時点でも到来していたと考えて良いのではないかと思います。もっと具体的な表れを求めるなら、キリストの復活と昇天及びペンテコステの聖霊の満たしで十分であると考えられます。また、イエス・キリストが扱っていた神の国の到来は、再臨とも区別されているように思います。ですから、初代教会の弟子達も、神の国の到来については疑いは持っていなくて、再臨の方が遅れていると思ったのではないかと思います。

富と神の国の力は、イエス・キリストも扱っていて、富は神の国を継ぐ力に成り得ないということを述べています。御指摘のヤコブの1:11も、そういう比較の中で扱っているもので、具体的にクリスチャンの金持ちが滅びるという予告ではありません。15節はもっと原則的なことの説明です。

投稿: woody63 | 2009年3月29日 (日) 16時42分

追加です。

先に御紹介した、変貌の山での出来事を神の国の到来と判断する立場の強みは、「ここに立っている者の中にいる」という言葉によく合う点に有ります。その表現を考えると「ここに立っている者の中にも、見ない者もいる」という判断もできるのではないでしょうか。すると、三人しか見なかったということは状況に合うのです。

一方ペンテコステの方を考えると、殆どの弟子がそれを体験もしくは伝え聞くということを通して、神の国を見たことになり、見ない者の存在を考える方が難しくなります。

投稿: woody63 | 2009年3月29日 (日) 16時48分

度々すみません。

>原始教会では、信徒になれば死なないと教えられていたらしい痕跡が残っています。

これは考え過ぎであると思います。
と言いますのは、イエスも、弟子達が殉教する可能性について触れていますし、実際に12弟子の一人のヤコブやステパノという執事は使徒行伝の早い時期に殉教しているからです。

投稿: woody63 | 2009年3月29日 (日) 16時52分

woody63さん、コメントありがとうございます。

「山上の変貌」が神の国の到来の目撃したこととする立場は存じませんでした。勉強になります。


>クリスチャンの金持ちが滅びるという予告ではありません

弟子と一般の信徒とは、読んでいると基準がちょっと違うように感じる部分があります (弟子にはかなり厳しい)。
一般の信徒…というか、イエスが教団をつくってたのでなければ、基準などなくて、そのまま一般の人々に語りかけていたわけですよね。
イエスは受難を予告してますが、その活動のなかで自分が弾圧を受けることが予測できたなら、
同じように弾圧されるであろう弟子について、よほど信念をもった者でないと入れなかったのかも知れません。
マルコ10:21の「財産をみな売り払って貧しい人々に施せ」は、それぐらいできないと弟子にすべきではないと判断していたのかも。

弟子に求めるものは厳しいですが、その一方で、
おそらく一般の人々へ、貧しい人々が神の国へ入ると語っていたようです。

多くの譬え話は、罪人と見なされていたり、ろくに義務を果たせていないと見なされていた人々が、
神から熱烈な歓迎を受ける理由を説明しているようです。
それならば、弾圧が予測される時の弟子入りの基準と、
貧しい人々への労苦について神がそれに報いてくれるだろうという宣言は、別の基準のものであろうと思います。

変につなぎ合わせて、キリスト教徒の人が金をもっていてはいけないかのように捉えてはいないつもりです。

でも、(マルコ 10:25)は、金持ちも救われると言いたければ、別の言い方をすると思います。
これを救われるという意味に解するのは、
目に丸太が入ると、他人の目のおがくずまで「よく見えるようになるのだ」と理解するようなものでしょう。


>十二弟子達が皆殉教しても

ステファノや大ヤコブが殉教しても、使徒のうちの誰かが生き残っている間に…という期待があったかなと。

イエスがどのように語ったかはともかくとして、「神の国が力を持って来るのを見る」ということを、
原始教会がはじめから「山上の変貌」のように理解していたわけではないだろう、という気がします。

再臨と、終末と、神の国の到来を区別したとしても、
ヨハネ福 8:52のように、死を味わうことがないであろう、と語っていたらしいことは残ります。
死を味わうことがない、ということと、死んで復活するということは、僕の感覚ではかなり異なります。

もしはじめから死んで復活するという意味で理解されていたならば、
1テサ4:13-15のような誤解がどうして生じるのか説明できなくなります。
また、1コリ 15章を読んでも、元来は死なないとだけ宣教していたのではないかと感じます。

 ルカ 11:20
 しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、
 神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

神の国の到来をすでにイエスが感じていたとすれば、尚のこと信徒は自分はすでに死なないと思っていたかも知れないわけです。
再臨、終末、神の国の到来と、死なないということは、当時はそんなに区別されてなかったかと思います。

でも、まぁ非信者の読み方は、いくらか曲げて捉えてしまっているかとは思います。

投稿: KAZIST | 2009年3月29日 (日) 20時50分

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